創価大」カテゴリーアーカイブ

経済学史 第3課題

不完全雇用均衡
 Keynesは仏語の『一般理論』の序文の中で,「総所得,総利潤,総産出量,総雇用,総投資,総貯蓄といった全体としての経済システムの動きである」と述べ,ミクロな動きではなく,マクロな視点を前提とする経済学を打ち立てた。古典派の雇用理論は完全雇用均衡の特殊状態を想定しているが,Keynesは財市場の均衡と労働の不均衡という不完全雇用均衡論を展開した。不完全雇用均衡とは,失業現象を,期待の外れに基づく市場の不均衡現象としてではなく,市場の自然的な諸力がその効果を発揮し尽くしたもとで成立する均衡状態とみなすことである。

非自発的失業
 Keynesは,賃金が納得できず働く意思がないために就業しない「自発的失業」や,転職の合間にあって就業していない「摩擦的失業」の2種類だけでは,1920年代から続く英国の高失業率は説明できないと考えた。そこで,「供給はそれ自らが需要を作り出す」とした「セイの法則」を否定し,労働供給が減っても雇用の需要は増えているという点に注目した。つまり,物価が上昇して,実質賃金が低下しているにも関わらず雇用量が増えるという状況においては「非自発的失業」が生じているとした。

有効需要の原理
 keynesは,雇用量N人とそれから生じる生産物の総供給関数をZ=φ(N),雇用量N人とその生産物の販売から予想される総売上金額をDとする時の両者の関係を総需要関数D=f(N)と表した。そして,ある雇用量のもとで,D>Zであれば,企業は両者が一致する点まで雇用量を増加させる。逆にD

西洋史 第2課題

 独占資本主義段階に達した列強が非Europe地域を自国の植民地や勢力圏に組み入れようと競合し,資本輸出政策を展開した政治・経済・社会の動向を帝国主義という。特にAsiaやAfrica地域において,後発のGermanを加えた世界分割競争が繰りひろげられ,世界大戦へと発展した。
 最も早く帝国主義政策をとったのは英国である。Disraeli内閣によるSuez運河会社株買収(1875),India帝国の成立(1877)に続き,Gladstone内閣によるEgypt占領,Chamberlainによる南Africa戦争と,植民地拡大政策が遂行された。同時期にRhodesはEgyptのCairoからCape Townまでひと続きの植民地を建設しようとした。「できることなら空に浮かぶ星も併合したい」と口にしたRhodesは当時の英国帝国主義政策を象徴する人物といえる。
 1898年,英軍と仏軍がSudanのFashodaで対峙するという事件が起きた。しかし,国内でDreyfus事件を抱えていた仏国は,土壇場で譲歩し,Sudanは英国領となった。この事件を通じて両国は関係が改善され,独逸との利害関係の一致から,1904年に英仏協商が成立した。
1899年Transvaal共和国やOrange自由国の併合に反発したBoer人と英国の間にBoer戦争が始まった。Guerilla戦を展開するBoer人の抵抗は強固で,英国は45万人もの兵力を動員する大戦争となった。そのため極東地域での露国の南下政策を牽制する余裕がなくなり,1902年に「光栄ある孤立」政策を破棄し,日英同盟を結ぶことになった。辛勝した英国は1910年南Africa連邦を形成し,apartheidが行われた。
