被災地〜9ヶ月 (1/2)

国家と自然の脅威を感じた2日間

新年三が日が明けてすぐ、2012年1月4日から5日にかけて、東日本大震災の被災地にあたる福島宮城岩手の3県を車で廻ってきた。
「東日本大震災による東北地方無料措置」により、茨城の水戸から北は高速が全て無料だったので、とことん使いまくってきた。2日間で走った総距離約1300キロ。とことん疲れた旅であったが、色々と考えさせられることも多かった。
文章としてまとまっていないが、記録として道中ふと考えたことを留めておきたい。

初日〜福島を巡る

無料区間の水戸インターから常磐道を北上していった。途中いわきまでは高速無料化の影響もあってか賑わっていた。しかし、いわきを抜けると、写真のようにガラガラであった。それも当然であろう。いわき市の北に位置する広野町以北は電車も高速も一般道も全て封鎖されているのだから。時折誰も乗せていないマイクロバスとすれ違うのが何とも不気味である。

常磐道広野出口を降りて、東京電力が建設運営しているJ-villageへ出向いた。ちょうど国道6号線沿いにあるのだが、入り口に近づいたら、機動隊の「かまぼこ」(う~ん、何とも懐かしい表現である…)が道を封鎖していた。そして防護服に身を固めた警官が見物に来る車、来る車をどんどん追い返していた。
そこで、裏のグランドの方へ回ると、そこには単身者用の仮設住宅が隙間なくぎっしりと建てられていた。おそらくは下請け孫請けの社員たちが利用するのであろう。コンテナ型の建物がカプセルホテルのように密集している。

このJ-villageは福島第一原発の半径20キロ圏の境界に面した場所にある。電気やガスの供給も十分ではないという報道もあった。グランド脇にはウォーターサーバーの空き容器が山のように捨てられていた。防護服の山を見ることはできなかったが。。。
この場所が再び本来のサッカーの舞台として脚光を浴びる日は来るのであろうか。

このJ-villageに隣接する広野火力発電所の煙突からはモクモクと水蒸気が上がっていた。この広野火力発電所は東京電力の供給エリア外に立地する発電所である。地元福島ではなく、関東圏に電気を供給するための施設である。J-villageの死のイメージと対比的に生の雰囲気を感じてしまった。

この広野町から北へ行く道は全て「災害対策基本法」によって立ち入りが禁止されている。さらに、周辺では白い防護服に身を固めた警官の乗ったパトカーがひっきりなしに警邏で通りかかる。2年ほど前に観た映画『感染列島』のシーンが頭をよぎる。映画のエキストラになったような感覚を覚えた。

ちょうどお昼時になったので、J-villageの前で営業していた手打ちラーメン屋で食事をした。震災後に営業を始めたのであろうか、外も中も真新しい造りであった。本格的な手打ちで腰のある麺だった。ラーメンを啜りながら午後の旅程を練る。

昼食後、広野火力発電所を左に見ながら海岸線を下って行った。この広野町は「緊急避難準備区域」に指定されており、3月から4月まで強制的に住民が避難を余儀なくされた地域である。警報が解除された後も、多くの住民が戻ってきていないようだ。辺りに人の気配が無く、津波で損壊された橋脚や住宅も手付かずのままであった。
広野町役場は現在いわき市に置かれており、人口は5300人を数えるが、町内で暮らすのはわずか250人となっている。

広野町駅までは電車が動いているが、折り返し運転で北方面へは電車は動いていない。駅前にも地元の住民の方の息遣いは感じられなかった。しかし、商店街の向こうには先ほどの火力発電所がフル稼働している。何とも不釣り合いな光景であった。

この後、くねくね道を経由して、国道399号線を北上しようとしたが通行止めであった。結局、一般道で北上することができないことが分かり、常磐道でいわきJCTまで戻り、磐越自動車道、東北自動車道を通って仙台まで行った。軽自動車での100数十キロの高速の移動はかなり疲れるものであった。


□ 被災地〜9ヶ月 1日目
□ 被災地〜9ヶ月 2日目