現代民主主義版「刀狩り」

本日の東京新聞朝刊は一面から社説、政治面、社会面に至るまですべて秘密保護法案に対する懸念の記事であった。
一面コラムの「筆洗」の内容も然ることながら展開も秀逸であったので、じっくりと一言一句噛み締めながら引用してみたい。

「分」という字の中には、「刀」がある。八の字を左右に切り分けるから、分ける。そして「分ける」という言葉から「分かる」も派生したという。
確かに、分けることは、分かることの始まりだ。植物と動物、蝶と鳥、星と月…。そのものの形と質の違いを見極めて、分類を重ねることで、人間は自然への理解を深めてきた。
逆に言えば、きちんと分けられないということは、分かっていないということだ。デモをテロと同一視した自民党の幹事長は、恐らく分かっていないのだろう。民主主義における自由の本質と、それを脅かす恐怖との違いが。
いや、一政治家の問題ではない。特定秘密保護法案は、テロを〈政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要…〉する行為だとする。漠としたこの定義で、何がテロかを区別できるのか。これならば、デモをテロと呼ぶことすらできるのではないだろうか。
そもそも、どの情報が守るべき秘密かを分ける物差しの形すら曖昧模糊として、国民には分からない。国を動かす情報を切り分ける力を持つのは、閣僚と官僚だけ。民主主義とは、刀の代わりに言論を戦わせる制度だが、正確な情報がなくては、分別の刀もふるいようがない。
要するに、秘密保護法とは、政府に都合の悪い言論を封じるための、現代民主主義版「刀狩り」のようなものではないのか。

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