本日の東京新聞朝刊に、論絶委員の青木睦氏のタジキスタンの政治・外交に関するコラムが掲載されていた。アフガニスタンの北隣に位置するタジキスタンでは、過激派組織「イスラム国」(IS)の活動が活発で、アフガニスタンからタジキスタンを経て中央アジア全域に脅威が及んでいる。そうした「過激主義は貧困や体制側の専横、腐敗という社会的不公正を土壌にしてはびこる」ものである。タジキスタンは人口は900万人足らずで、国土は日本の4割という小国である。インフラ整備が遅れ、世界食糧計画(WFP)によると、一日1.33ドル未満で暮らす人が半数近くに達する。旧ソ連圏の中で最貧国であり、多くのタジク人がロシアに出稼ぎに出かけている。国民総所得でもアジア全体でアフガニスタン、ネパール、カンボジアに次ぐ第4位の少なさである。
20年以上も大統領の座にあるラフモン氏への権力集中が進み、抑圧的な統治が続き、腐敗を始め長期政権の弊害も目立っている。青木氏が「民生の向上はテロ根絶につながる」と述べるように、日本から距離以上に心理的に遠いタジキスタンの政治に着目していきたい。
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「復旧加速 揚水発電に光」
本日の東京新聞朝刊に、9月の北海道の全域停電に際して、揚水式の北海道電力京極発電所が復旧に大きな役割を果たしたとの記事が掲載されていた。揚水式発電所というと原発の補完的な設備であり、夜間にだぶついた電力で揚水し、昼間に放水して発電し最大需要に応えるといったものだと思い込んでいた。森林の破壊もあり、全く考慮する余地のないものだという認識だった。
しかし、記事によると、上下2つのダムで構成し、下のダムからポンプで水をくみ上げれば蓄電池に、上のダムから放水すれば発電所に早変わりする揚水式発電所は、太陽光や風の強さによって出力が不安定となる再生エネの「波」を整え、電力の需要と供給を一致させる強力な武器となるという。
札幌近郊にある京極発電所では、昼間に余った太陽光の電力で水をくみ上げ、上のダムに貯水し、日が暮れて太陽光の発電が落ちる夕方になると、上野ダムから放水して発電し、需要が増える夕方の電力供給の一割を賄った。石炭火力や原発は出力の調整に時間がかかるのに対し、最新の揚水式の京極は、わずか3分でフル稼働することができ、電力需要に細かく対応することが可能である。
大規模な風力や太陽光の発電所は、蓄電池で安定させてから送電網に接続する必要があるが、この揚水式を活用することで、すべての再生可能エネルギーの受け入れが可能になった。
詳細については触れられていなかったが、夜間電力の活用とは真逆のシステムが構築され、更なる運用が検討されているというのは評価したい。
「伝えたい 福田村事件」
本日の東京新聞朝刊に、1923(大正12)年の関東大震災後、千葉県福田村(現野田市)で香川県から来た行商団が地元の自警団に暴行され、9人が殺害されたという「福田村事件」に関する講演会のお知らせが掲載されていた。
講演を行う辻野弥生さんの著書『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』(崙書房出版)によると、1923年9月6日午前10時ごろ、関東一円で薬を売りながら、茨城県に向かおうとしていた香川県の被差別部落の行商団15人が福田村三ツ堀の香取神社で休憩した。震災後の混乱で「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が来襲する」などの流言飛語が流れ込み、福田村と隣の田中村(現千葉県柏市)の自警団が行商団を尋問。四国地方の方言が理解できず、朝鮮人と疑い9人を殺害したとされる。
犠牲者の中には2、4、6歳の幼児3人もいた。妊娠中の23歳の女性も殺害され、胎児を含めると犠牲者は10人ともいわれる。
福田は首都圏にありながら利根川沿いの田舎風景が広がるのどかな地域であり、100年近く前に陰惨な事件が起きたとは想像もつかない。辻野さんの「『あった』ことを『なかった』ことにはできない。知って、語り継がねば」という言葉が印象に残る。
「英の離脱 終わりの始まり」
本日の東京新聞夕刊に仏のEU強硬離脱派の人民共和連合のフランソワ・アスリノ党首のインタビューが掲載されていた。私自身、テレビのニュースを見ている限り、反EUを掲げるのは右派の若者であり、国粋主義に繫がるものだと思い込んでいた。しかし、記事を読むと、アスリノ氏の主張は左派に傾いている。反EUという点だけで一緒くたにはできない文脈を読み取る必要がある。
他はEUの改革を掲げている。国民連合(旧国民戦線)のルペン氏も、今ではEU離脱を公約から外している。EUの存在自体を疑問視しているのはわれわれだけです。EUは機能不全。「出るしかない」というのが私の主張です。
欧州統合のプロジェクトはそもそも実現不可能だった。言語や宗教、経済が異なる28ヵ国を統治するには、各国の利益に合わず、市民が望まない政策を押しつけるという反民主的で独裁的な手法にならざるを得ない。フランスはアフリカ諸国などとグローバルな関係を築いてきたのに、白人のキリスト教国が集まるのは閉鎖的で人種差別的とも言えます。さらに、仏独の和解で欧州の平和が保たれてきたと皆言うが、21世紀の今日、対独戦争はあり得ない。逆に欧州が一つにまとまることで、中東やロシアとの亀裂が生まれている。
