夏の16冊目
絓秀美・花咲政之輔編『ネオリベ化する公共圏:壊滅する大学・市民社会からの自律』(明石書店 2006)を読む。
早稲田大学というと「在野精神」「学の独立」といった自由闊達な文化が渦巻いている大学として一般的には知られている。そして、実際、90年代まで学生会館や校舎の地下部室、ラウンジに多くのサークルがたむろする空間が残され、多くの学生やOB、社会人が集う場が残されていた。しかし、突如2001年7月に早稲田大学のキャンパス内から授業に支障があるとの理由で自主空間の全てが一斉に強制撤去されてしまった。テレビニュースなどでも大きく報道され、当時反対の声が多くの学生・教員から上がった。そして、2005年12月に、この問題に疑義を呈したビラを巻いた(巻こうとした)学生が大学の一教員に私人逮捕され、警察に引き渡されるという事件まで起きている。
こうした早稲田大学におけるサークル部室の撤去や学生の逮捕を、単に一大学の運営管理の問題、一個人の怨恨といた個別の問題として捉えず、大学における自治空間の意義、引いては市民社会における「社会」そのものの意義を改めて真摯に問い直そうとする良書である。
近畿大学教員の絓氏が指摘しているように、大学とは授業でイラク戦争反対の署名を集めたり、入試問題で言論の徹底的自由を論じた評論文を扱ったり、一定左派的な「風潮」がまだ残されている。また、そうした左派的言説がマスコミにもてはやされ大学の宣伝になっていたりする側面がある。しかし、実態はそうした「大学幻想」を守るために、大学理事会は学内に警察を導入したり、極めて暴力的な言論封殺を行っている。授業やゼミにおいては「学問の自由」を声高に喧伝する一方、学内における「学問の自由」を脅かそうとする輩には「不審者」「特定政治党派の手先」といったレッテルを貼り排除するという背反するような行為を大学当局はくり返すのである。そうした「自由」「民主的」「平和」といった「正義の刀」で、他者・不審者を排除しようとする論理がここ数年様々なケースで使われることの危険性を説く。