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NR出版会

 [http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d05/4_050001.htm]
昨日東京新聞でNR出版会というものがあることを知った。ノンセクトラジカルの略だそうだ。社会評論社や柘植書房など一部界隈ではメジャーな出版社が加盟している。今その30周年ということで記念販促をやっているらしい。しかし社会評論社がノンセクトを標榜していいのか? 季刊クライシスはなかなかいい記事が多かったが。反天連系の集会に出店を出す商魂には納得がいかない。


追加:「NR出版会公式サイト」より転載
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 ▫️ NR出版会公式サイト ▫️
 
NRとは?

 1969年8月、当時、社歴5年以下、社員10名以下の小出版社が集まって「NRの会」は誕生した。1968年からはじまった全世界的な学生反乱と60年文化が開花するなかで誕生したNRは、反骨・反体制・反権力の色彩が強い出版団体であり、NRとは、ノンセクト・ラディカルの頭文字をとったものと伝えられている。
 1970年2月、〈現代思想選書〉セットが組まれ、書店で好評を得た。70年代には、宇井純『公害原論』(亜紀書房)、荒畑寒村『谷中村滅亡史』(新泉社)、永山則夫『無知の涙』(合同出版)など、大きな反響をよぶ本が続々と会員社から刊行された。ウーマン・リヴが結集した『女・エロス』(社会評論社)の定期刊行がはじまったのも70年代である。
 大手出版社に先駆けて、こうした公害問題、エコロジー、フェミニズム、人権問題など、新たな社会思想の分野における問題提起をなす出版物が刊行された。
 80年代に入り、技術と人間(82年)が加入した。月刊誌『技術と人間』は、現代科学技術、とくに核文明への鋭い批判を展開した。1983年9月、三省堂本店と協力して「われら地球派・1983年エコロジスト宣言」フェアを実施し、これを機に主要書店への環境問題コーナー設置を働きかけた。戸村一作『小説・三里塚』(亜紀書房)、安藤登志子『北富士の女たち』(社会評論社)、山口武秀『権力と戦う住民たち』(柘植書房)など、70年~80年代の全国の住民運動の記録も数多く刊行された。
 金蒼生『わたしの猪飼野』(風媒社)、吉岡増雄『在日朝鮮人と社会保障』(社会評論社)、山本リエ『金嬉老とオモニ』(創樹社)など、在日外国人の人権や民族文化をめぐる出版分野も活発になされた。現在、この分野では新幹社が積極的な出版活動を行っている。
 こうした各社の出版活動と並行して、NRは、広告・販売促進・用紙の仕入れなどの共同化をはかり、コスト削減を目的に1976年、NR出版協同組合として法人化した。出版経営のあらゆる業務、印刷、倉庫、金融など、協業化によって加盟社の経営改善に役立てた。しかし、90年代に入り、長期大不況とともに会員社が経営危機に見舞われ、また制作過程の多様化などのため、1996年、協同組合を解消し、販促活動を主軸とする出版団体として再出発した。
 40年の歴史のなかで、加盟社は幾度か入れ替わった。現在の会員社は、亜紀書房、インパクト出版会、現代人文社、新幹社、新泉社、柘植書房新社、同時代社、七つ森書館、日本経済評論社、風媒社の10社である。
 現在、出版業界も大きく変容しているが、人権、教育、環境、司法制度、福祉などをめぐる社会問題をはじめ、アジアを軸とする国際情勢やノンフィクションのほか、文化、歴史、思想をめぐる主張など、NR各社は、多様な分野で出版活動を行っている。
 NR創立以来、「全共闘」「管理社会」「原発事故」「天皇制」「反戦」「マイノリティ」「セクシュアリティ」など、時代の要請するさまざまなテーマで、ブックフェアを実施してきた。1999年には、ブックフェア「これが元祖インディーズだ!」を開催。NR30年の軌跡をあますところなく映し出し、各社の持続する出版の原点を示すものとなった。
 2009年8月、NRは創立40周年を迎えた。NR出版会は、これからも出版を通して社会に向け“問い”を発し続ける。

友人に宛てたメール

早稲田大学はどのような状況でしょうか。
早稲田祭は今年も中止のようですね。早稲田を離れると大学内の状況は全く伝わってきません。
やはり大事なことはメールにもありましたが、来年以降の自分の抱えている疑問と現在の早稲田大学の学生としての主体とをつき合わせながら発言していくことだと思います。
私は結局去年うまくいきませんでしたが、残り半年というのは短いようで結構長いものです。
これからの半年が大切だと思います。
半年の間に自分の気持ちの中で整理しておくべきこと、そしてそれを何らかの形で具現化させておくべきことたくさんあります。
3月31日までは学生です。
周りの仲間と相談してプラスアルファを自分のものにしてください。

