月別アーカイブ: 2014年10月

『明日の記憶』

萩原浩『明日の記憶』(光文社 2004)を読む。
若年性アルツハイマーに罹った中年男性の一人称の語り口で物語が進んでいく。
徐徐に記憶が抜け落ちていく不安と、そうした自分を支えてくれる家族や同僚の愛情がリアルに伝わってきた。
記憶が抜け始め、会社を辞めてから、妻との初々しい馴れ初めや、学生時代の陶芸の思い出、娘の小さい頃の笑顔などの幻覚が次々に主人公を襲う。
しかし、そうした記憶の恐怖が自然の土に触れるという体験を通して、家族への愛情へと劇的に変わっていくラストシーンには、久方ぶりに涙腺が緩んでしまった。
『アルジャーノンに花束を』に内容や描写が少し似ていたが、ハッピーエンドで終わる『明日の〜』の方が作品としては良い。

アルツハイマーが進行し、日常の仕事のミスが頻発する中で、主人公は次のように語る。

記憶がいかに大切なものか、それを失いつつある私には痛切にわかる。記憶は自分だけのものじゃない。人と分ち合ったり、確かめ合ったりするものであり、生きていく上での大切な約束ごとでもある。(中略)たった一つの記憶の欠落が、社会生活や人間関係をそこなわせてしまうことがあるのだ。

しかし、学生時代に何度も通った登り窯での一夜が空けて次のように語る。

(娘の顔すら思い出せなくなり)私と違う苗字の下に書かれた娘の名前をぼんやり見つめていた記憶はあるのだが、その名前もなかなか頭に浮かんでこなかった。時間が止まったようなこの山の中にいるせいだろう。きっと記憶を下界に置いてきてしまったのだ。戻れば思い出せる。なんの根拠もなく私はそう考えていた。不思議なことに、いまは記憶を失う恐怖心は薄かった。記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。私が失った記憶は、私と同じ日々を過ごしてきた人たちの中に残っている。

話は変わるが、昨日、大学の試験日を間違えて、浦和の会場まで行ってから引き返すというぽかをしでかした。単なる確認ミスだったのだが、十分に「おっさん」の年齢に達している自分にとって、「若年性アルツハイマー」の話題は決して他人事で片付けられるものではない。文章の呂律も廻っていないし。。。

皆既月食

仕事の帰り道にスマホで撮影してみた。
真ん中にある芥子粒のような光が、下部の大半が欠けた月の姿である。
まあ、記憶に留めておくだけにしよう。
2014-10-08 19.20.55

『チャップリン』

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江藤文夫『チャップリン』(岩波ジュニア新書 1995)を40数ページだけ読む。
タイトル通り、チャップリンの映画の分かりやすい解説書である。81本にも及ぶチャップリンの映画の名場面を紹介しながら、そこに込められた意味や警句が丁寧に説明されている。
しかし、チャップリンの映画を一本も観ていないので、いくら読み進めてもチンプンカンプンであった。う〜ん、残念。

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

河合隼雄、村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮社 1996)を読む。
今年もノーベル賞受賞が噂されている作家村上春樹氏と、ユング研究で有名な精神科医河合隼雄氏の対談集である。文学論や日本人論、身体論、刊行当時の村上氏の最新作『ねじまき鳥クロニクル』を巡る暴力論など、話のテーマが次々に駆け足で移っていく。
後半はざっーと読み流してしまったが、村上氏の小説に対する素直な真摯な思いが印象に残った。その中の一節を引用してみたい。20年前の文章であるが、ネットが日常の一部、いや全てになった現在読んでも、全く遜色ない考え方が示されている。

