大学短大専門学校案内」カテゴリーアーカイブ

大学案内研究:帝京科学大学

帝京科学大学のパンフレット(2014年度版)を読む。
1991年に山梨・上野原市に開学した新しい大学である。中央自動車道を走っていると大きな看板が見えるので名前だけは知っていた。数年前に東京・北千住にキャンパスを設け、山梨市キャンパスとあわせ3カ所のキャンパスで授業を行っている。学部ごとにキャンパスが異なるというのは他大にもあるが、帝京科学の場合は、同じ学部でキャンパスが全く異なるので大変分かりにくい。医療科学部は上野原の理学療法学科、作業療法学科、柔道整復学科と千住の東京理学療法学科、東京柔道整復学科、看護学科の6学科体制である。これで同じ学部として認可を出すというのは疑問である。また生命環境学部自然環境学科は上野原だけでは集まらないためか、1・2年次は学生が集まりやすい千住キャンパスでも学べる体制となっている。
大学という学問研究の場というよりは、全国規模で展開する予備校や専門学校と大差ない。パンフレットの体裁も専門学校と同じであり、カリキュラムについても。教養科目はほとんどなく、ただ国家試験に必要な科目を並べただけの簡素な内容である。
また、入試についてもAO入試や推薦入試でおよその定員を確保してしまい、一般入試は募集人員を下回る合格者しか出していない。こんなインチキ入試がまかり通っていいのか。真面目に勉強した生徒が不利になるような仕組みについては是正を望みたい。

大学案内研究:多摩美術大学

多摩美術大学のパンフレット(2014年度版)を読む。
インテリアのカタログのような体裁で、在学生や卒業生の作品で埋め尽くされている。
1935年に東京都世田谷区上野毛に創設された多摩帝国美術学校が母体となり、1953年に絵画科・彫刻科・図案科からなる多摩美術大学が開設されている。沿革のページにわざわざ1969年学園紛争により全学封鎖と記載されている。その後1971年から八王子キャンパスへの移転が開始され、1989年には元の上野毛キャンパスに絵画学科・デザイン学科・芸術学科からなる美術学部二部が設置されている。美術学部二部は、1999年には造形表現学部と名称を変えたものの学生が集まらなかったのであろうか、来年2014年でもって学生募集停止が決定している。来年度以降は、日本画専攻・洋画専攻・版画専攻からなる絵画学科、彫刻学科、工芸学科、グラフィックデザイン学科、プロダクトデザイン専攻とテキスタイルデザイン専攻からなる生産デザイン学科、環境デザイン学科、情報デザイン学科、芸術学科と、来年上野毛キャンパスに開設予定の統合デザイン学科と演劇舞踊デザイン学科の10学科で構成される美術学部の単科大学となる。

大学の開設当初から「図案科」が設けられていたためか、デザインに重きが置かれる。昨年の入試倍率でもグラフィックデザインは10倍を超える難関である。
やはり制作の実践を根幹に据えた大学なので、文学部にありがちな美術理論や鑑賞を学ぶ芸術学科は人気がない。定員割れ状態であろうか。
また、八王子に移転を果たした後の上野毛キャンパスの有効活用のためか、理念のはっきりしないデザインや映像表現の学部を開設しており、来年度以降も看板を替えて延命を計っているが、わざわざ都心の狭いキャンパスを確保しておく必要があるのだろうか。この辺りが大学経営の脇の甘さにつながらなければよいが。

また、パンフレット冒頭の多摩美術大学の理念「自由と意力」の文章が格好良かった。

自由は最も尊いものである
ー美術は自由なる精神の所産ー
この建学の心を守る路程が
多摩美術大学の歴史である。
自由の校是は、与えられたものではなく
課せられたものなのだ
しかし意力の併起がなければ
自由は手段にすぎない
意力によって自由は生まれ
自由によって意力は育まれる
自由と意力
ひとくみの言葉は
学内に深沈として流れる美しい河である

