今朝の東京新聞の朝刊に目を引くコラムが2編掲載されていた。
一つは、北海道大学教授の山口二郎氏のコラムである。山口氏は、辺野古沖に新しい滑走路を建設するためには、知事の許可が不可欠であり、沖縄はまだ辺野古移設に対して拒否権を持っていると指摘した上で、次のように述べる。
福島社民党のけんか別れは愚劣な判断だったと思う。辺野古移設が実現するまでにはあとひと山、ふた山ある。民主党をハト派に引き留めるためには、社民党が連立にとどまることが必要だった。一時に自己満足のために大局を見失うというのは、日本の左翼にありがちな玉砕主義である。
かつて、プロレタリア文学者中野重治は、組織や運動を裏切った「転向作家」とレッテルを貼られても、ねばり強く、国家によって制限された表現手段の中で、反戦平和を唱え続けた。社民党も、連立の枠組みの中で、沖縄を裏切った「転向政党」と揶揄されようが、基地の国外移転に向けて努力をすべきだったのではないだろうか。
そして、山口氏は保革を超えた沖縄県民の団結に注目し次のように述べる。
中央の政治家や官僚、メディアは、沖縄県民を侮るべきではない。中央政府や無関心な国民が沖縄だけにツケを回す姿勢を改めないならば、辺野古基地は第二の成田空港になる可能性がある。
ここで、山口氏は沖縄基地闘争の中に、成田空港闘争のようなねばり強い平和運動につながる萌芽を見ている。
もう一つは、一面コラム「筆洗」である。そのなかに次の一節が掲載されていた。
沖縄在住の芥川賞作家目取真俊さんはかつて「沖縄の現実に対して、あなたはどうするのか、という問いが、すべての日本人に向かって沖縄から発せられています」(『沖縄「戦後」ゼロ年』)と指摘した。ほとんどの国民は、保障の負担を感じずに生きている。「その醜悪さを日本人は自覚すべきです」と目取真さんは迫る。普天間問題は鳩山首相を批判して終わる話ではない。
大変ぐさりとくる文章である。イスラムの「剣か、コーランか」ではないが、「自分たちの幸せか、沖縄の犠牲か」といった二者択一が私たち日本人に突きつけられている。
また、今日も立教大学大学院教授、哲学者の内山節さんの「グローバル化時代の幸せとは」と題されたコラムを堪能した。さっそく来週からの「現代文」の授業で活用してみたい。