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「絶叫デモはテロ行為」

本日の東京新聞朝刊一面は、自民党石破幹事長のブログを批判する内容で占められていた。
石橋は11月29日、ブログに「『特定秘密保護法案絶対阻止!』と叫ぶ大音量が鳴り響いています」と書き、その上で「いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう」と指摘した。さらに、「主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべき。単なる絶叫は戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」としていた。

特定秘密保護法案に反対する東京国立市の市民グループ「秘密保護法案を考えるくにたち市民の会」のメンバーの一人は「9・11の米中枢同時テロ以降、テロというレッテルを貼れば自分が正しい、ということになってしまう。デモをやっている人たちのこともテロという名で束ねるなんて、むちゃくちゃ」と不安を募らせる。

また、市民団体「原発いらない福島の女たち」のメンバーの一人は「自民党のこうした暴挙に対する抗議の声に、さらに暴言を重ねるなんて、国民をばかにしているとしか思えない」と強く反発した。

さらに、東京新聞一面下のコラム「筆洗」では次のように批判の声を掲載している。

「殺人や破壊行為によるテロと「表現の自由」による市民の主張であるデモを同じに扱うのならば、この国に少なく見積もって数十万人単位のテロリストと「本質的に変わらぬ」人がいるということか。石破さんはそんな国の与党の首脳ということになる。
「糞も味噌も一緒」とはこのことで、国会周辺のシュプレヒコールに石破さんも冷静さを失ったのか、国民の声を敵視してしまっている。
ブログを続けてみよう。「己の主張を絶叫し、多くの人々の静寂を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう」。そっくり自民党に言い返せる。その通り、共感は呼ばない

「そっくり自民党に言い返せる」という下りが傑作である。自民党の騒音選挙活動、米軍基地の騒音、騒音だらけの無駄な公共工事などなど、自民党自身の「テロ行為」を棚に上げてよく言い退けたものだ。石破氏は幹事長という立場なのだから、まずは自民党内部から「民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げ」て政策を練り上げてもらいたい。

参院選無効と文民統制逸脱

本日の東京新聞夕刊の一面トップは、今夏の7月の参院選の岡山選挙区一票の格差を巡って、参院選初の無効判決が出された記事が

共同通信編集委員の石井暁氏の解説がよくまとまっていた。引用してみたい。
陸上自衛隊の秘密情報部隊「別班」が独断で行ってきた海外活動は、政府や国会が武力組織を統制して暴走を防ぐ文民統制(シビリアンコントロール)を無視するもので、民主主義国家の根幹を脅かす。
これまで元別班員らが出版などを通じ、冷戦時代の活動の一端を語ったことがあるが、防衛省と陸自は別班の存在すら認めてこなかった。
今回、陸自トップの陸上幕僚長経験者と、防衛省で軍事情報の収集や分析を統括する情報本部長経験者らが別班の存在を認め、海外展開を初めて明らかにした。
万が一発覚した場合に備え、陸幕長にも海外の展開先や具体的な活動内容をあえて知らせず、自衛官の身分を離れて民間人などを装った佐官級幹部が現地で指揮する。
首相や防衛相が関知しないまま活動する不健全さは、インテリジェンス(情報活動)の隠密性とは全く異質で「国家のためには国民も欺く」という考えがあるとすれば、本末転倒も甚だしい。
関東軍の例を挙げるまでもなく、政治のコントロールを受けず、組織の指揮命令系統から外れた部隊の独走は国の外交や安全保障を損なう恐れがあり、極めて危うい。
日米同盟を強化し、機微な情報を共有するには秘密保全が必要だ、とする政府は、国家安全保障会議(日本版NSC)発足と特定秘密保護法案の成立を急いでおり、その先に米中央情報局(CIA)のような対外情報機関の新設も見据えている。
だが、特定秘密保護法案は恣意的な運用の歯止めがなく、別班のような「不都合な存在」は歴史的経緯も含め、永久に闇に葬られる懸念がある。
別班に目をつぶったまま、秘密保全や対外情報活動の強化を進めるのは公明正大さを欠く。政府と国会は別班の実態を徹底的に調べて国民に明らかにし、民主国家の基本原理である文民統制の機能回復を図る責任がある。

「道徳の『正解』とは」

本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」は秀逸だった。昨日の「ブロレタリア文学と現代」と同じ人の筆であろうか。文体が良く似ている。