大学案内研究:日本大学

2014

日本大学の大学総合パンフレット(2014年度版)を読む。
日本大学の全14学部84学科・22研究科・短期大学部6学科・通信教育部の全てを網羅したパンフレットとなっている。およそ受験生が手に取るパンフレットというよりは、日本大学の全体像を紹介する理事会の事業案内のような体裁である。このパンフレットをじっくり読む人は、よほどの日大マニアであろう。
獣医から哲学、日本舞踊、海洋生物、航空宇宙までおよそ思いつく限りの全ての学部学科が揃っていると言っても過言ではない。また、「数字で見る『日本大学のここがNo.1』」というページには、学生数68,675名、女子学生数20,197名、大学図書館蔵書数5,732,594冊、インターンシップ参加学生数2,347名、就職支援部門の職員数76名、校舎面積995,812㎡、卒業生総数1,079,563名、出身大学別社長数23,402名など、これでもかと赤ゴシック文字でデカデカと宣伝されている。

1989年に創立された日本法律学校を前身とし、1901年高等師範科(現・文理学部)、1904年に商科(現・経済学部並びに商学部)、1920年に高等工学校(現・理工学部)、1921年に美学科(現・芸術学部)、東洋歯科医学専門学校(現・歯学部)を合併、1925年に専門部医学科(現・医学部)、1943年に農学部(現・生物資源科学部)が設置され、戦前の段階でほぼ現在の学部の陣容が揃っている。戦後になってから、1947年に専門部工科(現・工学部)を福島県郡山市に移転、1948年に通信教育部、1950年に短期大学部、1952年に薬学部と工業経営学科(現・生産工学部)、1971年に松戸歯科大学(現・松戸歯学部)、そして1978年に国際関係学部を静岡県三島市に開設している。
数多くの学部学科があるが、都心部の学部は戦前から伝統あるものであり、戦後千葉や静岡に学部を多数開設しているが、それも1978年を最後に新しい学部は設置されていない。
この点が80年代後半のバブル期を中心にいたずらに学部学科を濫造してきた他大との違いであろう。25校もの付属中学高校を経営する理事会である。偏差値50ちょいの中堅校という位置を変わらずに維持し続け、難関校受験者の滑り止めとして、勉強が進まない受験生の志望校として、しっかりと受験生を集めている。日東駒専と受験界では一括りにされるが、その4校の中でトップに居続けるのは並大抵の経営努力ではないであろう。

改めて、学校法人「日本大学」のデカさを知ることとなった。

大学案内研究:関東学院大学

関東学院大学のパンフレット(2014年度版)を読む。
パンフレットによると、1884年アメリカ北部パブテスト神学校の宣教師によって設立された横浜パブテスト神学校を源流とする。その後1895年に、キリスト教の伝道に必要な学力と教養を身につけることを目的とした東京中学院、1919年に中学関東学院がと名称を変え、1949年に新制大学に移行している。1928年には東京帝大に次いで2番目の社会福祉活動「セツルメント」が始まっている。現在でもこうしたキリスト教精神に基づく奉仕を校訓に据えている。
戦後、経済学と工学部の2学部で始まり、1959年神学部、1968年文学部、1991年法学部、2002年人間環境学部、2013年工学部を改組して、理工学部と建築・環境学部が置かれ、さらに看護学部が開設されている。ただし神学部はwikipediaによると学生紛争の影響で廃止されたとのこと。現在は横浜市金沢区六浦キャンパスを中心に、7学部12学科11コースからなる総合大学となっている。このうち法学部のみ小田原から徒歩20分弱の場所にキャンパスが置かれ、サークル活動もグランドもなく本部から隔離されたような形になっている。事実志願者も定員割れが起きている。一方、実学志向の流れで、管理栄養士を目指す健康栄養学科や、幼稚園教諭・保育士を目指す人間発達学科、建築環境学科、看護学科は4倍を越える志願者を集めている。

理工学部などは各コース1ページだけの簡単な紹介しかないが、学部それぞれのパンフレットが別に用意されている。サークルや部活動も同様に別に案内が用意されており、宣伝には力を入れている。

