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「熱狂で社会は動かぬ」

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本日の東京新聞夕刊文化欄に、若手論客の一人で北海道大学准教授の中島岳志さんの紹介が載せられていた。中島氏の発言を繋げてみると、ちょうど話がつながるので、そのまま引用してみたい。
ネットで調べたところ、中島氏は左派系の『週間金曜日』と真性保守思想を掲げる『表現者』という正反対に位置する雑誌の編集委員を務める変わった人物である。
1932年に財閥や政治家を狙った連続テロを起こした「血盟団」事件にまつわるインタビュー記事である。中島氏は次のように語る。

格差社会が広がり、閉塞した社会状況の中で将来に夢を持てない若者の鬱屈がどんどんたまる…。当時と、現代のわれわれの問題は同じです。

今の日本も政治への不信感が強まっている。アベノミクスで安倍さんの支持率は高いが、ちょっと前までは自民も民主も頼りにならなかった。「決められる政治」という言葉がはやったが、どこに怒りをぶつけていいか分からない不透明な時代が続き、一気に誰か何かを変えてくれという救世主待望論が高まった。それが橋下徹大阪市長の人気につながっていましたね。当時だって、社会を変えてくれという世論がこうした暴力事件や一部の青年将校への過大な期待につながっていたのだと思います。

ナポレオンもヒトラーも民主制の下で選ばれている。全体主義は上からの圧力で始まるのではない。社会が閉塞感を抱える中で、ずばっと言ってくれる人を民衆側が熱狂的に求めます。そんな大衆心理を代弁してくれる政治家が一気に権力を把握する。戦前の日本も世論の熱狂的な支持が軍部の暴走を許しました。

歴史と対話すると言いますが、「これはこんな事件だ」と安易にラベリングするのではなく、いまの自分と地続き、同根の問題と捉えないといけない。それが歴史というものだと思います。歴史を追体験することで、事件と向き合い、いまを生きることの何らかの一歩になる。社会はそんなに簡単に変えられませんから。丁寧にやる敷かない。

「ヘイトスピーチは差別」判決

昨日の東京新聞夕刊一面と、本日の朝刊一面に、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が行った京都朝鮮学校周辺でのヘイトスピーチを巡る判決についての記事が掲載されていた。
記事によると、2009年12月から2010年3月の間の3回にわたる京都朝鮮学校近くで、「朝鮮学校を日本からたたき出せ」「スパイの子ども」といった人種差別発言を拡声器で連呼し繰り返し授業妨害を行ったことに対し、学校法人京都朝鮮学校が、学校周辺での街頭宣伝の禁止と三千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、京都地裁は7日、半径200メートル以内の街宣禁止と1226万円の支払いを命じたとのこと。「在特会」側は表現の自由を主張していたものの、橋詰均裁判長は「ヘイトスピーチ」の内容そのものには触れず、在特会の街宣が「(日本も批准する)人種差別撤廃条約で禁止した人種差別に当たる」と指摘し、「示威活動によって児童らを怖がらせ、通常の授業を困難にし、平穏な教育事業をする環境を損ない、名誉を毀損した」として、不法行為に当たると判断している。

今回の判決は、「表現の自由」にあえて踏み込まず、侮蔑的で差別的な発言を人種差別と指摘し、示威的活動やインターネットでの映像公開を名誉毀損と認定している。その上、半径200メートル以内での禁止と明確に境界線を示した上で、かつ被告側に多額の賠償を命じている。2つか3つのテレビ番組でも概ね好意的に取り上げられていたが、私は大変画期的な判決だと思う。街宣車のスピーカーから発せられる爆音がぎりぎり届かない距離を示し、発言内容そのものを禁んずるのではなく、「人種差別撤廃条約」と民法の名誉毀損での2点できっちりと賠償を示している。行政や国家に対する反対デモの自由を認めつつ、民法709条、710条を論拠に、人種差別や生徒の権利に特段の配慮している。見事な大岡裁きといってもよいだろう。

また、一部報道では、日本ではヘイト・スピーチに対する法的整備が進んでいないのが今回の問題の原因だとの説明がなされた。しかし、現状の社会状況を踏まえると、そうした法的規制は諸刃の剣となるであろう。マイノリティ攻撃を防ぐためのヘイトスピーチ規制は、容易に国家・行政・司法への批判の声に対する封殺の論拠に転化していくであろう。私たちは表現の内容を十全に配慮しつつ、人権への配慮を考えていかねばならない。
それにしても、わざわざ法で規制するまでもなく、「そこまでは敢えて言わない」という日本人的な「暗黙の了解」で物事を済ますことができないものであろうか。「在特会」の構成員にこそ、「日本人の場の空気を読む美徳」を勧めたい。