石原千秋が『国語教科書の発想』などで繰り返し批判してきたのは、教科書が作品の多様な読みを展開するためでなく、道徳的な面から見たただ一つの正解に向けて用いられているという教育の現状だった。「こころ」も「舞姫」も、みな「国語」よりも「道徳」を教えるための材料として使われている、というのだ。
批判は、そのことが教師の側でも自覚なく行われていることにも向けられているのだが、たしかにそうだとしても、優れた文学作品に道徳を考えさせる力が内在していることもまたたしかなことだ。そうした作品を扱うときに道徳の問題に触れない方が難しい。だから、問題は「ただ一つの正解」というところにある。
その点、「道徳」が教科化されて、「一つの正解」を教え込まれることの方がよほど恐ろしいのではないだろうか。優れた文学作品には必ず多様な立場、異なる考えを持つ人々が登場する。彼らの繊細な内面を丁寧に推察する、という訓練抜きに、ただ「あるべき道徳」を教え込み、そこで成績をつけるとしたら…。道徳教科化の推進派は、そういう教育によって取り返しのつかない失敗を引き起こした歴史を忘れてしまったのだろうか。「道徳」よりも「歴史」を学び直すのが先だ。(自国民)

「プロレタリア文学と現代」

本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」に、「プロレタリア文学と現代」という題の文章が載っていた。
ちょっと古いなあと思ったが、プロレタリア文学を卒業論文に取り上げた私は「プロレタリア」や「セメント」「プロパガンダ」といったカタカナ用語に目が行ってしまう。筆者が指摘しているように、「共産党文学」という「大看板」を背負った作品よりも、「庶民の生活実感」を描く「何気ない」プロレタリア文学の評価が求められているのであろう。

「飢えた子どもたちを前にして文学は何ができるのか」。サルトルの有名な言葉だ。カミュとマルクス主義をめぐっての論争も、いまや昔日の感がある。芸術は革命のためのプロパガンダという社会主義リアリズムの主張は、どう見ても過去の遺産だろう。
ふりかえると、日本では1920年代から30年代に前半にかけて、労働者の過酷な現状を活写するプロレタリア文学が登場した。小林多喜二「蟹工船」、徳永直「太陽のない街」、葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」などが代表格。東西冷戦終結後の90年代を境にプロ文は消滅したといわれたが、5年前には「蟹工船」ブームも起きている。
最近、森話社から全7冊の予定で「アンソロジー・プロレタリア文学」の刊行が始まった。『①貧困−飢える人びと』には多喜二や宮本百合子などの13人の作品が並び、有名ではない作品も多く興味深い。いまなぜ「プロレタリア文学」なのか。社会主義の宣伝手段や善悪二元論ではなく、働く者の汗や涙の真実に迫り、人の心の奥底や内面を見つめる文学の誕生を望みたい。格差社会、ブラック企業、非正規雇用、原発事故処理現場の実情など、新しいプロレタリア文学がたくさん出てしかるべき時代だと思う。(反抗的人間)

「五日市憲法」

本日の東京新聞朝刊に、皇后さんが宮内記者会の質問に「五日市憲法」に強い感銘を受けたとの回答を寄せたとの記事が掲載されていた。
皇后さんは昨年1月に東京都あきる野市の五日市郷土館を訪れ、展示されている草案を視察しており、基本的人権尊重や教育の自由などに触れた「五日市憲法草案」について、「政界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と回答している。
確か、色川大吉氏の本では、この五日市憲法草案は現日本国憲法にも反映されており、米国の一方的な押しつけであると喧伝する自民党の見解は間違っており、日本の民衆から生まれた憲法であると述べられていた。皇后さんがこのように発言するということは、改憲論議そのものの前提となっている「押しつけ」が間違いであり、憲法尊重を重んじるべきだという意向なのであろう。
改憲論議が喧しいなかで、ちょっとした清涼剤の役割は果たすであろう。

  • 五日市憲法草案
    東京・奥多摩地方の五日市町(現あきる野市)で1881(明治14)年に起草された民間憲法草案。204条から成り、基本的人権が詳細に記されているのが特徴。自由権、平等権、教育権などのほか、地方自治や政治犯の死刑廃止を規定。君主制を採用する一方で「民撰議員ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝(天皇)ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス」と国会の天皇に対する優越を定めている。1968年、色川大吉東京経済大学教授(当時)のグループが旧家の土蔵から発見した。