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戦争は大きらい

本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」の文章を引用してみたい。ちょうど小林よしのり『「個と公」論』という本を読んでおり、ふと目が止まった。「公(奉仕)」を賛美し「私(わがまま)」を押さえつけてきた過去の「戦争」によって日本人の美徳が醸成されたと述べた小林氏の『戦争論』への批判に対して、小林氏が誌上で反論を加えるという内容である。読めば読むほど小林氏の弄言に頭を傾げてしまうのだが、コラムの後半はそうした小林氏に対する批判ともなっている。

本年の正月の本欄に「今年はデモクラシー再考の年である」という文章が載った。その通りの展開だったというほかない。概算で全有権者の四分の一の票を得たにすぎない自公が秘密保護法案を強行採決で通したからだ。両院とも「違憲(状態)」と裁かれている国会がこんな暴挙に出られること自体、日本のデモクラシーが名ばかりの制度になっていることの証明だ。政府(お上)のいうことを国民(平民)は黙って聞けといのが本音なのだ。
そして今度は、これまでに三度も廃案になった共謀罪法案が浮上した。その先に狙われているのは改憲であり、「戦争放棄」の放棄だろう。国際情勢を読む目も、粘り強く交渉する政治力もない自民党幹部たちは、愛国心による戦争をカッコいいと美化する小児病に罹っているようだ。
そんな世相の中で多くの人に読んでもらいたい本が出た。やなせたかしの『ぼくは戦争は大きらい』(小学館)である。やなせは中国で戦争を経験したが、その実態はじつにカッコ悪い。そこから付和雷同の戦争賛成でもなく、観念的な反戦でもなく、受動的な厭戦でもない、「戦争は大きらい」という強い意志が生まれてくる。戦争を生きた人のリアリズムである。

『時をかける少女』

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地上波で放映された、大林宣彦監督、原田知世主演『時をかける少女』(1983 東映)を観た。
今少し手直しして上映しても違和感を感じないような作品であった。細田守監督のアニメ版の映画の方を先に観てしまっていたのだが、これはこれで楽しむことができた。現在では粗さの目立つ合成映像や白黒効果が、尾道のいかにも昭和ノスタルジーに溢れた風景とマッチしており、大林監督の編集の妙が全編にわたって光っていた。

ちょうど私が小学校4、5年生くらいの映画である。公開当時はダビングやライン入力による録音ができるラジカセが流行っており、ラジカセを抱えた原田知世さんの広告は子ども心にも魅力的であった。

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現代民主主義版「刀狩り」

本日の東京新聞朝刊は一面から社説、政治面、社会面に至るまですべて秘密保護法案に対する懸念の記事であった。
一面コラムの「筆洗」の内容も然ることながら展開も秀逸であったので、じっくりと一言一句噛み締めながら引用してみたい。

「分」という字の中には、「刀」がある。八の字を左右に切り分けるから、分ける。そして「分ける」という言葉から「分かる」も派生したという。
確かに、分けることは、分かることの始まりだ。植物と動物、蝶と鳥、星と月…。そのものの形と質の違いを見極めて、分類を重ねることで、人間は自然への理解を深めてきた。
逆に言えば、きちんと分けられないということは、分かっていないということだ。デモをテロと同一視した自民党の幹事長は、恐らく分かっていないのだろう。民主主義における自由の本質と、それを脅かす恐怖との違いが。
いや、一政治家の問題ではない。特定秘密保護法案は、テロを〈政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要…〉する行為だとする。漠としたこの定義で、何がテロかを区別できるのか。これならば、デモをテロと呼ぶことすらできるのではないだろうか。
そもそも、どの情報が守るべき秘密かを分ける物差しの形すら曖昧模糊として、国民には分からない。国を動かす情報を切り分ける力を持つのは、閣僚と官僚だけ。民主主義とは、刀の代わりに言論を戦わせる制度だが、正確な情報がなくては、分別の刀もふるいようがない。
要するに、秘密保護法とは、政府に都合の悪い言論を封じるための、現代民主主義版「刀狩り」のようなものではないのか。

