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「国民の前で公開議論を」

本日の東京新聞朝刊に、経団連の中西宏明会長のエネルギー・原発政策についての発言が掲載されていた。記事の中で、中西氏は日立製作所の会長を務めており、日立の英国への原発輸出計画を通じて、コスト面からの原発への逆風を身をもって感じており、このままでは原発輸出を成長戦略ととらえる安倍政権の政策に沿って海外の原発会社を買収した結果、大損失を被った東芝の「二の舞」になりかねないとの危機感もあるとみられると述べられている。また、日本の原発輸出はトルコやベトナムでも相次いで行き詰っており、コストが急低下している再生可能エネルギーに目を向けるべきだと示唆している。
以下、中西氏の発言である。

(原発の再稼働について)東日本大震災からこの3月11日で8年がたとうとしているが、東日本の原発は再稼働していない。全員が反対するものをエネルギー業者や日立といったベンダーが無理やりつくるということは、民主国家ではない。国民が反対するものをつくるにはどうしたらいいのか。真剣に一般公開の討論をするべきだと思う。
お客さまが利益を上げられていない商売で利益を上げるのは難しい。一方で、稼働しない原発に巨額の安全対策費がつぎ込まれているが、8年も製品をつくっていない工場に存続のための追加対策を取るという経営者として考えられないことを電力会社はやっている。

(日本のエネルギー政策について)日本のエネルギーの80%は依然として(原油・石炭・天然ガスといった)化石燃料に依存しており危機的状況にある。コストは高く世界から非難を浴びている。期待された再生可能エネルギーだが日本には適地が少なく極めて不安定な状況だ。太陽光も風力も季節性がある。次世代送電網のスマートグリッドも新しい投資が行われていない。打破しなければならない問題はたくさんある。だからこそ電力会社を巻き込んださらなる電力改革が必要だ。
政府のエネルギー情勢懇談会では電力会社を巻き込んで今後のエネルギー政策を検討し、討議をしてきた。原発についても議論を重ねてきたが、国民の前で、公開の本格的な議論をする必要がある。

 

「中国が無断海洋調査」

本日の東京新聞朝刊に、昨年12月、中国公船が日本の排他的経済水域(EEZ)である東京・沖ノ鳥島沖で日本の許可なく海洋調査をしていたとの記事が掲載されていた。
中国外務省は「沖ノ鳥島は国連海洋法条約上、島の基本的要件を全く満たしていない、岩に過ぎない」とし、日本のEEZを認めていない。日本の外務省は「無断で調査することは認められない」と抗議している。

ウィキペディアによると、記事中の「海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)」では、「島」と「岩」について以下のように定義されている。

第121条 第1項:島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう。
第121条 第3項:人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。

日本は沖ノ鳥島が海水面に沈んでしまうことを危惧し、海水面から少しだけ顔を出した「島(岩)」の周囲を鉄製消波ブロックとコンクリート製護岸、チタン製防護ネットで完全に保護する手立てを加えている。但し、上記の国連海洋法条約には次のようの条文もある。

第60条 第8項:人工島、施設及び構築物は、島の地位を有しない。これらのものは、それ自体の領海を有せず、また、その存在は、領海、排他的経済水域又は大陸棚の境界画定に影響を及ぼすものではない。

沖ノ鳥島自体はホットスポット型火山島なので、人口にできたものではない。但し、沖ノ鳥島の周囲に巡らせた人口物は島とは到底認められない。

ぶっちゃけ沖ノ鳥島が真っ当な「島」かと言われると、日本人でも首を傾げる向きが多いだろう。但し、尖閣諸島や南沙諸島と同じように、中国が軍事的圧力を背景に実効支配を進めるというのは間違いである。あくまで国際的枠組みの会議の中で議論を尽くすべきである。国際捕鯨委員会(IWC)の脱退のように、議論を打ち切るのではなく、会議の中で主張すべきは主張し妥協点を模索すべきである。

また、日本政府は中国に抗議するのと同じレベルで、日本の土地を蹂躙している米軍に抗議すべきである。沖縄を中心に日本の自然が破壊され、日本人の生命が脅かされている。北方領土も同じだが、米軍に対しては寛容・弱腰な態度をとる限り、中国・ロシアを納得させる外交は難しいであろう。

「吾郎、広げる地図」

本日の東京新聞朝刊に、元SMAPの稲垣吾郎氏の特集記事が掲載されていた。
僭越ながら「同級生」の稲垣氏が何を語るのかと興味を持って読んだ。芸能界というフィールドこそ同じものの、40代半ばになって所属事務所を辞め、新しい環境でリスタートを切る彼は次のように語る。

(ファンサイト「新しい地図」に託して)人生って、描いて旅して終わりじゃない。地図をずっと広げていくことだと思う。知っている場所もアップデート(更新)されていく。終着点は、考えたことがない。

芸能界について詳しいわけではないが、40代半ばはまだ若い。彼のこれからの新しい環境での活躍を期待したい。

「普通の人々が主人公の社会とは」

本日の東京新聞朝刊に、哲学者内山節氏のコラム「時代を読む」が掲載されていた。
月1回ながら、現実社会の動きから少し俯瞰して問題点を提起している。相も変わらず分かりやすい文章なので、練習に書き写してみたい。

