読書」カテゴリーアーカイブ

『ネット王子とケータイ姫』

夏休みの13冊目

香山リカ+森健『ネット王子とケータイ姫』(中公新書ラクレ,2004)をパラパラと読む。
2004年6月に長崎県佐世保市の小学校内で、6年生の女児が同級生を殺害した事件の背景にインターネットの書き込みトラブルがあったという書き出しで始まる。ネットが犯罪を誘発しているのではないか、ネットは子どもの成長によくない、ケータイ友達が危険な人間関係を作り出す、ゲーム依存症は暴力性を生むといったネットやケータイに対する批判を取り上げ、そうした批判を生み出してしまう日本の社会や教育の貧困を批判するという内容である。といっても、これといった解決策はなく、ネットやケータイはあくまで道具であり、生身の親子関係、友達関係を十分に作ることが大切であると述べる。

『動人物』

夏休みの読書12冊目

日高敏隆『動人物:動物の中にいる人間』(福村出版,1990)をパラパラと読む。
前半は動物性を有した人間の生態について、後半以降は動物の記憶や学習、自殺、親子関係など、動物の生態について論じられている。私は動植物の分類学と生態学が最も苦手なので、後半は読み飛ばした。前半の人間の行動原理に関する話が面白かったので、引用しておきたい。

オスは自分では子を産めない。自分の遺伝子を持った子を作りたいと思ったら、メスに産んでもらうほかはない。オスたちが必死になってメスを探し求めるのも、あらためてよく理解できる。
メスの数は限られているし、一繁殖期にオスと交尾した回数に応じて何回も子を産めるわけではなく、産む子ないし卵の数も限られている。そこでオスは、いわば自分の遺伝子のシェアを増やすためには、メスの獲得をめぐって、オスたちの間でははげしく争わなければならない。これはオスの宿命である。どれほど「平和的」にみえるおとなしそうな動物でも、少なくとも繁殖期には、オスは猛烈に闘争的になる。
こういうわけで、とにかくオスは闘争的、攻撃的である。子ども時代はべつとして、大人になったオスどうしの関係というのは、基本的には、つねにライバル以外の何物でもない。どの動物でも、無用な闘争を避けるためにいろいろな手段が採用されているけれども、えてしてそれが効力を失い、すぐ闘争に発展する。オスがメスより体が大きく、力も強い動物が多いけれども、これもひとえにこのライバル闘争のためであって、外敵から身を守るためのものではない。もし外敵から身を守るためならば、子を育てるメスのほうがそのような武力をより多く備えているべきなのだ。

上記の文章は、人間を含めた動物のオスの生態学である。さらに次のように続く。

いかなるオスも「勝たねば」ならない。さもなくば食物も、なわばりも手に入らず、したがってメスも手に入らない。そうなったら、自分のフィットネス(自分の遺伝子を残すための適応度)を高めることは不可能である。だからオスは、何としても勝つ必要があるのである。負けたときは、自分のフィットネスを高めることは断念せねばならない。
(中略)では、負けたオスはどうするのか。(中略)負けたときはそれを諦めることになる。そこで、負けたオスは、そのシーズンは諦めるのである。次のシーズンにあらためてチャレンジする。そのときもまただめなら、その次に期待する。こうしていつか目的を達することになる。

この章の最後は次の文章で締められる。人間の男のカッコよさというか、哀れさを感じてしまう。

本来フィットネスというのは、自分の遺伝子をもった子孫をどれだけ多く後代に残せるかということであった。しかし人間は遺伝子以外にも後代に残すべきものをもってしまった。すなわち、自分の「名」である。自分の「しごと」である。ドーキンスはこのようなものを、「ジーン」(遺伝子)と並ぶものとして「ミーム」(「模倣子」とでも訳すか)と呼んだ。その結果、人間のフィットネスには、遺伝子にかかわるフィットネスと、ミームにかかわるフィットネスとが存在することになった。(中略)「名」のフィットネスを重視するのは男である。だからたいていの男は、なんらかの「ライフワーク」を残したいと望む。たいていの女は、そんなつまらぬことは考えない。自分の子どもで十分であり、楽しく生きていることでもかなり満足できる。たとえそれがきわめて人間的らしくきこえる「ライフワーク」などというものであったにせよ、それを後世に残したいと願っている以上、人間の男はまったくオスそのものである。