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「絶叫デモはテロ行為」

本日の東京新聞朝刊一面は、自民党石破幹事長のブログを批判する内容で占められていた。
石橋は11月29日、ブログに「『特定秘密保護法案絶対阻止!』と叫ぶ大音量が鳴り響いています」と書き、その上で「いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう」と指摘した。さらに、「主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべき。単なる絶叫は戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」としていた。

特定秘密保護法案に反対する東京国立市の市民グループ「秘密保護法案を考えるくにたち市民の会」のメンバーの一人は「9・11の米中枢同時テロ以降、テロというレッテルを貼れば自分が正しい、ということになってしまう。デモをやっている人たちのこともテロという名で束ねるなんて、むちゃくちゃ」と不安を募らせる。

また、市民団体「原発いらない福島の女たち」のメンバーの一人は「自民党のこうした暴挙に対する抗議の声に、さらに暴言を重ねるなんて、国民をばかにしているとしか思えない」と強く反発した。

さらに、東京新聞一面下のコラム「筆洗」では次のように批判の声を掲載している。

「殺人や破壊行為によるテロと「表現の自由」による市民の主張であるデモを同じに扱うのならば、この国に少なく見積もって数十万人単位のテロリストと「本質的に変わらぬ」人がいるということか。石破さんはそんな国の与党の首脳ということになる。
「糞も味噌も一緒」とはこのことで、国会周辺のシュプレヒコールに石破さんも冷静さを失ったのか、国民の声を敵視してしまっている。
ブログを続けてみよう。「己の主張を絶叫し、多くの人々の静寂を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう」。そっくり自民党に言い返せる。その通り、共感は呼ばない

「そっくり自民党に言い返せる」という下りが傑作である。自民党の騒音選挙活動、米軍基地の騒音、騒音だらけの無駄な公共工事などなど、自民党自身の「テロ行為」を棚に上げてよく言い退けたものだ。石破氏は幹事長という立場なのだから、まずは自民党内部から「民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げ」て政策を練り上げてもらいたい。

参院選無効と文民統制逸脱

本日の東京新聞夕刊の一面トップは、今夏の7月の参院選の岡山選挙区一票の格差を巡って、参院選初の無効判決が出された記事が

共同通信編集委員の石井暁氏の解説がよくまとまっていた。引用してみたい。
陸上自衛隊の秘密情報部隊「別班」が独断で行ってきた海外活動は、政府や国会が武力組織を統制して暴走を防ぐ文民統制(シビリアンコントロール)を無視するもので、民主主義国家の根幹を脅かす。
これまで元別班員らが出版などを通じ、冷戦時代の活動の一端を語ったことがあるが、防衛省と陸自は別班の存在すら認めてこなかった。
今回、陸自トップの陸上幕僚長経験者と、防衛省で軍事情報の収集や分析を統括する情報本部長経験者らが別班の存在を認め、海外展開を初めて明らかにした。
万が一発覚した場合に備え、陸幕長にも海外の展開先や具体的な活動内容をあえて知らせず、自衛官の身分を離れて民間人などを装った佐官級幹部が現地で指揮する。
首相や防衛相が関知しないまま活動する不健全さは、インテリジェンス(情報活動)の隠密性とは全く異質で「国家のためには国民も欺く」という考えがあるとすれば、本末転倒も甚だしい。
関東軍の例を挙げるまでもなく、政治のコントロールを受けず、組織の指揮命令系統から外れた部隊の独走は国の外交や安全保障を損なう恐れがあり、極めて危うい。
日米同盟を強化し、機微な情報を共有するには秘密保全が必要だ、とする政府は、国家安全保障会議(日本版NSC)発足と特定秘密保護法案の成立を急いでおり、その先に米中央情報局(CIA)のような対外情報機関の新設も見据えている。
だが、特定秘密保護法案は恣意的な運用の歯止めがなく、別班のような「不都合な存在」は歴史的経緯も含め、永久に闇に葬られる懸念がある。
別班に目をつぶったまま、秘密保全や対外情報活動の強化を進めるのは公明正大さを欠く。政府と国会は別班の実態を徹底的に調べて国民に明らかにし、民主国家の基本原理である文民統制の機能回復を図る責任がある。