内山氏の指摘するように、感情的な物言いをする人を称賛するような雰囲気が、ここ数年特に強くなってきたように感じる。政治家や経営者だけでなく、芸能人やスポーツ選手も露骨に感情的なパフォーマンスを「演出」するようになった。つい先日も、トランプ大統領を真似したのか、日本のクジラ肉食文化が理解されないと、国際捕鯨委員会(IWC)を脱退する旨の発表があった。捕鯨の是非はさておき、国際的な議論の場を抜け出すというパフォーマンスは頂けない。議論は尽くすものであり、逃げるものではない。感情を露わにすることが、素直で正直な人柄だと受け取ってしまうネット社会のムードに少し注意が必要だ。

 インターネットが普及しはじめたとき、それは世界を変える夢の道具のように言われたものだった。世界中のどこからでも、誰もが発信できる。情報発信では大都市と田舎の格差はなくなり、国境を越えた世界市民の時空が広がっていく。こんな解説をしばしば耳にしたものだった。人々の間を正しい情報が行き交い、理性的な議論の場がつくられていくことが、インターネットに期待されていた。

だが、期待通りにはいかなかった。むしろ、自分の感情にもとづいて発信し、自分の感情に合うものを検索する、感情のための手段としての利用が広がっていった。

それは世界に、無視できない変化を与えたのかもしれない。なぜなら、自分の感情だけを判断基準にして行動する人々を、大量に生みだすことになったからである。少し前までは、感情よりも理性が重視される時代だった。感情だけでものを言うのは、恥ずかしいことだとされていた。ところが感情よりも理性が上に立つと、理性的な意見を述べるための作法に習熟していない人たちは、社会から疎外されていく。「知的」な議論をするための素養が必要になり、それが「エリート」の支配を生みだしてしまうのである。理性重視の時代は、自分は社会の主人公にはなれないと感じる、大量の人々を生みだしてしまっていた。

近代的な世界では、たえずこのことへの不満をもつ人々がいた。政治も思想、理念、メディアを動かしているのも「知的エリート」たち。そういう構造への不満が、社会の奥には鬱積していたのである。

インターネットは、このような構造からの「解放」をもたらした。「知的エリート」に支配されることなく、自分の感情をそのまま発信できるようになったのである。感情を判断基準にして行動する人々がふえ、それが深刻な感情の対立を広げていく、そんな世界がここから生まれた。

アメリカのトランプ大統領を支えているのも、けっして少数派とは言えないアメリカの人たちの感情だ。日本でも中国になめられるなという感情、北朝鮮や韓国に対する感情などが安倍政権を支えている。その中国や韓国もまた、「国民感情」が大きな力をもっている。ヨーロッパで台頭する国家主義勢力の基盤も、いまの状況に不満を持つ人々の感情だ。

社会への不満やいらだちがそのまま発信され、それがおおきな渦となって社会を動かす。政治は、それを助長する扇動政治の性格を強めていく。

今年は、世界はいまこのような方向に向かっているのだということを、より明確にした年だったのかもしれない。感情の対立がそのまま容認される時代が、私たちを包んでいる。

とすると現在私たちは深刻な課題を背負わされていることになる。むき出しの感情対立が世界を動かすのが、よいはずがない。だが、理性が支配することがよかったのか。近代社会は、理性による秩序づくりをめざした。それが近代の理念だった。だがそれは理性的であるという規範を牛耳る人たちの支配を生み、「エリート」と主人公にはなれない人々の分裂をつくりだした。

おそらくこの対立は、普通の人々が社会の主人公になる仕組みが生まれないかぎり、解決されないだろう。理性による支配ではない協同の仕組みを、私たちは見つけ出さなければならなくなった。

「改正入管法 根拠の正体」

本日の東京新聞朝刊の「こちら特報部」で「改正入管法 根拠の正体」と題したコラムが掲載されていた。

先日、外国人受け入れ拡大のため、採決強行で成立した改正入管難民法で、政府は「人手不足」を根拠として掲げてきた。しかし、7~9月の総務省の労働力調査によると、現在は働いていないが就労を希望する人は323万人。このうち働き盛りの25歳~54歳だけで175万人もいる。政府が「特定技能1号」として当初の5年間で受け入れる外国人の見込み総数の約34万5000人をはるかに上回る。
1990年代初めにバブル経済が崩壊した後、企業は新卒採用を抑制し、いわゆる「就職氷河期」が始まった。この時期に大学や高校を卒業した世代は正規雇用の職に就けず、アルバイトや派遣社員などの非正規雇用になった人も多い。新卒一括採用と終身雇用の慣行が長く続いた日本では中途採用で正社員になるのは難しかった。
一方、企業は長引く不況の中で賃金を抑えるため、非正規雇用を前提に経営を拡大させた。総務省の労働力調査によると、パートや派遣社員など非正規雇用の労働者は、2002年は就業者の29.4%だったが、その後は右肩上がりで増え、2017年には37.3%に上っている。いつ首を切られるか分からない質の悪い雇用の問題点は根深く、2008~09年の年末年始は、リーマン・ショックの余波で職を失った人たちを支援する「年越し派遣村」も運営された。
BNPパリパ証券の河野龍太郎チーフエコノミストは「普通は(業績好転で)人手の確保が必要になれば、企業は賃金を上げ、生産性を高めようと機械化や職場環境の見直しも考える。なのに、今ここで単純労働に割安で雇える外国人を受け入れたら、賃金も生産性も上がらない」と切り捨てる。

記事の中で、「正社員と非正規の格差がある中、もう一段下の低賃金の外国人という三層構造になる。結果的に低賃金が横行する」との指摘があった。こうした分断は経済だけでなく、政治や社会、文化の分断、そして極端な国家主義の萌芽ともなる危険なものである。自分は関係ないと済ますのではなく、自らの拠って立つ社会構造の問題として捉えていきたい。