新聞」カテゴリーアーカイブ

「いじめ」言葉と実態に差

本日の東京新聞夕刊の文化欄に掲載された、小説家小手鞠るいさんのエッセーが興味深かった。引用してみたい。

 物書きのはしくれとして、私が長年「なんとかならないか」と思っている日本語があります。それは「いじめ」という言葉です。調べてみるといじめは、1985年に全国の小・中学校で横行し、大きな社会問題になっています。それから30年近くが過ぎようとしているのに、状況は一向に改善されていない。その要因のひとつとして、「いじめ」という言葉が、個々の実態を性格に言い表せてないだけでなくて、むしろ問題の深刻さを人々の目から遠ざけている、つまり、煙幕、隠れ蓑のようなものになっているのではないかと、私には思えてならないのです。かつて、幼児や児童や若い女性に対する性的虐待やレイプが「いたずら」と呼ばれていた頃に抱いていた違和感と同じです。
 たとえば、金銭を巻き上げたのであれば「恐喝」と、暴力が伴っていれば「暴行」と、複数でそれをやったのなら「集団暴行」と、たとえ言葉だけの攻撃であっても「言葉による暴力」と、個別に正しく、具体的に表現するべきではないでしょうか。被害者が自殺してしまった場合には「執拗な嫌がらせによって、相手を死に至らしめた」と、加害者にフォーカスして表現することによって、事態を看過(ときには加担)していた教師、学校に対しても、それは重大な「犯罪」であったと、認識させることができるかもしれない。

あいまいなひらがな言葉や外来語などで物事の本質が誤摩化されてしまう。そうした言葉の危険性が指摘されている。また人畜無害なはずの「平和」や「愛情」といった言葉の裏側にも、悪質な実態が糊塗されていることがある。言葉が目の前をどんどん流れていく、現代のネット時代においてこそ、言葉を真摯に見極め、言葉が示す物事をじっくりと見つめていく能力と余裕を養いたい。

管理キャンパス浸透

本日の東京新聞朝刊より

早稲田大学の新学生会館や同志社大学の構内交番、北大や東大での飲食規制などが取り上げられ、大学内の表現や集会の自由が過度に規制された結果、反原発デモなど社会問題に関わろうとする学生が育たない高等教育のあり方に疑義を呈している。

スキャン

スキャン 2

「日米同盟と原発」

スキャン

本日の東京新聞朝刊に、過去9回にわたって連載されたシリーズ「日米同盟と原発」の抄録が載っていた。
読み応えのある内容であった。戦前の原爆研究が上手いように、米国や日本政府、読売新聞社主正力松太郎氏などのマスコミによって、「平和利用」の原発へと姿を変えていった歴史が、当時の科学者や役人の証言によって明らかにされている。
その中で、外務省で核武装を検討していた元科学課長の谷田部厚彦氏のコメントが、現在の原発政策の実態を示している。

日本が核を持つことを米国は許さないので、当時も今も核武装は現実的なオプション(選択肢)ではない。ただ、その可能性があるふりをする、ポテンシャルを持つことはいい。その方法が、原子力技術を高めることだった

主権回復?

本日の東京新聞朝刊の2面、3面に、「消えたお祝いムード」と題された安倍政権の「主権回復の日」の記事の隣に、「『主権』米軍意のまま」と題した日米地位協定や米軍横田基地の問題点が特集記事が載っていた。「主権回復〜」の記事も沖縄の怒りに配慮し当初の思惑から大きく後退せざるを得なかった背景にしっかりと触れている。
また、横田基地の記事については、次のリード文が寄せられている。

サンフランシスコ条約が発効した4月28日は、安倍政権が定めた「主権回復の日」であると同時に日米安全保障条約(旧)が発効し、米軍の駐留が正式に認められた日でもある。安保条約は米軍に特権的な地位を与え、「不平等」と批判される日米地位協定締結の根拠になった。条約や協定を後ろ盾にした米軍のありようを検証すると「主権回復」に疑問符がつく。

そして、横田基地のラプコン(空域)や米軍の遊興費も肩代わりする日米地位協定、また、全国の米軍基地の騒音訴訟やオスプレイなどの問題点が列挙されている。記事の中の次の言葉が印象に残った。

首都に主権の及ばない米軍基地と米軍が管理する空域が広がる日本は、まともな国といえるだろうか。(中略)日本防衛という名分のもと、米軍の「やりたい放題」はとめどなく広がっている。

「就活4月以降」容認

本日の東京新聞朝刊に、経済同友会だけでなく、経団連も大学生の就職活動の開始時期を4年生の4月以降とする政府の意向にに賛同するという記事が掲載されていた。
特に文系の学生にとって就職活動は死活問題である。就職に失敗して自殺を選ぶ学生もいるという報道もあった。