大学のホームページを見ると、小田原市と2017年度4月より法学部を本部の金沢八景キャンパスに移転する協議を始めたようである。東京理科大学や立正大学など、最近郊外に設けられたキャンパスを都心に合併させる大学が増えている。大学としては賢明な判断であろうが、地元の自治体からすれば開設に当たって便宜を図ったのに、大学が移転してしまっては、無駄な敷地と建物だけが残され、その管理維持のための余計な予算措置が強いられる。大学側は小田原市との関係の継続を謳うが、学園全体が横浜市金沢区と横須賀に集中しているので、口先だけの約束で終わるであろう。

大学のホームページより

【キャンパス変更の理由】
法学部の修学キャンパスを金沢八景キャンパスへ変更するのは、外部環境(大学間の競争の激化、都内大学のキャンパスの集約化の進行、少子化による志願者の減少)に対応しつつ、総合大学のメリットを活かした教育の展開、きめ細やかな学生支援の充実、施設設備の有効活用を行うためのものです。この2年間、残念ながら法学部は定員を確保することができなかったこともあり、今後の法学部の教育を強化するためには本学の人的・物的資源の有効活用が不可欠であり、本学のメインキャンパスである金沢八景キャンパスに修学場所を変更せざるを得ないと判断したしだいです。
【今後の小田原キャンパスについて】
上記のことからご理解いただけるように、法学部の修学キャンパス変更は関東学院大学のさらなる発展に不可避のことと考えています。しかし、このことは関東学院が小田原の地から立ち去ることをただちに意味するものではありません。
1991年に小田原キャンパスを開設して以来、関東学院は22年にわたって小田原市との公私協力体制を維持して参りました。小田原キャンパスで働いてきた教員・職員の多くは、小田原に大きな愛着を抱いています。また、法学部の教員は小田原市を含む近隣の市町村の各種委員として、また公開講座などの講師として地域貢献をさせていただきました。このような互恵主義の精神は今後も変わることはありません。小田原キャンパスの今後の利用については小田原市と誠意をもって協議を進めていきます。

大学案内研究:神奈川工科大学

神奈川工科大学のパンフレット(2014年度版)を読む。
パンフレットの大半が勉強の内容がよく分かる学部学科の説明に費やされている。「そういえば昔見た長岡技術科学大学のパンフレットに似ているなあ」と思いながら読み進めていたら、工業高専が母体となって設立された大学であった。現在のマルハニチロホールディングスとなる太洋漁業株式会社を設立した中部幾次郎の後を継いだ中部謙吉が、現在地の神奈川県厚木市に1963年に創立した「幾徳工業高等専門学校」が、1975年に幾徳工業大学になり、1988年に現在の校名に変更されている。
現在は機械工学科・電気電子情報工学科・応用化学科からなる工学部、自動車システム開発工学科・ロボット・メカトロニクス学科・ホームエレクトロニクス開発学科からなる創造工学部、情報工学科・情報ネットワーク・コミュニケーション学科・情報メディア学科からなる情報学部、応用バイオ科学科と栄養生命科学科からなる応用バイオ学部の4学部11学科で構成されている。
また、大学院レベルの先進性の研究を行う特別プログラムが用意されており、入試段階で選抜し大学院までの一貫教育を行っている。環境エネルギー、医生命科学、ICTスペシャリスト、次世代自動車開発の4つの特別専攻が置かれている。
元が高専のためか、教養科目や学部共通科目はほとんどなく、就職直結の専門科目が中心となっている。また大学院への進学者も文系なみに少ない。少し前は全くの無名大学であったが、「理高文低」の流れもあり、志願者数は上昇している。就職状況は好調である。
また、理事会の方針なのか、高専時代の流れなのか、大学のパンフレットに「お子様に対する願いを実現するために」と題したページが設けられ、保護者懇談会や成績表送付、週に1度の出席情報メールの配信、保護者向けの就職ガイダンスなどが実施されている。