新聞」カテゴリーアーカイブ

高橋源一郎の「歩きながら、考える」)皇居で手を振る、人権なき「象徴」

本日の朝日新聞朝刊「オピニオン」から転載します。
めちゃくちゃいい記事だった。

 国家や社会の中で天皇をどう位置づけるのか。退位をめぐり、改めて問い直されています。作家・高橋源一郎さんが、皇居へ足を運んだうえで考察しました。寄稿をお届けします。

 12月23日、わたしは朝から、天皇の一般参賀を待つ人たちの長い列の中にいた。観光客と思われる外国人の姿も多かった。定刻になると、係の警官たちに促されるように、わたしたちは、皇居の中に入っていった。皇居に入るのは初めての経験だった。

 午前10時を過ぎて、広場に面した宮殿のベランダに、「その人」が現れた。一斉に、日の丸の小旗が振られたが、それは、もしかしたら、写真を撮るために向けられたスマートフォンの数よりも少なかったかもしれない。

 「その人」は、小さな紙を取り出して、静かに読みあげた。

 「誕生日にあたり寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。ニュースで伝えられたように、昨日は新潟で強風のなか、大きな火災がありました。多くの人が寒さのなか避難を余儀なくされており、健康に障りのないことを願っています。冬至が過ぎ、今年もあとわずかとなりましたが、来年が明るく、また穏やかな年となることを念じ、みなさんの健康と幸せを祈ります」

 「その人」とその家族は、何度も手を振り、やがて、ベランダを背にした。その姿を見ながら、わたしは表現し難い感情を抱いた。そして、半世紀以上も前に書かれた、ある文章を思い出した。

 1947年1月、「進歩派」の代表的な作家・中野重治は「五勺(しゃく)の酒」という文章を雑誌に発表し、大きな話題となった。中野は、憲法公布の日、それを告げる天皇の姿を皇居前で見たある中学校長の思い、という形でその文章を書いた。それは、奇妙な文章でもあった。天皇(制)批判が「進歩派」の普通の感覚であった時代に、中野はこう書いていたのだ。

 「僕は天皇個人に同情を持っているのだ……あそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ……個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙(じゅうりん)された個があっただろう」

 個人の人権を尊重した憲法の公布を告知する天皇の姿に触れながら、誰も、その天皇自身の「人権」には思い至らない。その底の浅い理解の中に、中野は、民衆の傲慢(ごうまん)さと、「戦後民主主義」の薄っぺらさを感じとったのである。

 わたしが、手を振る「その人」たちを見ながら感じた思いも、中野のそれに近いものだったのかもしれない。中野の指摘に、誰よりも敏感に反応したのは、実は、いまの明仁天皇だったのではないか。わたしには、そう思える。明仁天皇が、中野の文章を読んでいるのかどうかはわからないが。

 明仁天皇は、天皇即位後、25万字にのぼる「おことば」を発表している。明仁天皇の、第一の「仕事」とは、「おことば」を発することなのだ。ここしばらく、わたしは、その、膨大な「おことば」を読んで過ごした。そこには、迷い、悩み、けれども愚直に世界とことばで対峙(たいじ)しようとしている個人がいるように思えた。

 美智子妃と結婚する直前、皇太子時代に、こんなことを友人にしゃべった、と伝えられている。

 ――ぼくは天皇職業制を実現したい。毎日朝10時から夕方の6時までは天皇としての事務をとる。そのあとは家庭人としての幸福をつかむんだ――

 その願いが完全に実現することはなかったが、少なくとも、中野が案じた「家庭」をつくることはできたのだ。

 「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました」(2013年・80歳の誕生日会見)

 では、その「孤独」と思える「天皇という立場」とは何なのだろうか。

 昨年8月、明仁天皇は「象徴としてのお務め」に関しての「おことば」を出された。

 「……天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」

 憲法は天皇を、日本国と日本国民の統合の象徴としている。

 では、「象徴」とは何だろうか。国旗や国歌がその国の象徴とされることは多い。だが、わたしたちの国のような形で生身の人間をその国の象徴と規定する例を、わたしは、ほかに知らない。そんな、個人が象徴の役割を務める、きわめて特異な制度の下にあって、その意味を、誰よりも真剣に、孤独に考えつづけてきたのが、当事者である明仁天皇本人だった。「個人」として、「象徴」の意味を考えつづけた明仁天皇がたどり着いた結論は、彼がしてきた行いと「おことば」の中に、はっきりした形で存在している。

 「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」

 「その人」が訪れるのは、たとえば被災地だ。そこを訪れ、被災者と同じ「目線」でしゃべることができるように、「その人」は跪(ひざまず)くのである。「その人」は、弱い立場の人たちのところに行って励まし、声をかける。それから、もっと大切にしている仕事がある。それは「慰霊」の旅だ。「その人」は、繰り返し、前の戦争で亡くなった人たちの「いる」場所に赴き、深い哀悼の意を示す。