 1870年に普仏戦争に敗れ,第三共和制が成立した仏国では,対外的にはNapoléonⅢに引き続き,Indochina/Africaに植民地を拡大していった。内政面では,1889年にBoulanger将軍を中心とした反議会・対独復讐の大衆運動の高揚といった政情不安定な状態が続いたが,徐々に国民の中に排外民族主義が浸透していった。
 1871年にドイツ帝国を成立させたBismarckの外交政策は「Europeの安定とFranceの孤立化」であった。1873年にRussia/Austriaと三帝同盟を結び,さらに,1882年にはAustria/Itaryと三国同盟を成立させた。しかし,1890年Bismarckが辞職すると,皇帝WilhelmⅡは「世界政策」という名前で帝国主義政策をとり,積極的に植民地獲得に乗り出した。1894年に露仏同盟が成立すると,独墺伊の三国同盟と露仏の二国同盟の対抗という形となった。また,英国のSuez運河を経由したIndia植民地化政策(3C政策)に対抗して,Osman帝国から領内の鉄道敷設権を獲得し,Berlin/Byzantium/Bagdadを押さえ,India洋を支配下に置く3B政策を押し進めた。1905年,1911年と仏国によって植民地化されつつあったMoroccoに軍艦を派遣すると,英国は仏国を支援して,独逸の要求を挫いた。
 また,1890年代以降,高度工業化が急速に進展し,石炭や鉄鋼などの伝統的な重工業に加え,化学工業や電気工業などの先端技術を駆使した分野でも優位に立ち,巨大銀行と結び付いた帝国主義的膨張政策が国外だけでなく,国内でも大きな意味を持つようになった。社会主義の台頭もあったが,反体制派や労働者を体制内に統合し,政府国民の双方から全独逸人による大帝国建設を目指すPan-Germane主義を支持する傾向が強まっていった。
 露土戦争に敗れ,Berlin条約で南下政策が挫折した露国は,東方への進出を図り,露仏同盟成立後,仏国資本を導入したSiberia鉄道建設に着手した。1904年に日露戦争が始まると国民生活は悪化の一途を辿り,1905年の血の日曜日事件を契機に,第1次Russia革命が始まった。労働者代表の自治組織Sovietが作られ,NikolaiⅡは国会開設を認めようやく事態は収拾に向かうこととなった。
 露国の弱体化が明らかになると,中央Asiaでの権益を協議するため,1907年英露協商が結ばれた。その結果,英仏露3国相互に三国協商という同盟関係が成立し,独墺伊の三国同盟と対立した。1908年にOsman帝国内で青年Turkey革命が起きると,Austria=Hungaryは独逸の後押しを受けてBosnia-Herzegovinaを併合した。しかし,両州の住民の大半がSlav系であったため,SerbiaはRussiaに助けを求めたため,戦争の危機が高まった。1912年,SebiaやBulgaria,Montenegro,Greeceの4国はBalkan同盟を結びTurkeyに宣戦布告をした。仏国や露国の武器供与を受けたSerbiaと独逸の武器供与を受けたTurkeyの戦争は,地域だけの対立に留まらず,過剰資本の投資先を巡る帝国主義国間の国際対立の主戦場であった。2度の戦争を通して,列強の二極化がBalkan半島の民族意識を過度に刺激し,Balkan半島は”Europeの火薬庫”と呼ばれた。第1次大戦のきっかけとなった1914年のAustria皇太子夫妻暗殺の犯人は,まさに暴走を始めた帝国主義だと言ってよい
〈参考文献〉□木下康彦他編『詳説世界史研究』山川出版社 2008年 □浅野典夫『「なぜ?」がわかる世界史』学研 2012年