 最近小説が力を失ったというようなことが巷間よく言われるわけですが、(中略)僕は決してそうは思いません。小説以外のメディアが小説を越えているように見えるのは、それらのメディアの提供する情報の総量が、圧倒的に小説を越えているからじゃないかと僕は思っています。それから伝達のスピードが、小説なんかに比べたら、もうとんでもなく早いですね。おまけにそれらのメディアの多くは、小説というファンクションをも、自己のファンクションの一部としてどん欲に呑み込んでしまおうとする。だから何が小説か、小説の役割とは何か、という本来的な認識が、一見して不明瞭になってしまっているわけです。それは確かです。
 でも僕は小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいはつたない個人的営為)にあると思うのです。それを保っている限り、小説は力を失わないのではあるまいか。時間が経過して、そのような大量の直接的な情報が潮を引くように引いて消えていったとき、あとには何が残っているかが初めてわかるのだと思います。
 だいたい、巨大な妄想を抱えただけの一人の貧しい青年が(あるいは少女が)、徒手空拳で世界に向かって誠実に叫ぼうとするとき、それをそのまま——もちろん彼・彼女が幸運であればということですが——受け入れてくれるような媒体は小説以外にそれほどたくさんはないはずです。
 相対的に力を失っているのは、文学という既成のメディア認識によって成立してきた産業体質と、それに寄り掛かって生きてきた人々に過ぎないのではないかと、僕は思います。フィクションは決して力を失っていない。何かを叫びたいという人にとっては、むしろ道は大きく広がっているのではないでしょうか。

『スペインの墓標』

五木寛之『スペインの墓標』(実業之日本社 1976)を読む。
予備校時代か大学時代に読んだのであろうか。長い間本棚の奥に眠っていた本だ。
カタルーニャ州で独立の賛否を問う住民投票のニュースを見て、ふと手に取ってみた。

一流ラジオ局のプロデューサーが、ある日突然その地位を捨て、スペインへと姿を消し、戦後のフランコ将軍の独裁体制に異を唱える地下放送局の一員となった中年男性の姿を追う表題作の他、現代版特攻隊である暴走族を描いた『優しい狼たち』、見栄と欲得がうずまくスタジオで、代議士のイメージソング制作に携わる男たちを描く『フィクサーの視界』、学園闘争吹き荒れた時分のタンゴ喫茶を追い求め続ける『遥かなるカミニト』など5作が収録されている。
どの作品も、執筆当時の作者の気持ちを代弁したのか、学生時代にしみ込んだ反体制な考え方と、流され続けていく資本主義社会に狭間の中でモヤモヤを抱えたまま生活している30代後半から40代の男が物語の主人公となっている。

『スペインの墓標』の中で、家族や仕事を捨てて、スペインでフラメンコダンサーと共に生活を始めた佐野は、同じく学生運動の同士であった旧友に向かって次のように語る。1・2年前の自分に向けられた言葉のようで印象に残った。20年前の学生時代に読んだ際にも、中年おやじになったら読み返してみようと思ってわざわざ残しておいたのかもしれない。

反権力、反体制、そして人民大衆のため——。こいつがおれたちのアキレスの踵なんだよ。いちど運動に参加した人間は、そいつに噛まれた傷跡を心の底に必ず残しているような気がするね。たとえ企業内で転向して、立身出世主義者の道を選んだとしても、どこかにその傷跡が残っていて、時々不意にしくしくうずき出すことがある。わかるかね。そんな感じが。

自分の今の生き方、職業、家庭、地位、そんなものが、急にふっと空しい、つまらないものに見えてくる。毎日あくせく仲間を裏切ったり、嘘をついたり、見栄を張ったり、自分をごまかしたり、いろんなことを習慣的にやりながらおれたちは生きてるんだ。それは何のためだ? 精々が同僚より早く出世したり、小遣をごまかしたり、女房以外の女と寝たり、そんなつまらん事のためじゃないか。毎日自分をすりへらして生きるのはいい。だが、それが何のためかを考えるとき、突然なにもかもが色褪せて見えてくる。おれは一日に一度は必ずちらとそんな空白の一瞬を持ちながら何十年か生きてきた。お前さんだって、そんな瞬間がないとは言わせない。そうだろ?

そこさ、だが、人間ってみんなそうなんだと自分で言い聞かせてその一瞬の問いを無視するのさ。そして習慣的に生き続ける。だけど、そういった日常感覚の破れ目に、ある強い風が吹き付けると思いがけないおおきなほころびになることもある。