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本日の東京新聞朝刊から

本日の東京新聞朝刊の社説を引用してみたい。
東京新聞社として、辺野古に新たな基地を作ることなく、「日米同盟の抑止力」として嘉手納基地の有効性を認めつつ、普天間代替基地をグアムもしくは豪州ダーウィンに設けるという現実的な(妥協的?)な解決策を提示している。ぱっと評価してよいものかどうか判断はつかないが、根拠や道筋が明確で、極めて実現性が高い案として考察に十分に値すると考える。

週のはじめに考える 普天間代替基地は国外へ

 安倍政権は裁判所の和解案を受け入れ、沖縄県名護市辺野古での米軍基地新設工事を一時中断しました。「辺野古が唯一の選択肢」なのか考えてみます。
 新設工事は宜野湾市の市街地にある海兵隊の普天間飛行場を辺野古に移設するものです。和解案を受け入れた菅義偉官房長官は会見で「日米同盟の抑止力の維持と普天間の危険性除去を考えた時に、辺野古への移設が唯一の解決策である」と述べました。
 「危険性除去」を目指すなら、移設先は辺野古でなくてもよいはずです。「日米同盟の抑止力」は辺野古移設でなければ維持できないのでしょうか。

◆海兵隊の抑止力に疑問
 抑止力とは攻撃すれば耐え難い反撃を受けるとして、攻撃を思いとどまらせる機能のこと。そもそも沖縄の海兵隊は抑止力となっているのか疑問です。
 沖縄の海兵隊は一九五〇年代、岐阜県と山梨県の基地から移転してきました。当時の沖縄は米軍の施政権下にありました。米政府の狙いは日本各地に広がった基地反対闘争の沈静化にあり、抑止力の議論とは無縁でした。
 海兵隊は、地上部隊、航空部隊を海軍の揚陸艦と組み合わせて敵前上陸できる機動性、即応性に特徴があります。ところが、沖縄海兵隊の「移動の足」となる揚陸艦は長崎県の佐世保基地に配備され、大型輸送機は米本土に置かれていて、最初から機動性、即応性に欠けるのです。
 東西冷戦期こそ兵員は二万人を超えていましたが、二〇〇六年、日米合意した米軍再編によって海兵隊八千人がグアム島へ移転することが決まりました。沖縄県の資料によると、この年の海兵隊は一万三千四百八十人。定員一万八千人なので移転後に残る兵員は定員ベースなら一万人ですが、実員ならば五千人強となり、心もとない兵力となります。それでも移転は司令部などにとどまり、実戦部隊はそっくり残るはずでした。

◆海外移転する実戦部隊
 すると仰天の出来事がありました。日米は一二年、米軍再編を見直し、司令部を残すことにする一方で、実戦部隊の第四海兵連隊をグアムへ移転させ、第一二海兵連隊を国外へ移転させることにしたのです。合意の中身ががらりと変わり、実戦部隊の国外移転が決まったのです。
 これで沖縄に残る実戦部隊は兵員二千二百人の第三一海兵遠征隊(31MEU)だけ。31MEUはローテーションでアジア太平洋での訓練、洋上待機、休養を繰り返し、沖縄には年に数カ月しかいない部隊です。抑止力の維持はどうなったのでしょうか。
 結局、日本政府は米政府の打ち出す計画に追従しているだけではないのか。その証拠に「海兵隊は抑止力」と強調しながら、それが薄氷となっても気にするふうはなく、その一方で日米で合意した辺野古新基地計画にはしがみつく。軍事合理性からみて、支離滅裂というほかありません。
 米政府が辺野古新基地にこだわるのは、普天間飛行場になかった弾薬搭載エリアや揚陸艦が横付けできる岸壁を持ち、滑走路が一本から二本に増えるという格段に強化された基地だからです。米政府にも辺野古移転を断念してもらうにはどうすればよいのか。
 防衛省出身で安全保障担当の内閣官房副長官補だった柳沢協二氏は「31MEUの役割は、武力紛争における関連任務よりも、東アジアにおける人道支援・災害救援にある。アクセス拠点は沖縄でなくてもいい」と主張します。
 柳沢氏は31MEUをグアムもしくは海兵隊の新基地があるオーストラリアのダーウィンに移転させる構想を描きます。普天間代替基地は「日本のどこにも造らず、米軍の裁量に任せる。あえて挙げるなら空軍基地のあるグアム」といい、辺野古新基地建設に見込まれる日本の防衛費三千五百億円を、海外新基地の整備費用や海外移転に伴って必要となる高速輸送船などの購入費用に充てるべきだとの案を示します。
 抑止力は戦力を東アジアに投入する能力がある海軍、空軍で十分というのです。

◆移転費用は日本持ちで
 和解受け入れから三日後、政府は沖縄県に埋め立て承認取り消し処分の是正を指示しました。沖縄側は反発し、再び訴訟になりそうです。「日米同盟の抑止力」を考えるなら、対立を続けるべきではありません。空軍の拠点である嘉手納基地まで県民の批判の的になれば、抑止力が危うくなります。
 和解により、解決策を探る時間が生まれました。海兵隊のうち、すべての実戦部隊を普天間代替基地と一緒に国外へ移転させる、その代わり関連費用は日本側が負担する。米政府とぜひ議論してほしい実現可能な案と考えます。