女性についても書かれている。こちらも女性の行動を一言で片付けてしまう割り切りの良さと、悲しさを感じてしまう。

グルーミング(体表を手入れして、清潔の保とうとする行動)はある種の快さをもたらす。それはしばしば麻薬的な効果をもつことになる。女の化粧はおそらくその一つの典型であろう。
女が化粧するのは、美しくなりたいという願望のためだとよくいわれる。しかし実際には、化粧の結果それほど美しくなるわけではないから、これは化粧品メーカーのCMにすぎない。女に本音を聞いてみれば、たいていは「自己満足のためよ」と答える。おそらくこれが本当に近いのだろう。ファウンデーションをつけたり、パックしたり、おしろいを塗り、口紅をひく。これらはすべて自分の皮膚に対するセルフ・グルーミングであり、それ自体が気持ちいいのである。(中略)このもともとは気持ちよさのためになされている行為を、さまざまな効用や価値(女の闘いに勝つこと、男の気を魅くこと、そして女の身だしなみという義務感など)と結びつける宣伝、とくにもともと美人のタレントを使って効用をあおりたてるテレビのCMによって、化粧は麻薬的な作用を示しはじめ、化粧品メーカーはますます巨大化してゆく。あれはグルーミング産業である。

『化石探検』

夏休みの11冊目

福田芳生『化石探検:Part.1ストロマトライトから穿孔貝まで』(同文書院,1989)をパラパラと読む。
2分冊のうちの1分冊目で、先カンブリア時代から中世代までの海の化石が取り上げられている。先カンブリア時代を代表するストロマトライト、古生代を代表する三葉虫、中世代を代表するアンモナイトの他、写真とイラスト入りで丁寧に紹介されている。3つの化石とも地球上の海を埋め尽くしたため、示準化石と呼ばれている。ストロマトライトは酸素発生型光合成を行う藍藻類(シアノバクテリア)の棲家となった植物である。30億年前にこのストロマトライトが大繁殖して、大気中に酸素が放出されたのである。やがてオゾン層が形成されて、有害な紫外線が遮られ、地球上にいろいろな生物が住めるようになったのである。ストロマトライトの円柱は、生命活動を示すマイルストーンと言ってもよいものである。

『雪はなぜ六角か』

夏休みの10冊目

小林禎作『雪はなぜ六角か』(筑摩書房,1984)をパラパラと読む。
著者は北大の教授で、雪の結晶の第一人者であり、温度と湿度が雪の結晶に及ぼす影響を整理した「小林ダイヤグラム」なるものまである。実験レポートのような内容で、ほとんど読み飛ばしたが、実は結晶成長学という学問はニッチな分野ではなく、かなりメジャーな学問であるようだ。日本結晶成長学会第15代会長の藤岡洋東京大学生産技術研究教授の言葉を紹介したい。本書は雪の結晶だけであったが、実は様々な工業製品に関する有望な学問だということが分かった。

結晶成長学は数学・物理・化学・生物学といった基礎科学や、電子工学・機械工学・化学工学・生命工学・医学といった沢山の応用学問分野と、多くの接点や境界領域を持ちます。また、化学産業・半導体産業・電子部品産業・自動車産業・医療機器産業といった結晶成長を利用する産業界からのニーズが刺激となって、新しい結晶成長技術が次々と開発されています。したがって、この学問領域の発展には多種多様なバックグラウンドを持つ人々が集い議論を深めていく場を提供することが重要です。結晶成長学会はこの様な学術交流や産学交流を支える組織としてその役割を積極的に果たしていくべきと考えています。

また、Wikipediaで調べたところ、著者の小林さんはこの本を刊行した3年後に亡くなっている。執筆時にはすでに重い病にあったようで、あとがきの最後は次の一節で締めくくられている。

考えてみれば、(東大の船舶専攻に入れなかったが、北大での)雪作りの方がよほど楽しい人生だったかもしれない。私はやがて大学を定年になり、雪の研究は若い人たちに引きつぐことになる。そうしたら、私ははたせなかった幼い日の船作りの夢を、古い時代の帆船模型に託して生きていきたいと思っている。

『恐竜の謎』

夏休みの9冊目

平山廉『恐竜の謎』(ナツメ社,2002)をパラパラと読む。
著者は日本画家の平山郁夫氏の子息で、慶應義塾大学経済学部を卒業後、京都大学大学院地球科学研究科地質学鉱物学を専攻した異色の研究者である。現在は早稲田大学国際教養学部で爬虫類や古生物学の研究に携わっている。一体大学ではどんな科目を担当しているのであろうか。

話の内容が恐竜の生態や分類に関する話だったので、大半を読み飛ばした。一つ興味深かったのが、恐竜の絶滅に関する話である。1980年にメキシコ・ユカタン半島で隕石の多く含まれるイリジウムが見つかってから、巨大隕石の衝突による恐竜絶滅仮説が提唱されるようになった。この隕石の衝突は、広島型原爆100億発分もの衝突エネルギーがあると計算されている。衝撃によりつくられた粉塵が太陽光線を遮り、急激な気温の低下をもたらし、植物の光合成を阻害したと推測されている。また、大気中にできた化学物質により酸性雨が降ったとも言われている。しかし、爬虫類や両生類などの恐竜以外の陸生脊椎動物はほとんど変化が見られず、昆虫も白亜紀末期から8%しか絶滅していない。地層が溜まっていく速度は数千年ないし数万年の単位であるため、1000年以下の出来事は証明できないという。つまり、照明も否定もできないのである。