 弱者と死者への祈り。それこそが「象徴」の務めである、と「その人」は考えたのだ。

 戦後71年。この国の人々は、過去を忘れようと、あるいは、都合のいいように記憶を改竄(かいざん)しようとしている。だが、健全な社会とは、過去を忘れず、弱者や死者の息吹を感じながら、慎(つつ)ましく、未来へ進んでゆくものではないのか。個人として振る舞うことを禁じられながら、それでも、「その人」は、ただひとりしか存在しない、この国の「象徴」の義務として、そのことを告げつづけている。だが、70年前、中野重治が悲哀をこめて書いたように、その天皇がほんとうには持つことのなかった「人権」について考えられることはいまも少ないのである。

    ◇

 社会の様々な現場を高橋さんが訪ねる寄稿シリーズ「歩きながら、考える」(随時掲載)は今回、皇居を行き先に選びました。退位の意向をにじませる「おことば」を表明して初となる、天皇誕生日の一般参賀です。平成で最多の3万8千人が訪れました。

 入場開始の1時間前に現地へ。写真は皇居前で撮りました。「その人」の声を聞き終えると高橋さんは「新潟の話が出たね」と言いました。すばやく前日の火災に触れたことが印象深かったようです。
 (編集委員・塩倉裕)

<いのちの響き>優しさは強さ 宮城まり子さん「障害者にきめ細かい施策を」

本日の東京新聞朝刊生活面に、「ねむの木学園」を営む宮城まり子さんの会談が掲載されていた。
20年ほど前に就職面接でお会いした際は、今にも倒れそうなほど体調が悪そうであったが、まだまだ矍鑠とされた様子に一安心。
福祉についてごちゃごちゃ言う前に、行政を動かして学校を作り、音楽とダンス、絵画で子どもの可能性を広げる実践を何十年も続けられている宮城さんの取り組みには畏敬の念しかない。

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」が襲われ、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件で、障害者排除を正当化する容疑者の供述が、各方面に今も暗い影を落としています。決して許されない犯行ですが、私たちの心の中にも、障害者を異質なものとして見る意識はなかったでしょうか。
 今年は、施行されたばかりの障害者差別解消法を育てていく大事な年。偏見をなくすために障害者のことをもっと知る必要があると私たちは考え、障害者の暮らしに焦点を当てる「いのちの響き」を、生活面で随時掲載していきます。初回は、日本で初めて障害のある子どもの養護施設をつくった女優宮城まり子さん(89)のインタビューです。 (諏訪慧)

 ねむの木学園をつくったのは、「就学猶予」という言葉を知ったのがきっかけです。
 雑誌で受け持っていた「まり子の社会見学」という連載の取材で病院を訪れたところ、初めて耳にしました。三十歳を過ぎた一九五八年ごろのことです。
 詳しく聞くと、障害のある子どもたちは学校に通わせてもらえないとのこと。憲法では、親が子どもに教育を受けさせるのは義務なのに。
 「障害のある子が、他の子どもと違う扱いを受けるなんて絶対におかしい」と怒りが湧いてきたの。養護学校(現特別支援学校)での教育が義務化される七九年まで学校に通えないことが多かった。
 同じころ、ある舞台で脳性まひの子どもを演じることになり、いろいろ調べるうちに、障害者に対する制度が整っていないことも分かりました。
 当時の私のヒット曲に「ガード下の靴みがき」という歌があります。この歌は没になって、レコード会社のごみ箱に捨てられていた原稿用紙を私がたまたま見つけて、「歌いたい」とお願いしてレコード化されました。
 間奏に「お父さん、死んじゃった。お母さん、病気なんだ」と男の子の話し声が入ります。歌詞は作詞家の先生が書いていますが、せりふは私が考えました。
 よく出演していた日劇(日本劇場)最寄りの有楽町駅周辺には、靴磨きをしている子どもがいて、生活の糧を得ていました。そんな状況に腹が立ち、せりふを入れたんです。
 ねむの木学園につながる私の活動は、就学猶予に対する怒りと、「ガード下の靴みがき」がヒットしたことに対する責任と感じています。十二歳のときに結核で亡くなった母に「自分よりも弱い子を見たら、お手伝いするのよ」と育てられたのが、影響しているかもしれません。
 当時、障害があって複雑な家庭環境の子どもが暮らせる施設はありませんでした。
 親がいなかったり、世話ができなかったりする子どもが暮らす児童養護施設はありましたが、施設側が体の不自由な子どもには対応できなかったんです。そこで有り金をはたき、体の不自由な子どもたちのための養護施設をつくりました。六八年のことです。「女優の道楽」と陰口も言われました。
 開園時にここで暮らし始めたのは、小学校入学前後の八人。みんな脳性まひです。自力で歩けたので、今から考えればそれほど障害が重い子たちではありませんでしたね。
 とはいえ、突然発作が起きて大変です。職員は四人だけですから、食事当番は私もやりました。初めて作ったコロッケは、揚げている最中に爆発しちゃって失敗。料理は好きだけど、十二人分なんて作ったことないですからね。
 ねむの木学園を始めるに当たり、一緒に暮らしていた故吉行淳之介さんと三つの約束を交わしました。お金がないと言わないこと、愚痴をこぼさないこと、途中でやめないこと。でも、お金が足りなくなりそうになったときなど「やめたい」と口に出したことはいっぱい。愚痴もこぼしてばかりでした。
 この半世紀、法律が整備されるなどして障害のある人を巡る環境はだーん、と良くなりました。何といっても学校に通えるようになりましたから。でもね、施策にもっときめ細かさがいるんじゃないかしら。
 昨年七月、相模原市の障害者施設で大変な事件がありました。とても驚いて、なぜこんなことが起きるのだろうと随分考えました。
 逮捕された男には精神疾患があるとされ、事件前は措置入院していましたね。犯行に及ぶ前に退院していますが、退院時の病状はどうだったのでしょうか。一人一人に寄り添い、状態を見極めてあげる福祉制度があれば、違ったのではないかと思うのです。
 あとね、障害者施設で働く人がもう少し、お金をもらえるようにならなきゃいけない。ある程度、豊かでなければ、そういつも笑顔でいられません。施設が職員を集めるのだって、とても大変なんです。
 ねむの木学園のテーマソングにはね、「やさしくね やさしくね やさしいことはつよいのよ」という歌詞があるんですよ。そう、優しさは強いんです。
 絵画や歌、踊り、茶道に力を入れています。私が好きだからというのもありますが、個性を発揮し、集中力を養うのに効果があると思うんです。集中力は何にでも応用がきくでしょ。毎年のように美術展を開き、多くの人が鑑賞してくれます。学園を続けてきて良かったとつくづく思います。
 私は年を取って自分で歩けなくなり、車いすが必要になってしまったけれど、まだやり残したことがあります。もっと優しさを広めたいのです。

