本日の東京新聞夕刊に、「変わる知の拠点」と題した連載記事が掲載されていた。本日は自治体直営の公共図書館で非正規職員が増えているという内容であった。
現在、日本の公共図書館で働く人のうち、パートやアルバイトといった非常勤・臨時職員が年々増えている。指定管理へ移行した図書館の委託・派遣職員を含めると、2012年現在、3214館の図書館で働く約2万7千人の職員のうち、非常勤職員は1万5789人、67%に上るという。
記事では非常勤の司書職がいないと仕事が回らない実態が明らかにされている。正規に司書がいない図書館で勤務する非常勤司書の「非常勤が図書館を背負っている自負がある」という一言が印象に残った。ネットを活用してレファレンスを個人で行うことが簡単になった時代に、正規の司書が必要がどうかは意見の分かれるところであろう。
昔は本の配置や管理、適切な保存法などはある程度職人業のようなところがあり、司書でなければ図書館は務まらなかった。しかし、現在はネットで本の購入、配置も可能であり、バーコードやPOSシステムを用いれば、管理や人気作品の把握も容易になっている。商売人の経験や勘が頼りであった商店の切り盛りが、誰でもが経営できるコンビニになったように、情報端末を駆使すれば図書館の運営は「素人」でも十分に可能である。
ネットで全国どこでも本が買えるようになった現在、公設の図書館が逆に地元の小さい本屋や出版社を圧迫しているのではないだろうか。私はむしろ市町村の図書館は子どもが活字に親しむ機会を増やすことだけに注力して、高校生以上の大人が本屋を活用する機会を奪うものになってほしくないと思う。
非正規労働者の増加は憂える事態であるが、それと図書館のあり方の問題は切り離して考えた方が良い。
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那智黒石
昨日の東京新聞夕刊一面に、硯や碁石の原料として知られる三重県熊野市産の那智黒石が、岩波書店の広辞苑で1955年以来、熊野那智大社のある和歌山県の那智地方で産出したと誤記されたままになっているという記事が掲載されていた。
ちょうど、昨日那智勝浦に行ってきたばかりだったので興味深かった。那智の黒石は熊野市神川町で採掘され、主に熊野那智大社周辺で販売されている。那智勝浦町では採掘されておらず、熊野市産出というのは間違いないようだ。
それにしても、この三重と和歌山の県境付近は地名が混在しており、辞書編纂の担当者が間違えるのも無理はないのではないか。熊野や紀伊という地名や駅名が三重にも和歌山に複数存在し、さらに文化圏も地続きとなっているため、他県の人にはなお分かりにくい。混乱に拍車をかけるような情報はきちんと峻別されるべきであろう。
悔いこそは未来なり
本日の東京新聞夕刊のスポーツライター藤島大氏の連載コラム「スポーツが呼んでいる」が興味深かった。
高校野球について述べているのだが、学校教育や青年教育全般にも通じる内容であった。これまで何かと否定的に捉えられてきた一発勝負で優劣を決することの教育的価値を全面に支持している。引用してみたい。
(中略)
夏の甲子園大会決勝を頂点とするトーナメントの弊害も長く語られてきた。
1年間、たっぷりと鍛錬を積んできて1試合で終わる。控え部員にいたっては練習と試合のバランスを極端に欠く。
そうした否定的な側面を理解しつつ、それでも高校野球を象徴とする「トーナメント一発勝負」に美徳はある。
それは「感情の揺れの大きさ」である。あとのない試合では、勝っても負けても心がうんと動く。もし真剣に競技に打ち込んできたなら、喜びと悲しみも極端に近づく。ここが貴重なのだ。
人間は感動で成長する。ノックアウト方式では、わずかな油断で長期間の練習の成果がもろくも崩れる。反対に、大会前に困難を乗り切ると、みるみる力がついて、強敵を倒したりできる。
それらを経験すると「人生に対するおそれ」と「人間のおそるべき可能性」の両方を実感としてつかめる。
若者は「負けても次のあるリーグ戦」によって、同程度の実力者で競い、身の丈に合ったスポーツ活動をすべきだ。練習よりも試合を楽しもう。正論かもしれない。
しかし若者だからこそ「負けたら次のないトーナメント」の高揚と冷徹と残酷を思い知ることも必要なのである。頂上体験は青春を磨き、悔いにまみれる挫折もまた思春期に深みをもたらす。一瞬のために膨大な時間を過ごすのも若き日の特権なのだ。
高校野球はどこかおかしい。でも、ただおかしいだけなら、こんなに人は育たない。
このほど米国のヤンキースで引退式典、かの松井秀喜さんは、まさに「甲子園への道」が育んだ。さまざまな均衡を欠いた仕組みであっても立派な個性は出現した。これからもするだろう。ここは肯定的人間観の出番である。
トーナメントに散った者よ、深夜の床でアーッと叫ぶ悔いこそは未来の力なのだ。
「いじめ」言葉と実態に差
本日の東京新聞夕刊の文化欄に掲載された、小説家小手鞠るいさんのエッセーが興味深かった。引用してみたい。
物書きのはしくれとして、私が長年「なんとかならないか」と思っている日本語があります。それは「いじめ」という言葉です。調べてみるといじめは、1985年に全国の小・中学校で横行し、大きな社会問題になっています。それから30年近くが過ぎようとしているのに、状況は一向に改善されていない。その要因のひとつとして、「いじめ」という言葉が、個々の実態を性格に言い表せてないだけでなくて、むしろ問題の深刻さを人々の目から遠ざけている、つまり、煙幕、隠れ蓑のようなものになっているのではないかと、私には思えてならないのです。かつて、幼児や児童や若い女性に対する性的虐待やレイプが「いたずら」と呼ばれていた頃に抱いていた違和感と同じです。
たとえば、金銭を巻き上げたのであれば「恐喝」と、暴力が伴っていれば「暴行」と、複数でそれをやったのなら「集団暴行」と、たとえ言葉だけの攻撃であっても「言葉による暴力」と、個別に正しく、具体的に表現するべきではないでしょうか。被害者が自殺してしまった場合には「執拗な嫌がらせによって、相手を死に至らしめた」と、加害者にフォーカスして表現することによって、事態を看過(ときには加担)していた教師、学校に対しても、それは重大な「犯罪」であったと、認識させることができるかもしれない。
あいまいなひらがな言葉や外来語などで物事の本質が誤摩化されてしまう。そうした言葉の危険性が指摘されている。また人畜無害なはずの「平和」や「愛情」といった言葉の裏側にも、悪質な実態が糊塗されていることがある。言葉が目の前をどんどん流れていく、現代のネット時代においてこそ、言葉を真摯に見極め、言葉が示す物事をじっくりと見つめていく能力と余裕を養いたい。