本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」で、大学時代の知人の死を知った。
講演会などを企画する際に、サークルボックスだったか、酒の場で何度か話をした思い出がある道場親信氏である。存命中、和光大学で教授をされていたらしい。みすず書房から『思想の科学』の研究会の
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本日の夕刊から
本日の夕刊文化面の詩人渡邊十絲子さんのコメントが面白かった
「ブラタモリ」ファンの渡邊さんに最近一つ不満があるという。地方ロケに行くようになった現在のシリーズよりも、東京の町中だけを地味にうろついていた初期シリーズの方が断然高品質であったという。そして次のように述べる。
タモリが路面に這いつくばって高低差を確認している横を住民が迷惑そうに通り過ぎていく、あのいたたまれない感じがこの番組のキモだったのに。「招かれて拝見する」ときに、大事なものなんか見えない。「頼まれてもいないのに覗きに行く」から、輝ける発見があるのだ。
また、東京工業大学の中島岳志氏の「論壇時評」も興味深かった。保守派の西部邁氏と共産党書記長の小池晃氏を取り上げ、返す刀で野党を批判し、ネオコン・新自由主義に抵抗する方向性を示している。
月1回の連載であるが、彼の視野の広さと視点の鋭さに脱帽である。東京新聞のホームページに掲載されたら、引用してみたい。
「男の生き方 想像広げ 大水滸伝シリーズ完結」
本日の東京新聞夕刊文化欄に、作家北方謙三氏のインタビュー記事が掲載されていた。
その中で、北方氏のある言葉が強く印象に残った。
現代を舞台にすると、物語がどんどん小さくなっちゃう。現実に誰かの首を飛ばして殺すなんて不可能でしょう。そうすると、登場人物の内面にばかり向かう。限りなく純文学に近づくんだよね。そういうものはあまり書きたくない。
北方氏は、国づくりのために命を燃やす男や、色恋に人生を狂わせる男などのハードボイルド作品を描く舞ために、「歴史小説」という舞台が必要だと述べる。
「なるほど」と思わず頷いてしまった。歴史小説の方が史実という制約が多いのではないかと思っていたが、現代の方が、ポリティカル・コレクトなど複雑なコードに縛られているのだ。
「行儀悪さでガス抜きを」
漱石から子規への手紙
本日の東京新聞朝刊の子育て欄にある「手紙の書き方味わい方」というコラムの中で、生活手紙研究家の中川越氏は、ロンドン留学中の夏目漱石から、結核に冒され衰弱の極みにあった正岡子規に宛てた手紙を紹介している。
ある日、漱石がロンドンのセント・ジェームズ・ホールなる所で、日本の柔術使と西洋の相撲取り、すなわちレスラーとの異種格闘技があるというので出かけたところ、時間の都合で取り辞めになり、代わりにスイスとイギリスのレスリングチャンピオン同士の勝負を見たそうだ。そこで彼は、病床にあり気が滅入っている子規に次のような手紙を寄越したそうだ。
西洋の相撲なんて頗(すこぶ)る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立ちをしても両肩がピッタリと土俵の上へついて然も一二と行司が勘定する間此(この)ピタリの体度(たいど)を保って居なければ負でないって云うんだから大(おおい)に埒のあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒そうとする、倒されまいとする。座り相撲の子分見たような真似をして居る。
この噺家のような滑稽な表現にあふれた手紙を、政岡子規は「非常ニ面白カッタ」と高く評価したそうだ。筆者は「絶望の淵にいる友への手紙の書き方に答えはない」とまとめているが、そんなことよりもレスリングを初めて見た漱石の評価の方に興味が行った。確かに一瞬の立ち会いで勝負が決する相撲に比べれば、レスリングの試合は何とも間延びした子どもじゃれ合い程度に漱石の目に映ったのだろう。
リオオリンピックで大活躍した女子レスリング選手に国民栄誉賞を授与しようという報道もあるが、漱石だったら今夏のリオ五輪のレスリング試合をどのように評価するだろうか。きっと上記以上に辛口の批評を綴るであろう。