読書」カテゴリーアーカイブ

「教育『改革』批判リストラされる知」

「教育『改革』批判リストラされる知」『情況』(情況出版,1997.11)をパラパラと読み返す。
当時、この雑誌を読んで、当時立正大学教授の清水多吉先生の講演会を計画したのか、実施後に手に取ったのか記憶が定かではないが、大学教育に対するゴリっとした批判論集となっている。

柄谷行人+絓秀美+水島武(駒場寮生)の3者での「東大は滅びよ」と題した座談会で、柄谷氏は次のように述べる。

(東京大学教養学部の小林康夫氏や船曳建夫氏をあげて)彼らのやっていることは、日本の中の表象づくりでしょう。『知の技法』なんて予備校の参考書だけど、予備校の教師もバカにしている。ゴミみたいなもんだからさ。本当に東大の表象だよ。あんなものを書いて外国で通用する奴なんか一人もいない。はっきりそう言える。だから、連中が何をしようが、もう死んでるだからさ、改革なんてしようがない。死んでることを認めればいいんですよ。日本資本主義としても認めないよ。ああいうのは(笑)

気持ちの良いほどの切れ味のある批判である。ここから「知の解体」という講演会が生まれたんだっけ。

また、「『知の抹殺』への警鐘」と題した立正大学教授清水多吉+明治大学教授後藤総一郎+大東文化大学教員吉田憲夫の3者の座談会の中で、清水多吉氏は次のように述べる。

現代は社会・文化のいずれの局面をみても、一見、弛緩現象が目立っているように見えますね。しかし、現実には様々な社会のシステムが張りめぐらされて、われわれを縛りつけていますよね。社会システム論者のルーマンの科白で言うなら、われわれの身のまわりの様々なシステムは、極めて閉鎖的であり、その上でシステム自体が自己増殖性をもっている。経済のシステム、法のシステム、教育のシステム、消費生活のシステム•••・果てはライフ・サイクルのシステムまで。大学教育だって例外ではない。この社会のシステムにチエックと反省を迫るのは、今のところどこにもない。それは「生活世界」だという意見もあるが、大学には「生活世界」はない。ただし、「生活世界」の原理であるシンボルに媒介された相互行為は原則的に残されているはずです。平たく言えば、たとえどんな小さな可能性であっても、閉鎖的システムに対する反省を迫る「討論の場」であるべきだというのが私の思いです。だけど、現状は「何をとぼけたことを言っているんだ」という雰囲気になっており、現状システムを作動させるスキル(技術)を学ぶことで手いっぱいというところです。

大学について「閉鎖的システムに対する反省を迫る討論の場」という言葉が印象に残った。

『ことばの力』

川崎洋『ことばの力:しゃべる・聞く・伝える』(岩波ジュニア新書,1981)をパラパラと読む。
著者自身が「わたしにとっては、いちばんむずかしい項目について述べなければならなくなりました。というのは、私自身ずーっと、自分の感じたことを、散文ではなく詩で表現してきましたから、「自分の考えを伝える」ということは、得意ではないと思っているからです」と本音をもらしているように、川崎氏は韻文専門の人と思い込んでいた。

しかし、新書丸ごと、言葉や用例、詩を参考にしながら、あいさつの言葉や驚きの言葉、悪口、ユーモア、悲喜、恋愛、電話の語り口、方言など、言葉にまつわる説明が分かりやすく書かれている。読みやすく味わい深い評論で、かつ、ところどころに著者自身の体験や感情も挿入されており、一流の評論文となっている。

『医者と患者と病院と』

砂原茂一『医者と患者と病院と』(岩波新書,1983)をパラパラと読む。
手に取ったのが、1996年発行の第28刷であり、ベストセラー作品となっている。まえがきのところで著者自らが「医学専門家への問題提起と一般市民への啓蒙という二股かけた企てが、結局アブハチとらずに終ったのではないかと恐れています」と吐露しているように、主に医学生向けの基礎講座的な内容となっている。これまでの医者の権威に頼ってきたタテ型の医療ではなく、患者を真ん中にして、医者や看護師,薬剤師などの医療関係職種がヨコに連携したチーム医療に変えていくことが求められ、根本的な頭の切り替えが必要だと述べる。

現代では当たり前となったチーム医療であるが、40年前までは未来の医療であったのだ。その他,医療の歴史や諸外国との比較データも掲載され、これぞ岩波新書といった完成度である。

「大学と教育への異議申し立て」

『情況』(情況出版,1994.6)をパラパラと読み返してみた。
「大学と教育の異議申し立て」という特集で、予備校講師の表三郎先生や酒井敏行先生、青木裕司先生など、参考書や実況中継でお世話になった先生のコメントが興味深かった。まだ世田谷区長になる前のジャーナリスト保坂展人も座談会に参加している。

多くの特集記事の中でも、学生座談会が興味深かった。「変貌する”学生”と大衆闘争の可能性:セクト・ノンセクトの対立図式を克服しよう」というテーマで、当時東京大学駒場寮の廃寮阻止運動や京都大学吉田寮自治会、同志社大学や中央大学で自治・反戦運動を行っていたノンセクト学生8名の座談会である。ノンセクトセクト主義やセクトほど一貫していない運動スタイルの是非について論じている。最後に同志社大学の辻泰世さんのコメントが印象に残った。それ以降の野宿者運動や反原発運動、反安保運動を予期したような言葉であった。「陣地としての大学」という言葉印象に残る。

運動というときに単線的なイメージではこれからは絶対駄目だと思う。もうちょっと現実的に何を創るかということを考えて、多様なものを包摂していくことをやらなければ駄目。世界のことを考えるのは、もちろん重要なことだけど、まずはどういう場としての運動を創っていくかということだと思う。大学はその拠点になる。歴史的にもそうだったと思う。機動的には個人でもいろいろやれるところはあるんだけど、陣地としての場としての大学は重要だ。そういう風に考えてやっていきたい。

『川に親しむ』

松浦秀俊『川に親しむ』(岩波ジュニア新書,2000)をパラパラと読む。
著者は大学の専門家ではなく、大学で水産生物学を学び、高知県庁に勤務する役人である。海辺の小動物や魚の生態の項は飛ばしてしまったが、川の流れの部分は面白かった。護岸工事をしていない自然の川には「蛇行を繰り返している」点と「水の深さや流れの速さの異なる部分があり、それらが交互に現れている」という特徴がある。「瀬」は水深も浅く、流れも急で、河床の石も大きいため、水面が波立って見える。一方、「淵」はその反対に、水深も深く、流れもゆるく、河床の小石混じりの砂や泥からできており、水面も穏やかで、ゆったりとした感じのところです。

川の環境というと水質や水量ばかりに目が向きがちであるが、多様な川の流れが多様な生物の環境を作り出している点にも注目していく必要がある。