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『カリスマ先生の小論文・作文』

樋口裕一『カリスマ先生の小論文・作文:7日間で基礎から学び直す』(PHP研究所,2006)をパラパラと読む。
著書の他の本は何冊か読んだことがあるが、どの著書も趣旨は一貫していて、「1:4:4:1」の小論文の基本の「型」に習熟することで、誰しも小論文が上達するという内容である。例題や参考答案も多く、読むのは大変だが、勉強する高校生・浪人生には良いであろう。

起句(序論)の書き出しの基本的なパターンが参考になったので、列記しておきたい。

  • 疑問文で始める
    「……だろうか」が基本であるが、もし「イエス」で答えたいときは、「……かどうかについて、考えてみたい」と書き出してもよい。
  • 客観的な事実で始める
    「最近のマスコミの報道などでは……」「……と、しばしば言われる」は書き出しやすい。
  • 定義・分類で始める
    「……とは、〜である」「……には三種類ある」「AとBの違いは……にある」など、設問に定義のはっきりしない言葉が含まれている場合だと無難な書き出しになる。
  • 個人的体験で始める
    うまく使うと個性的な書き出しになるが、失敗すると下手な作文になりがち。できるだけ短めにまとめるのがコツ。
  • 結論で始める
    「イエス・ノー」で答えにくいときに使うとよい。ただし、はじめに結論を言ってしまうと、あとで書くことがなくなってしまって、途中で終わってしまいがちなので注意。
  • ほのめかす
    上級者向け。「イエス・ノー」の問題提起をせずに、ほのめかす程度にする。

『からだのひみつ』

田口ランディ・寺門琢己『からだのひみつ』(メディアファクトリー,2000)を半分ほど読む。
男女の体の仕組みや身体感覚、セックスなどについて、作家の田口さんと整体師の寺門さんの対談集となっている。性的なテーマも多く、男女の身体感覚の明確な違いや、身体感覚に根ざした生き方や行動などの話は興味深かった。しかし、いくら読んでも同じような話が繰り返されるので、途中で飽きてしまった。

骨盤の開閉の話に目が留まった。2枚の腸骨と仙骨からなる骨盤は、2週間かけて開き、2週間かけて閉じる。この動きは女性の場合は排卵、生理の周期と連動していて分かりやすいが、男性の場合も全く同じように開閉が行われる。この動きに連動して体全体の骨も動いているとのこと。

SMは基本的に皮膚感覚の鋭敏化を促す行為である。SMの時に目隠ししたり、ぴったりからだをラップで巻いたりするプレイがあるが、そうすると、自分の皮膚にぱーっと意識が集中して、要するに神経が通った状態になる。自分の体の中の神経が無理矢理皮膚の表面までひっぱってくるような行為がSMを通じて行われる。

『博物館を楽しむ』

川那部浩哉編著『博物館を楽しむ:琵琶湖博物館ものがたり』(岩波ジュニア新書,2000)をパラパラと読む。
滋賀県立琵琶湖博物館の開館当時から館長を務めていた著者が、職場でのあれこれを語りながら、博物館全体の動きを伝えようとしている。しかし、琵琶湖博物館ローカルな話ばかりでつまらなかった。

滋賀県知事を務め、現在参議院議員の嘉田由紀子氏が、近代の生活について寄稿しているのが目に留まった。嘉田氏は京都大学院農学研究科博士課程を修了し、県職員として琵琶湖博物館の構想段階から深く関わっている。

『ゾウの歩んできた道』

小原秀雄『ゾウの歩んできた道』(岩波ジュニア新書,2002)をちょこっとだけ読む。
タイトルにある「道」は実際にゾウが踏み歩いてできた獣道という意味と、5000万年前のゾウの先祖から進化して、現在のアジアゾウとアフリカゾウの2系統になった進化の道(過程)の2つがあり、それぞれについて説明している。といっても進化論が大半で興味がわかなかった。最後に象牙の密輸によって人間がゾウを絶滅に追い込んでいるという警告があった。

『歌謡曲から「昭和」を読む』

なかにし礼『歌謡曲から「昭和」を読む』(NHK出版新書,2011)をパラパラと読む。
著者は昭和を代表する作詞家であり、北島三郎の「まつり」(1984)や細川たかしの「北酒場」(1982)などのヒット曲を手掛けている。また、平成に入ってもTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」(2003)など、印象に残る歌を作っている。

意外だったのが、軍歌に対して一線を引き、外国の唱歌に国威発揚の歌詞をつけたり、戦争で命を落とす若者への配慮のない芸術家に対して、しっかりと批判を述べている。

私は「愛国的」つまり「日本のため」ということ自体、芸術家として根本的な誤りであると思う。(中略)作家の卓抜な技によって煽り立てられて戦地に赴き、戦死したり苦難を強いられたりした若者が大勢いたことに、作家たちは罪の意識を感じなかったのだろうか。感じていたら、次々に書くことなどできないはずだから、(中略)そこに彼らの罪がある。

平成21年(2009)、イスラエルのエルサレム賞を受賞した作家の村上春樹は、授賞式で、「高くて硬い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」と自らの文学的信念を語り、列席していたイスラエル大統領の面前で、イスラエルによるガザ侵攻を非難した。私は一人の作家として、この言葉に共感する。作家はどんな国も支持してはならないし、どんな主義も支持してはならない。支持した瞬間、作家は「主人持ち」になり、その側から発言することになる。それは村上春樹の言葉を借りれば「壁」になることに他ならない。仮にいま戦争が起きたとして、国策に沿った歌を書くように言われても、私は絶対に書かない。それは政治思想の問題ではなく、歌を作る人間として、あるいは作家として、「主人を持ってはならない」と考えるからである。芸術に携わる人間は、決して自らが「壁」になってはならないのだ。