テレビ」カテゴリーアーカイブ

だらだらテレビ、だらだら新聞

今日は暑かった。(^_^ゞ  (^_^ゞ
だらだらと汗を流しながら、一日中だらだらテレビを見、東京新聞をだらだらと読んでいた。
テレビでは朝からずっと郵政民営化法案の参院本会議解決の行方を追っていた。やれ参院で自民党から18人の造反議員が出たら否決だの、衆院解散だの政治ゲームがかまびすしいが、肝心の郵政法案の中身はテレビも新聞も報じない。要は公務員の地位にしがみつきたい郵政公社の職員と、その集票機能に頼る族議員の抵抗なのだろうが、一体何を争点に争っているのだろうか。国民不在の永田町政治と揶揄されても仕方ないであろう。

また、夕方のテレビでスペースシャトル「ディスカバリー」で宇宙へ行った野口聡一さんの活動が紹介されたが、一体彼を含めスペースシャトルは何を目的として打ち上げられたのだろうか。船外の外れかけた耐熱カバーの修理の模様がテレビで中継されていた。まさか機体の修理をするために打ち上げられたのでもなかろう。マスコミには秘密の企業委託の研究でもやっているのだろうが、そのスケジュールは国民的行事と騒がれながらも謎のベールに包まれていた。

今日の夕刊で国連安全保障理事会常任理事国入りを目指す四カ国とアフリカ連合の協議の様子が報道されていたが、一体、日本のみならず、ドイツやインド、アフリカ諸国は常任理事国に入って何がしたいのだろうか。現安全保障理事会の大国中心政治を変えたいのだろうが、アメリカの世界戦略のシナリオ通りに話が進んでいるというカラクリになぜ気付かないのだろうか。

『爆笑問題&日本国民のセンセイ教えて下さい!』

今日の夜「爆笑問題&日本国民のセンセイ教えて下さい!」というテレビ番組を見た。
爆笑問題の二人が司会を務め、教師や医者、政治家と呼ばれるセンセイたちをゲストに教育、医療、政治の問題をぶつけるというバラエティー番組である。その内の教育に関する討論のやりとりを見ていたのだが、ゆとり教育、学力低下、教員の不祥事などうんざりするようなテーマばかりであった。
それにしても少子化が叫ばれる現在でも、教育問題は相変わらずホットなテーマのようである。先日終了した「ごくせん」や「3年B組金八先生」など学校に関するドラマも大人気である。しかし、教育問題というのは、誰しもが10年以上体験していることなので、どうしても個人的な経験や思いが先走ってしまうものである。「私の頃の先生は○○だった」「昔も今も子どもというのは○○なものである」といったように、主観的な思考法からなかなか抜けられない。

テレビを見ていて思ったのだが、学力低下やゆとり教育など現代的なテーマであろうと、議論の行き着く先は開発主義教育か注入主義教育かという尽きせぬ教育哲学の論争になっている。開発主義とはソクラテスの産婆術や孟子の性善説に代表されるように人間には生まれつき善なるものがあり、それを伸ばすのが教育だとする考え方である。ルソーの「子どもの発見」やペスタロッチの「合自然主義」、またフレーベルの幼稚園教育や、モンテッソリーの集中教育につながっていく児童中心主義である。注入主義とはプラトンや荀子の性悪説に代表されるように、子どもにその社会や国家にとって善なるものを教え込み、子どもを社会の一員に育て上げようとする考え方である。ロックの精神白紙説やヘルバルトの段階教授法などに受け継がれていく教師中心主義である。日本でも世界でも教育政策は大きくこの2つの考え方の間を揺れ動いていると考えてよい。

ここ10年ほど、文部科学省の役人は総合制高校や総合的な学習の時間の創設、学習指導要領の柔軟な解釈など開発主義的教育に裏付けされた教育行政を展開してきた。しかしそうしたゆとり教育や問題解決学習自体が学力低下や生活の荒れを生んでいるとの”誤解”を受けている。最近は自民党右派の文部科学大臣の就任や、都道府県や市町村の教育委員会の反動化により、文科省の政策は「修正」を強いられている。総合的な学習の時間や司書教諭の必置もなかなか都道府県レベルに浸透しないままぽしゃってしまいそうな情勢である。また2003年に打ち出された特別支援教育の理念も、地方公共団体の逼迫した財政により具現化に向けたテンポは遅い。

「ダウンタウンDX」

本日「ダウンタウンDX」という番組を観た。
ゲストに小泉首相の息子である小泉孝太郎さんが出ていた。ちょうど孝太郎が父親の素顔を語るというコーナーだった。孝太郎氏がいろいろと首相の日本酒の飲み方など家族しか知らない素顔を打ち明けるのだが、ダウンタウンの松本氏は「そうじゃなくて、小泉さんがカッパエビセンをこう(袋を逆さまにして口を近づける真似)しながら食べているという話が聞きたいんじゃ」と突っ込むシーンがあった。松本氏のこの発言はかなり鋭いと思った。確かに小泉さんのキャッチボールをする姿や、酒の飲み方も彼の「実の姿」を現している。しかし、松本氏の指摘するようにカッパエビセンの食べ方ほど小泉さんの「真の姿」をさらすものはないであろう。

「ガイアの夜明け」

今夜テレビ東京の『日経スペシャル「ガイアの夜明け」』という番組を見た。
東京大学が大学内の研究結果を特許として売り出し、新しい形での産学協同路線の評価を探る番組である。目に見え、数字として現れやすい結果をもてはやす大学評価制度の表れである。果たして企業の公害や軍需産業批判など特許にもならず、企業に売り込みも出来ない研究は誰が評価してくれるのだろう。

万景峰号と甲子園

今月は少し時間の余裕があったのでテレビを何ともなしに眺めている時間が多かった。その中で2つのニュースが気になった。

1つは北朝鮮と日本を往復する貨物船万景峰号の騒ぎである。まさに事件そのものよりも,マスコミが事件を創り出してしまう恐怖を実感した。拉致問題と貨物船問題というベクトルの違う問題を怒号と涙で一緒くたにされてしまった。複雑な事件ほど善悪,功罪をきちんと分けて見ていく必要がある。そうした物事を冷静に捉えようとする視聴者の「思考」を停止してしまうテレビの力は恐い。

2つめは甲子園での今治西高校の曽我選手の件だ。マスコミの側が懸命に努力物語を作ろうと取材を重ねているが,本人は極めてクールであった。その分だけマスコミ側の滑稽さが際立った。彼は「(障害のある人たちへの)励ましのために野球をしているわけじゃないけど,何か感じてくれるのはうれしいです」と語ったそうだが,日本におけるバリアフリーも新しい段階に来たのではないかと思った。肩肘張らず,「優しさ」を切り売りする形ではないボランティアの形態も生まれてくるのではないだろうか。