『兎の眼』

先程やっと中間テストの採点が終わった。いつもながらぎりぎりに問題が出来、ぎりぎりに返却となった。早め早めと思っているのだが、締め切りが近づかないとやらないのは学生時代の悪習か。
生徒には「計画的に」と口を酸っぱくしつつも、言うは易く行うは難しを実感する。

今灰谷健次郎の『兎の眼』を読み返している。
読みながら生徒のことを「受け止める」ことの複雑さを感じる日々である。

『FRONTIERS【宇宙】謎の収集』

昨日はアイザック・アシモフの『FRONTIERS【宇宙】謎の収集』(青春出版社 1991)を読んだ。
内容は興味深いのだが、訳がよろしくない。直訳調の日本語で読点の打ち方が悪く、文章にリズムがない。
読みながら、様々な情報が光ファイバーの整備でどんどん光速に近い速さで流通しているが、それを越えるものがあるという星新一の言葉を思いだした。相対性原理に従うならば通信技術がどんなに進んでも、光速を越えて伝わる情報は存在しえないが、事実はそれよりはるかに速く、宇宙の裏側にまで一瞬で伝わる。つまり地球から何十光年も彼方の星に住んでいる夫に、地球に住む妻から子供が産まれたという情報を光速で送っても、夫に届くのは何十年も先であるが、夫が父親になったという事実は子供が産まれたという事実は瞬間に夫に届けられるというものだ。

『驚異の速学術』

今日は、黒川康正『驚異の速学術』(実業之日本社 1986)という本を読んだ。
「あるグループの重要な項目は、全体の中で比較的小さな割合を構成する」という、有名なパレートの「80対20の法則」をどう授業の中で交えていくのか考えた。パレートの法則は野口由紀雄の「超勉強法」の中でも重用視されているが、いざそれを教える側がどう使っていくのか工夫が要る。またこの本の中で効率的記憶の方法として「ツリー式」や「意味付け」「繰り返し」なども紹介されていたが、古典文法や漢文法、評論文用語などにも創意工夫が必要である。

『野火子』

一昨日は五木寛之の『野火子』(講談社 1990)という小説を読んだ。
作品自体は「青春の門」の亜流に過ぎないものだ。その中で登場人物アキラのセリフに「人間とは他人の不幸があって自分の不幸がわかる。(中略)快楽とはつきつめると他人と自分の間の差を実感することに過ぎない」とある。この作品が1968年に発表されたものであるが、現在の五木寛之の「生きるヒント」に代表される「記号論的中庸宗教論」がかいま見える気がする。その解説にある五木の言「人間には、航海者と、漂流者の二つのタイプがあるように思う。はっきりした目標を持って、天測を重ねつつ未知の大陸をつきすすむ航海者。潮流にまかせて、膝小僧をかかえながらぼんやり流れて行く漂流者」に懐かしみを感じた。

PRIDEーG

昨日テレビでプライドグランプリを見た。桜庭がホイス・グレイシーを破った試合が印象深かった。ホイスが大道塾の市原海樹を腕ひしぎでKOしたのが94年のアルティメット大会であった。それからというもの日本の格闘技界の異変が起こった。まずプロレスと格闘技の別がなくなった。10年前を振り返って見ても、あまりにその変化が激しくてその軌跡をたどることは難しい。この間骨法が、シューティングが、大道塾が、高専柔道が、レスリングが大きく変わった。その中で武道的なものもまた失われていった。極真が今や空手界の保守的立場に置かれている現実をもう一度考えてみる必要がありそうだ。