 <みやぎ・まりこ> 1927年3月、東京都生まれ。女優、歌手で「ねむの木学園」園長。54年に「毒消しゃいらんかね」でNHK紅白歌合戦に初出場し、出場は延べ8回。作家の故吉行淳之介さんと暮らした。障害者の福祉と教育に尽くした功績が評価され、2012年に瑞宝小綬章を受けた。

 <ねむの木学園> 静岡県掛川市にある日本初の障害児のための養護施設。宮城まり子さんが私財を投じて、1968年に開設した(当時の場所は静岡県浜岡町=現御前崎市)。当初から、地元小学校の分校を設けたほか、養護教育が義務化された79年には、全国初の私立養護学校(小・中学部)を開校。3年後には高等部も設置した。現在は大人が暮らす施設もあり、4歳から70代の74人が生活している。

本日の夕刊から

本日の東京新聞夕刊に掲載されていた、最近心を開ける彼氏に出会ったというタレントの春香クリスティーンさんのコラムの一節が印象に残った。恋愛相手の対応を待つ時間をあれこれ思うというのは、和歌の遣り取りで気持ちを高め合っていた平安時代の貴族と変わらない感覚である。
私はほとんどLINEはやらないのでよく分からないが、いつでもどこでも気軽に連絡が取れるツールなのに、相手が気付くまでの時間を大切にしたいというのは、一見矛盾しているように思う。しかし、コミュニケーションの手段が手紙から、固定電話、携帯電話、メール、さらにはSNSと格段に進化しても、心の中での自分や相手との対話が大切なのである。

本当の恋愛もいいものなのかなと。「LINEの画面が『既読』の印にならない…」。長い人生を考えれば本当にどうでもいいことではあります。目の前の画面が「既読」の印にならないからと、ずっと画面を見つめてしまうのも無駄な時間です。この間に新聞を読めばもっと世界が広がるのに…。でも実はこの「既読」を待つ時間も人生の財産なのだと思います。

本日の夕刊から

本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」で、大学時代の知人の死を知った。
講演会などを企画する際に、サークルボックスだったか、酒の場で何度か話をした思い出がある道場親信氏である。存命中、和光大学で教授をされていたらしい。みすず書房から『思想の科学』の研究会の

本日の夕刊から

本日の夕刊文化面の詩人渡邊十絲子さんのコメントが面白かった
「ブラタモリ」ファンの渡邊さんに最近一つ不満があるという。地方ロケに行くようになった現在のシリーズよりも、東京の町中だけを地味にうろついていた初期シリーズの方が断然高品質であったという。そして次のように述べる。

 タモリが路面に這いつくばって高低差を確認している横を住民が迷惑そうに通り過ぎていく、あのいたたまれない感じがこの番組のキモだったのに。「招かれて拝見する」ときに、大事なものなんか見えない。「頼まれてもいないのに覗きに行く」から、輝ける発見があるのだ。

また、東京工業大学の中島岳志氏の「論壇時評」も興味深かった。保守派の西部邁氏と共産党書記長の小池晃氏を取り上げ、返す刀で野党を批判し、ネオコン・新自由主義に抵抗する方向性を示している。
月1回の連載であるが、彼の視野の広さと視点の鋭さに脱帽である。東京新聞のホームページに掲載されたら、引用してみたい。