私の方は、高校教員になってみて半年が経ちましたが、最近実感するのは、教育についていろいろ考えても、結局教員は生徒の日常のことに振り回されてしまいます。
しかし日常生活の中での生徒との接点でしか教育はなしえないし、そこから逃げては駄目だということです。
教育について概観し、批判することが生徒との交流から逃げることになるのではと、前からすれば思いっきり日和った考えをもつようになりました。
大学時代、奥島の授業に拡声器を片手に突っ込んでいった私ですが、歳のせいでしょうか、考えも変わりました。
放課後に生徒と駐車場でワンバウンドサッカーをやっているときが一番充実していると感じるようになりました。
先日も授業中保健室に行った生徒が手にジャージを丸めて走って帰ってくるので、どうしたと訊いたところ、校舎に迷いこんで出られなくなって弱っていたスズメを持ってきました。
「せんせーい、どうしよう、どうしよう」と困っているので、結局スズメさんには授業終わるまで教卓の上で休んでもらいました。
その後生徒とスズメのことについて真剣に話し合っている自分にふと気づいてしまいました。

1998・8・15反靖国闘争総括

 98年の靖国神社への情宣活動は私にとって3回目の行動であった。
 約4年前の95年の5月に私の通う大学で現在自由党の議員である小池百合子の講演会があった。そこで小池百合子は「戦後生まれに戦争責任なんてない」と壇上で発言を行い、物議を醸す事件があった。
 私自身はそれまで過去の日本が犯した戦争は侵略戦争以外何物でもないと習ってきたが、いざ戦後生まれの自分の立場に照らして考えるという経験は無かった。それまで私自身も「戦争責任」と問われても関係ないと考えていた。しかし過去の戦争の結果生まれた戦後民主主義の下に育ち、戦後憲法の庇護において生活する自分の今の立場を考えたとき、現在という時間の中で、再び戦争を引き起こさないための行動を自分の立場性において行っていかなければならない。繰り返される核実験やイラクへの米軍の軍事行動など、新聞やテレビのニュースとして消費するのではなく、私自身が主権者の一人として責任をもって反対の声を上げていかねばならない。そこで私は95年からまず自分にとっての戦争責任をとらえ直すという作業の中で、靖国神社に向き合うことになった。
 99年の1月に入って自民党と自由党の連立政権が成立し、「周辺事態」の際の米軍への「後方支援」や、ガイドライン関連法案の早期成立が狙われ、いよいよ日本も「戦争ができる国」へと変わろうとしている。「戦争責任なんてない」と発言した小池百合子が今自由党議員として、「国際貢献」の美名の下での「軍事大国化」を推進しているという事実をふり返る必要がある。今こそアジアへの侵略戦争、戦前国家総動員体制を支えてしまったという現実を直視ししていかねばならない。そのために靖国神社のビラ巻き行動は単なる過去50年前の歴史認識の埋め合わせではなく、再び進んでいるファシズムへ体制へのアンチであり、これから来る〈戦前〉情況に抗する反戦運動の基軸として据えられなければならない。
 私たちはこれからどのように過去の侵略戦争を美化する「靖国システム」に向き合っていかねばならないのか。それは私たち戦後生まれの一人の市民、学生、労働者としてそれぞれの立場に根差した反戦運動の行動の過程に求められるものである。
 最後に戦前に治安維持法で捕まり獄中生活を強いられながらも戦争体制国家に厳しい批判の声を上げてきた戸坂潤の言葉でもって、99年以降の反靖国行動へとつなげていきたい。

 で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。
 そこが話の分れ目だ。

駒寮の現状

駒寮の現状

2・23の読売新聞の記事を参照ください。

現在裁判斗争に舞台は移っている。しかし97年度もキャンパスプラザ‐CCCL‐の予算は文部省より付いており、アリバイ的に予算を使うため、駒寮の一部が取り壊される危惧は残る。

〓〓〓駒寮委員会と自治会の結びつき〓〓〓

 三鷹寮が整備されておらず、なし崩し的に駒寮存続もありうるのではないか。しかしハードだけでなくソフト(24時間学生による自主管理という内実)を守っていかねばならない。今後の東大生の能力が試される。