西洋史 第1課題

 「Erasmusが生んだ宗教改革という卵は,Lutherによって孵化された」との言葉にある。一連の宗教改革はNederland出身のErasmusが古典やGreek語の新約聖書を研究し,当時のRome教会が使っていたLatin語の聖書の誤訳を次々に発見し,Rome教会の権威を揺るがしたことに始まる。教会に束縛されるCatholicのあり方を否定し,聖書に基づき,信仰そのものを重視する姿勢を打ち出した。その著書『愚神礼讃』では,聖職者の道徳的堕落を風刺するとともに,賢さの限界,愚かさのもつ人間性などを愚神の口を借りて語っている。
 Erasmusと親交のあったMartin Luterは,豪勢なSan Pietro大聖堂の建設資金を補うための贖宥状を問題にした。贖宥状とは,罪を申告して所定の料金を払った信者に教会が発行する証書のことで,魂の原罪が消えて天国に行けると喧伝されていた。Wittenberg大学の神学教授であったLuterは,「人は信仰によってのみ義となる」と主張し,1517年「95ヶ条の論題」において福音主義を唱えた。1519年Leipzigで行われた公開討論会で,Luterは異端であったHusやWycliffeを容認したため,破門を宣告される。LuterはSachsen選帝公に保護され,Wartburg城で,後の近代German語の基準ともなった聖書のGerman語訳を完成させている。
 1524 年,「神の前に万人は平等である」とするLuterの教えが,農奴制廃止を望む農民の利害と一致し,Thomas Munzerらが指導する「農民戦争」が起こる。しかし,鉱山労働者や職人,貧農らによる騒動が過激化したため,Luterは領主らに武力弾圧を呼びかけた。反乱鎮圧後,Luter派の諸侯や都市は,皇帝によるLuter派の禁止にprotestした。1546年,反Catholic・反皇帝派のSchmalkalden同盟が結成され,国を二分する戦争に突入する。1555年Augsburgの宗教和議において,「領主の宗教がその領土で行われる」との妥協が見いだされ,Luterの提起した問題は一応の結末を見ることになった。
 Luterと同じ頃,ZurichではZwingliが贖宥状の販売や傭兵取引など教会の腐敗を批判した。市民の支持を得て市の教会をCatholicから分離させることに成功したが,Luterとの連携に失敗し,近隣諸州との戦いに敗れた。
 Genevaでも,Catholicの司教を追放し,教会改革を進めていたが,1536年Frenchからの亡命者であるCalvinを招いた。Calvinは,神の絶対性強調し,教会や教皇,人間の意志でさえも魂の救済には関われないという「予定説」を主張し,主著『キリスト教綱要』の中で,「神から与えられた仕事(calling)に励み,倹約を本分とする禁欲的生活を実践することが重要だ」と述べた。この考えは,利潤を追求することに背徳を感じてきたEurope各地の商工業者たちを中心に幅広く支持され,後年Max Weberによって,富の蓄積と新教の職業倫理が資本主義の精神と結びつけられて説明された。Genevaは国際都市であったため,長老主義に基づくCalvinの信仰や禁欲的生活は広く伝えられ,FrenchのHuguenot,HollandのGeusen,EnglandのPuritan,ScotlandのPresbyteriansなどとして活躍することになった。
 宗教改革の進展と相俟って,Catholicの側の巻き返しの機運が高まり,1534年Ignatius Loyolaによって,厳戒な規律をを持つJesus会が結成された。Jesus会では海外布教に注力し,1549年に会員のひとりであったFrancisco Xavierが東洋伝道の一環で来日している。
 英国では,HenryⅧが王妃Catherineと離婚し,侍女のAnne Boleynと結婚しようとしたが,教皇に反対されたため,1534年国王至上法を発布し,国王を英国教会の唯一最高の首長とし,Rome教会から分離したAnglican Churchを成立させた。理念なき改革であったため,『Utopia』を著したThomas Moreは最後まで反対したが,修道院の土地財産の払い下げの利益を得た資産階級gentryの支持を幅広く得た。Spain王のFelipeⅡと結婚したMary女王は熱烈なCatholicであったため,国教会に激しい弾圧が加えられたが,ElizabethⅠの代になって統一法が発布され,国教会の立場が確立した。
 FelipeⅡとElizabethⅠが争っていた16世紀後半,FrenchではHuguenotes戦争が行われていた。1572年には,Saint Barthlemyの虐殺など,新教に対する弾圧は苛烈を極めたが,Bourbon家のHenriⅣが即位し,Nantesの勅令を発して新旧両教徒の権利を同等に認め,信仰の自由を許して国内をまとめ,王権の強化を図った。
 16世紀当時の宗教改革は信仰論争であると同時に,現在のIsram原理主義の動きや,1960年の学生運動にも通じる権益争いの側面がある。世俗にどっぷり浸かった既存宗教を批判する人たちは,開創当初の純粋な教義に帰れと主張する。また,学生運動では,抑圧されていた組織が,自分たちより過激な方向に進む分子に対しては徹底した弾圧を繰り返した。宗教改革の一連の流れは,中世から近代への転換点であると同時に,今後の国際的な宗教対立の情勢を占う試金石となるであろう。

後半は歴史だ!

8月の前半までにレポートをなんとか16冊提出することができた。
残りは、経済学史と日本史、西洋史、東洋史のそれぞれ2冊、合計8冊を数えるだけである。

しかし、ただ指定された内容のレポートを提出し、試験に受かるだけの最短距離の学習では味気ない。
高校時代や浪人時代の受験勉強では味わえなかった歴史にまつわる人間模様にまで踏み込んで、歴史のつながりや地理的視点を学んでいきたい。
まずは歴史小説から始めていきたい。
勉強できる環境と、支えてくれる家族に感謝したい。

経済学史 第2課題

貨幣論・金融論
 Smithによれば,貨幣とは「流通の大車輪にして,商業の偉大な用具である」であり,金属貨幣に代替する紙幣については,「経費のずっとかからない便利な道具」であると述べる。さらに,金銀貨の価値を保証する紙幣を市場に円滑に,かつ十二分に流通させ,経済活動水準を高める銀行業の役割を取り上げる。そして,紙幣の供給の過剰が金融危機を招いた事例を挙げ,銀行業の政府による規制の必要性を説く。