ヘイトスピーチ
人種や民族、宗教などを理由に差別意識や偏見を抱き、激しい言葉で憎しみを表現すること。「憎悪表現」と訳される。在日韓国・朝鮮人が多く住む東京・新大久保や大阪・鶴橋で、一部の団体が「殺せ」「たたき出せ」などと叫びながらデモを繰り返し、社会問題化。これに反対する集団との乱闘事件も起きている。日本には法的規制がない。

社民党党首選の報道

本日の東京新聞朝刊に、27日に告示された社民党党首選の記者会見の模様が報じられていた。
東京都豊島区議の石川大我氏(39)と、吉田忠智政審会長(57)の一騎打ちが確定し、1996年に社民党と党名を変更後、初の党首選となった。
石川氏は福島前党首の元秘書で、「党をリニューアルしてリベラル勢力を再構築し、新しい時代の結集軸をつくりたい」と決意を表明した。石川氏は2011年に区議選に初当選し、同性愛者であることを公表しているそうだ。写真で見る限り爽やかな青年であり、彼のリベラル勢力の結集軸を目指すという決意も時宜を得ている。リベラル勢力に若手が登場しにくい現在、参議院議員山本太郎氏と連携を計りながら、30〜40代の育児世代の声を政界に届けてほしい。

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敬老の日に思う。65歳以上4人に1人

本日の東京新聞朝刊に、「敬老の日」に合わせ総務省が発表した人口推計によると、2013年の65歳以上の高齢者は前年に比べ112万人増の3186万人となり、総人口に占める割合は25.0%に達したとの記事が載っていた。今月15日時点で、70歳以上は総人口の18.2%、75歳以上は12.3%、80歳以上は7.3%である。さらに、国立社会保障・人口問題研究所は、2035年には65歳以上の割合は総人口の3人に1人の割合となると予想している。
老年人口1人に対する15歳から64歳の生産年齢人口の比率は、1960年で11.2人、1980年で7.4人、2000年で3.9人、2020年で2.2人という試算がある。すでに1人の老年人口に対して、3人を割る生産年齢人口比となっている。世代論に根ざした議論は得てして不毛なものである。しかし、団塊世代を中心に今後も際限なく増大していく社会保障費を若者世代が負担するという仕組みは、どうしても不公平感を拭えない。高齢者保護はどこの国の政府にとっても当然の方針であるが、すでに日本では年金制度含め破綻している。しかし破綻しているにも関わらず、選挙が近くなると、高齢者の票目当てに高齢者優遇を打ち出す政党が続出する。安倍自民党に至っては、中身の政策は育児世代や若者冷遇なのに、拝外思想を全面に出すことによりネット上の若者を中心とした右派論調を味方に付ける始末だ。
現在の若者や育児世代が、現在の高齢者と同じ待遇を受けられるような施策を打ち出す政党に期待したいが、これまた高齢化したマスコミに袋だたきにあってしまう。右も左も、国策も防衛も関係なく、とにかく現在の40代以下の社会保障を第一とする議員、政党に期待したい。自分たちの世代の20数年後の「敬老」を期して。

「変わる知の拠点」

本日の東京新聞夕刊に、「変わる知の拠点」と題した連載記事が掲載されていた。本日は自治体直営の公共図書館で非正規職員が増えているという内容であった。
現在、日本の公共図書館で働く人のうち、パートやアルバイトといった非常勤・臨時職員が年々増えている。指定管理へ移行した図書館の委託・派遣職員を含めると、2012年現在、3214館の図書館で働く約2万7千人の職員のうち、非常勤職員は1万5789人、67%に上るという。
記事では非常勤の司書職がいないと仕事が回らない実態が明らかにされている。正規に司書がいない図書館で勤務する非常勤司書の「非常勤が図書館を背負っている自負がある」という一言が印象に残った。ネットを活用してレファレンスを個人で行うことが簡単になった時代に、正規の司書が必要がどうかは意見の分かれるところであろう。
昔は本の配置や管理、適切な保存法などはある程度職人業のようなところがあり、司書でなければ図書館は務まらなかった。しかし、現在はネットで本の購入、配置も可能であり、バーコードやPOSシステムを用いれば、管理や人気作品の把握も容易になっている。商売人の経験や勘が頼りであった商店の切り盛りが、誰でもが経営できるコンビニになったように、情報端末を駆使すれば図書館の運営は「素人」でも十分に可能である。
ネットで全国どこでも本が買えるようになった現在、公設の図書館が逆に地元の小さい本屋や出版社を圧迫しているのではないだろうか。私はむしろ市町村の図書館は子どもが活字に親しむ機会を増やすことだけに注力して、高校生以上の大人が本屋を活用する機会を奪うものになってほしくないと思う。
非正規労働者の増加は憂える事態であるが、それと図書館のあり方の問題は切り離して考えた方が良い。