「入試から小説が消える」

本日の東京新聞夕刊コラム「大波小波」より引用

 いとうせいこうの自作の教科書掲載拒否問題が先日来本欄で取り上げられているが、もちろん作者に自作の表現に関する全権があるにせよ、教科書と文学の問題にはもう少し配慮が払われてよい。
 「保守派」氏は教科書は「評価の定まらぬ当世風の文学よりも、日本語の規範とすべき文学を優先して掲載すべき」だと言うが、文豪の文章は生前から教科書に採られていた。それによって教科書が「評価」や「日本語の規範」を定めてきた。生きている間に載らなかった作家が、死後突然評価され、教科書に掲載されることの方が珍し。だからこそ、教科書によい作品を載せたいと編集者は苦心する。現在進行中の教育改革によって高校国語教科書は大きく変わろうとしているのをご存知だろうか。高校二・三年の「現代文」を「実用国語」と「文学国語」に分け、選択制にするというのだ。そしてセンター試験の後継テストから小説は姿を消す。
 これによって入試から解放される文学が、教室で「正解」に囚われず、より自由に羽ばたく可能性が出てきたとは言えるが、入試から外された選択科目として「文学国語」は生き残れるだろうか。やがて教科書での出会いのなくなった文学そのものは…。(懐疑派)

「現代文のない現代文教科書」

本日の東京新聞夕刊文化欄の「大波小波」コラムが面白かった。読み終えた後、思わず「その通り!」と心の中で叫び声を上げてしまった。
文章も大変簡潔でも分かりやすかったので、練習も兼ねて全文を書き(打ち)写してみたい。

 いとうせいこうが自作の教科書掲載を拒否したことがネットで話題になっている。教科書会社側から「商品名を伏せ、『馬鹿』という表現を変えて欲しい」という依頼があったことに対し、いとうはツイッターで「”天下の教科書ですよ!”というわけだ。小説を変えていいと思う人が国語の教科書を作っている」と書いた。
 元教科書編集者を名乗る人が反論し、商品名や罵倒語があると文科省の検定を通らないがゆえで「教科書編集者=天下の教科書だと思っている人、ではありません」と言うのに対し、いとうの答えは「だから、載せなくていい」とだけで、あまりにそっけない。
 商品名や「馬鹿」の一言が作品全体にどれほどの影響を与えるのかは場合によるので一概には判断できないが、現行教科書に載っている作品はほとんど検定を通すため何らかの改変を被っている。大家の作品はそうやって多少の改変を経て読み継がれてきたのだ。
 忙しい教員たちが古い定番作品を好む中で、新しい作品を読ませようと編集者たちは努力している。にもかかわらず天下の作者様が無理解を通すなら、そのうち改変に文句の出ない著作権切れの作者ばかりになるだろう。それを現代文の教科書と呼べるのだろうか。(TPP)

いとうせいこう氏に対して、彼自身の言辞を利用して「天下の作者様」と断じてしまう歯切れの良さが印象に残った。確かに、現場の高校の国語の教員は、TPPの指摘する通り、年齢を重ねれば重ねるほど、指導しやすい古典を好むようになる。しかし、教科書に載っていれば指導上扱わざるを得ず、教員の側も教材研究を迫られるようになる。異論反論はあろうが、刺激的な小説や過激な評論ほど教科書に掲載されてほしいと切に思う。

「地政学ブーム」

本日の東京新聞朝刊の佐藤優氏の「地政学ブーム」という題のコラムが興味深かった。
記事によると、最近地政学がブームになっており、単行本や新書の新刊が続いているそうだ。地政学のポイントは、長い時間を経過しても、変わらないもしくは変わりにくい要素を踏まえて国際関係の構造を大づかみにするところにある。具体的に言うと、地理は時代を経てもあまり変わらない。軍事に飛行機や人工衛星が使われるようになっても、アフガニスタン、イラク、チェチェンなどの山岳地帯を攻略することは難しい。こういう情勢を分析するときには地政学がとても役に立つ。
佐藤氏によると、現在、ロシアの大学で、将来、エリートになる学生は地政学を必ず学んでいるという。また返す刀で、居酒屋論議のような地政学書が書店に蔓延している日本の現状を憂えている。

われらがわれに還りゆくとき

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元プロ野球選手の清原容疑者の逮捕のニュースで、テレビも新聞もネットも大騒ぎの一日であった。
そんな中、本日の東京新聞夕刊の文化欄の連載特集「一首ものがたり」で、道浦母都子さんが取り上げられていた。
1968年10月21日のベトナム戦争反対を訴える国際反戦デー、世に言う新宿騒乱事件で逮捕された道浦さんが読んだ歌

調べより 疲れ重たく 戻る真夜 怒りのごとく 生理はじまる

に込められた作者の思いと時代的背景が分かりやすく解説されている。
最後に道浦さんは次のように語る。

結局、人間はひとりなんです。だけど、あるとき「われら」の幻想を抱いた。つかの間の幻想でした。全共闘って何か、わからない。一生わからないと思います。