読書」カテゴリーアーカイブ

『ザ・有名私立』

寺田隆生『ザ・有名私立』(三一書房)を読む。
題名からすると、受験案内のマニュアルのような雰囲気だが、さすが(?)というべきか、三一書房だけに日本における私学教育全般への批判、公立教育への疑問がベースになっている。そして「ウパニシャッド」哲学の「輪廻転生」の教えから、子供は親の付属品ではなく、一人一人の人間が「梵我一如」を希求する魂を宿しているものであり、それゆえに「幸福である自分」を探すことが大切だと述べるのだ。その点の見解の一部を引用したい。

「情けはひとのためならず」という。(中略)ひとに情けをかけておけば、それがやがて、めぐりあって自分にもどってくる。情けをかけるのは、ひとのためではなく、じぶんのためなのだ、という意味である。だがこれでは、情けをかけるのはそのときはいやいやながら、いつか自分にもどってくる自分への利益を期待してがまんしてそうしようという、いかにも下心が露骨であろう。私はむしろ、一歩も二歩も踏み込んで、情けをかけるそのこと自体が波紋をひろげることだと解釈したい。情けはかけてあげるのではなくて、かけさせていただくのである。それを波紋を起こす石の形や種類と組み合わせれば、個性の発見と自分らしさへのこだわりが、いかにも大切なものかがわかる。

『蒼ざめた馬を見よ』

五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』(文春文庫)を十年ぶりに読み返す。
冷戦時代の60年代の作品でありいささか時代状況が古いが、正直面白かった。高校の時分にどのような感想をもっていたのか忘れてしまったが、全共闘運動華やかりし頃、バリケードの中で学生に支持された作家として五木寛之と高橋和己の名前が取り上げられるが、デビュー当時の五木氏の作品には確かにその息吹きを感じる。しかし現在の五木氏の作品から往時の迫力が消えてしまった点については様々な時代の分析待たれるであろう。

生徒への返信〜聖書

『創世記』を巡る解釈は無数にあると思うのですが、「禁断の果実」は人間の好奇心の象徴であり、神の言い付けを破ってしまうほど、人間は好奇心に溢れている動物であり、そして特に男性がその時々の社会的規範を逸脱しがちであるということを示唆しているというのが一般的な解釈ではないでしょうか。そしてエデンの園を追われた人間の先祖はその誕生から神に見放された存在であり、以降のバベルの塔や勇者ロトの悲劇の記述につながっていくのではなかったでしょうか。高校時代に読んだ聖書の記憶を今たどっているのですが、はっきりしません。抑圧と解放という観点ではなく、神への信心と好奇心という観点で見ていくべきものではなかったかと思います。抑圧と解放という視点で言うならば他にどのような具体例が挙がるでしょうか?

『戒厳令の夜』

五木寛之『戒厳令の夜』(新潮社)を十年振りに読み返した。
前半部は大和朝廷からの支配を逃れた「山家」の伝承をフィクション化したものであるが、後半部はガラッと趣を変え、チリのアジェンデ政権の崩壊を内部から描いたものである。高校生の時に読んだときはあまり感動はなかったように記憶しているが、今読み返してみて、特に後半部の1936年のスペイン戦争と1973年のアジェンデ政権崩壊を一つの流れとして捉える視点は面白かった。物語中で、36年のスペインにて人民戦線側として活躍したパブロ・カザルスやピカソらが今度はチリに合法的に選挙で選出された人民連合の応援に回るのだ。しかしその人民連合は資本主義の強大国アメリカの策動につき悩まされ、一方で武装化を計る社会党左派、左翼青年組織を持て余しているという微妙な位置にいる。そしてカザルスやネルーダも人民の側に付きたいという良心をうまく政治的に利用されてしまう。この作品はそうした脆弱なアジェンデの政治的基盤をうまく浮き彫りにしている作品であった。

『パソコン教育不平等論』

渋谷宏『パソコン教育不平等論』(中公PC新書)を読む。
硬直化した既存の学校教育に対してインターネット教育を礼讃するというありふれた内容。古い本であるが、内容的には読むに値せず。しかし一つ、イヴァン・イリイチの『脱学校の社会』から「オポチュニティ・ウェブ」の考えを引いた点が引っ掛かった。現在の教育界におけるインターネットの利用状況から鑑み、イリイチ的な公教育論批判は当てはまらないだろう。