坂口安吾『堕落論』(角川文庫 1957)を少しだけ読む。
確か高校3年生の時に買って以来、いつか読むだろうとずっと本棚に眠っていた本だったように記憶している。高3の冬に横浜駅の有隣堂という本屋で買ったんだっけ?
戦前から戦後にかけての雑誌に掲載されたもので、当時の時代状況が分かっていないと楽しめない作品であった。その中で印象に残った一節を引用しておきたい。
女の人には秘密が多い。男が何の秘密も意識せずに過ごしている同じ生活の中に、女の人はいろいろな微妙な秘密を見つけだして生活しているものである。(中略)
このような微妙な心、秘密な匂いをひとつひとつ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいように大切であろうと僕は思う。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも眉毛でも、僕らにはわからぬ「いのち」が女の人には感じられるのではあるまいか。まして容貌の衰えについての悲哀というようなものは、同じものが男の生活にあるにしても、男女のあり方はにははなはだ大きな距(へだた)りがあると思われる。(中略)
女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距りについて、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われがたいものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、そのだいじの肉体が凋落しては万事休すに違いない。女の青春は美しい。その開花は目覚ましい。女の一生がすべて秘密となってその中に閉じこめられている。だから、この点だけから言うと、女の人は人間よりも、もっと動物的なものだというふうに言えないこともなさそうだ。実際、女の人は、人生のジャングルや、ジャングルの中の迷路や敵の湧き出る泉や、そういうものに男の想像を絶した美しいイメージを与える手腕を持っている。もし理智というものを取り去って、女をその本来の肉体に即した思考だけに限定するならば、女の世界には、ただ亡国だけしかあり得ない。女は貞操を失うとき、その祖国も失ってしまう。かくのごとく、その肉体は絶対で、その青春もまた、絶対なのである。