 翻ってこのPbを早稲田に照らしてみたとき、教課分離に基づいた新学館反対というスローガンは必然的にでは現キャンパス内で学生の自主管理能力が問われるところである。新学館では自由に自主的に活動できないという文句は、では地下で自主的に管理し、学生内部での話し合いの中で自由な空間を創っていけるのか。非常に難しい。キビシー。
 今後地下部分では新学館着工開始、完成後まで大きなメルクは学ヒを除けば少なくなるであろう。新学館反対の声をあげていくだけなのか。冬のビラにもあった通り、大学当局の企業への就職予備校と化したカリキュラム再編(パソコンの導入、専門科目の重点化)、学生の厚生補導的な「課外活動」、「教育プログラム」に学生の自主・自治活動の理念を如何に対置していくのか。そもそも学生の自主活動に今更改まって論述すべき理念が果たしてあるのか。(それを言ったらおしまいか?)

駒寮のPbも24時間キャンパスがオープンで学生の自主管理であるが、ではそこに

 私の今考えていることは相手の土俵にのった議論ではなくてもいいということだ。つまりうまく言えないが、相手(権力、大学当局、資本)の攻撃に対して真っ向から批判していく事は大事だが、ベトナム戦争下でアメリカ政府のやり方に対して、反戦ソング、デモ、ヒッピーなどで「抵抗」を生んでいったように、大学当局の資本べったりの「学問、知のあり方」に対して、抵抗の手段として文学、音楽、劇といった文化、カウンターカルチャーを創っていけばいいのか。ここで抵抗の歯止めを創るために、連帯の絆をつくるために「歌」があればいいなと思うときがある。

96-97冬のり実行委員会 渋谷 越冬まつり総括会議にむけて

96-97冬のり実行委員会

<渋谷  越冬まつり総括会議にむけて>

風邪が流行っており、皆さん強行軍の中、越冬斗争お疲れ様でした。 私が関わった範囲の中で、感想を簡単に述べてみたいと思います。

今回私は首都圏部分で東工大から「渋谷が今年は厳しく、人手が足りない」と言うことを聞いていて、冬休みで、破防法関連、学内が一段落付いたので関わることになった。

《越年祭りについて》
31日はいろいろ制約が多かった中で先輩方、支援の側共に楽しい雰囲気の中で交流を深めることができたのではと思います。私も28日の炊き出しで知り合った先輩(わかやまさん)に来てもらって内心の喜びは隠せなかったです。しかし疲れのためか、深夜12時越えたらさっぱり元気がなくなってしまい、パトロールにも参加できませんでした。

昨年の状況は分かりませんが、先輩への呼びかけもしっかりやっており、ちょっと来てお茶を一杯だけ飲んで帰っていった先輩方も多いので、100人は優に越えたのではないか。

当日手伝いに来てくれた人たちに対するオルグがちょっと弱かったと思います。支援の側に対して、いのけんでの今後の取り組み、宣伝などしっかりやったほうがいいのではないか。当日の野宿労働者に対する熱心な態度は、当日に参加した者にも十分に伝わってきたが、興味があっても、いのけんがどういう存在なのか、どう今後加わっていけばいいのか当日参加者にはよく分からないと思う。(この点はいざ自分の運動を振り返るに重々自戒を込めて)
私もおととしの夏祭りに参加して、いのけんのビラをもらって、興味もあったのだが、これまで一歩距離を取ってきた。そのような私の態度は反省しているが、普通の学生には今一ついのけんに近づくきっかけがつかみにくい感じがあるように思う。

越年祭り、炊き出し・医療相談、福祉行動と一連の流れで先輩に呼びかけることが出来た。また支援の側が責任を持って対処している点に頭が下がる思いです。

あと過去何度も議論されてきた事であると思うが、私たちが先輩方を支援するために、逆に先輩方の”括弧付きで称される社会”への復帰を妨げていることにならないかという危惧である。この点は私のバイト先の「精神病」院でもある議論なのだが、そこではバイト学生は患者さんの話し相手でしかないのだが、

《看護谷口氏より4日の医療パトロールに参加して》
いのけんの皆さんが継続して取り組んでいるということがひしひしと伝わってきた。当日は日勤の仕事が忙しかったので、体力的にちょっときつかったのですが、又声を掛けてください。あらかじめ状況を教えてくれれば、薬でもきちんと用意して対応できるので。

今週も越冬お疲れ様でした。まだまだ続きますが、私も時間が許す限り金も知恵もないですが、支援に回りたいと思います。いつでも声を掛けてください。