われわれは普通の国が持っている主権や通貨、民主主義を取り戻したいだけ。しかしメディアは、反EUと言えば極右か極左というイメージを植え付けようとするのです。
英国の失業率は4%に下がり、逆にポンド安で外国の投資が流入している。他国で離脱の連鎖反応が起きては困るので、EU支持者たちは必死に足を引っ張っているのです。英国はEUへの拠出額の方が分配される額より多く、立場が強いのはEUだけではなく英国。それはフランスも同じです。
EU創設はいったい何をもたらしたのでしょうか。産業や資本の移転が促され、結果的に利益を得たのは億万長者や競争力のある企業。フランスなどでは貧困率が上がった。市民にはEUの恩恵がないのです。いずれEUは破綻する。英国の離脱が、歴史的に終わりの始まりとなるでしょう。
大手メディアはわれわれの主張を取り上げない。UPR(人民共和連合)のウェブサイトは仏の政党で最もアクセス数が多く、ユーチューブは毎回十万回以上は視聴されています。支持者は海外に広がり、国内では外国にルーツのある人が多い。大半は十代から三十代の若者です。職探しに苦しむ若い人たちが、われわれの元に集まっているのです。
「上野村の『コンビニ』」
本日の東京新聞朝刊に、哲学者内山節氏のコラムが掲載されていた。文章を味わいながら引用してみたい。
20世紀を代表する経済学者、ケインズは、資本主義を支持した人であった。指示した理由は、資本主義以上に効率的な経済システムはないというところにあったのだが、なぜ効率的なのかと言えば、すべてをお金に換算していくシステムだからだと彼は考えていた。社会の習慣やしがらみに影響されることなく、お金の取引だけで経済を運営することができる、と。
実際、今日の社会はこのような方向で、効率のよい経済を追求してきた。しかしそれは、企業活動にとっての効率性であって、昔から受け継がれてきた仕事や、暮らしにとっての効率性ではないことも、忘れてはいけないだろう。
私は群馬県の上野村という山村にも家がある。1300人ほどが暮らすこの村には、コンビニがない。ところが村の人たちは、「そんなものはいらない」と言う。なぜなら、隣の家がコンビニだからだ、と。確かにそのとおりで、何か不足しているものがあったら、村では隣の家に行けば解決する。どこの家でも必需品は買い置きがあって、提供してくれるのである。良好な関係があれば、困ったことが発生しても村人が解決してくれる。
村の生活は、一面ではとても便利で、効率がいい。畑に行けば野菜があるというのも効率がいいし、山菜や茸が近くで採れるという効率のよさもある。私にとっては夕方ふらっと釣りに行けることも、家にいるだけで鳥や虫の声を楽しんでいられるのも、都市にはない便利さである。
企業活動にとっては、すべてがお金の動きになる経済は効率がよいかもしれないが、暮らしはもっと複雑なのである。もちろん、すべてをお金で決算できる暮らし方に便利さを感じる人もいるだろう。逆に、お金を使わなくても、いろいろなものが手に入る便利さや効率のよさに、魅力を感じる人もいる。
資本主義というシステムは、企業活動を効率よく展開させる仕組みでしかないのである。だから暮らしにとっては資本主義とは異なる効率性も存在するし、昔からあった仕事にも、資本主義的ではないさまざまな支えを必要とするものがある。たとえば農業もそのひとつで、農業はお金の力だけで実現できるものではない。それは自然と人間の共同作業であり、農村社会や農の営みを直接、間接に支えてくれる多くの人々がいてこそ成り立つ。町の商店や職人の仕事も、お金の力だけではないものに支えられている。
だから、資本主義的なシステムがすべてだというような社会をつくってしまうと、社会は多様性とともにある豊かさを失うのである。やせ細った社会がつくられ、資本主義の原理によって、大事なものが壊されてしまう。
今日とは、人々がそのことに気づきはじめた時代なのだと思う。よい環境に支えられた仕事、地域に支えられた仕事をつくろうとする人たちも、農村などに移住する人も増えてきた。
現在の問題は、そのことに政治家や企業経営者が気づいていないことにある。ここでは依然として、アベノミクスに象徴されているように、効率のよい資本主義をつくり、市場経済を拡大させるという発想しか存在しない。
豊かな社会は資本主義的な経済だけではつくれない。資本主義は万能のシステムではないのだということを感じ取れる感性を、いまの時代は必要としている。
内山氏はケインズを例に出しながら、経済に絞って話を展開しているが、効率性を求める陰で進行する負の側面への気遣いが必要であると示唆している。
本日の東京新聞埼玉版に、小泉元首相が原発ゼロと自然エネルギー活用の実現を訴える講演会の模様が写真入りで掲載されていた。同じ内容の話ではあるものの、手を変え品を変えつつ、繰り返し繰り返し伝え続けるという姿勢は大事にしたい。