生産的労働と不生産的労働
 生産的労働とは,製造工のように,資本によって雇用され,利潤を付加して再生産される労働である。これに対して,不生産労働とは,家事使用人や官吏,軍人等のように,収入によって雇用され,消費するだけで何も残さない労働である。「資本が優勢なところでは勤勉が広がり,収入が優勢なところでは怠惰がはびこる」とSmithが述べたように,国家財政を視点にすると,生産的労働者が多いほど,資本が毎年再生産され,富裕が実現される。

資本蓄積論
 Smithは「全ての浪費家は公共社会の敵であり,節約家はすべてその恩人である」と述べ,生産的労働者を雇用する資本は,人々の貯蓄によって増大し,浪費によって減少するため,浪費を断罪している。また,「国王や大臣こそ,常に例外なく社会における最大の浪費家なのである」と述べ,特に公的浪費=戦争こそが最大の国家破滅の要因だと断じる。さらに,「自分の生活状態の改善をめざしての,あらゆる人間の画一的な恒常不断の努力こそは,…政府の濫費や行政上の最大の過誤にもかかわらず,改善をめざす事物自然の進歩を維持するにたりるほど強力な場合が多い」と,重商主義を遂行するための戦争による政府の浪費が,たとえ富裕の自然的進歩を遅らせるとしても,個人の節約と善行が,あらゆる浪費を償ってきたのである。

重商主義批判
 重商主義政策は,国内の特定産業による国内市場の独占を招き,商品価格と利潤率とを著しく引き上げ,他産業から資本と労働とが当該産業に片寄る結果となり,自由競争によって実現される自然な資源配分を妨げ,資本蓄積を妨げて富裕の進歩を遅らせることになってしまう。資本を有する各個人は,人為的な政策の妨げがなければ,社会の利益などではなくて単に自分の利益だけを追究して,資本を最も有利な方法で用いようとするものであり,その結果として,全生産物の価値と社会の収入とは最大になるのである。Smithは,道徳的感情に規制された個人の利己的な行動が,社会全体に寄与し,自然的秩序による社会が形成されるという考えのもと,重商主義に見られる個人の経済生活に対する政治の介入を厳しく否定したのである。

「見えざる手」 
 「外国の産業よりも国内の産業を維持するのは,ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは,自分自身の利益のためなのである。だが,こうすることによって,かれは,ある見えざる手に導かれて,自分では意図していなかったある目的を促進することになる」
 『国富論』の中では上記のように述べられており,人間生来の賢明さを前提とし,決定論的・予定調和的なキリスト教的な考え方に根ざしたものである。

自由貿易論
 Smithは,自由放任主義者と捉われる節もあるが,国内経済を混乱させない程度の一定の関税と輸出奨励金を認めていた。そして,「植民地貿易の排他的独占を許している諸々の法律を適度に漸次的に緩和」し,「完全なる自由・正義の自然的秩序」を実現するための過程において政府の規制・介入の必要性を述べる。また,「消費こそは全ての生産にとっての唯一の目標であり,かつ目的である。従って,生産者の利益は,それが消費者の利益を促進するのに必要な限りで配慮されるべきものである」と述べ,生産者の利益を保護する重商主義を厳しく批判している。

自然的自由の体系
 輸入制限と輸出奨励策が漸次的に全て撤廃され,自然的自由な社会が実現されるならば,国家は防衛・司法・一定の公共事業を担うだけで,各個人は「正義の法を犯さぬかぎり」完全自由に委ねられるべきものである。

財政論
 Smithの財政政策は,いわゆる「安上がりの夜警国家」として巷間知られるが,自然的自由の体系を実現するための障害は政府の叡智によって除去して行くべきだと何度も強調している。すなわち司法による正義の実現や国防,教育制度,貧困対策などは,「利己心に基づく分業という文明社会の大原理に対する顕著な例外」であるとしている。特に教育については,単純作業が人間を愚鈍・無知にし,精神を麻痺させ,判断力もなく武勇の精神も朽ちさせてしまうと分業による非人間的なマイナス面を指摘し,政府による「全人的」な教育政策の配慮を強調している。