被災地〜9ヶ月 (2/2)

二日目〜岩手宮城を巡る

仙台のビジネスホテルで一泊(3700円)した後、三陸自動車道で登米市まで行き、国道346号、国道45号を経由し、岩手県大船渡市まで一気に走った。仙台からはかなり遠く、到着する頃には昼近くになってしまった。国道から見る限りでは瓦礫の撤去はかなり進んだようで、スムーズに走ることができた。

大船渡という市名は今回の震災で初めて知ったのだが、港湾周辺は写真の通り、未だ倒壊寸前の建物が林立している状況である。瓦礫等は既にきれいになっており、車で走るのは容易なのだが、辺りは東京大空襲や原爆投下後の広島や長崎を彷彿させる光景が広がっている。「一面焼け野原」という単語が脳裏をよぎる。
写真は大船渡線の大船渡駅周辺なのだが、線路も駅舎も何もかも流されてなくなってしまっている。また、この周辺は震災の影響で70センチ近く地盤が沈下しているためか、少し窪んだところは海水が溜まったままになっている。高台の方は新築の家が建ち始めているのだが、低地は方針が決まるまでこのままなのであろう。

大船渡線の終点のさかり駅で少し休憩した。さかり駅は少し高台になっているためか、駅舎は無事であった。先ほどの大船渡駅周辺は壊滅だが、少し坂を上ると普通に店も営業している。このギャップも不思議である。
大船渡市には、気仙沼から海岸線を走る大船渡線と、大船渡と釜石を結ぶ三陸鉄道南リアス線の二つの路線があったが、両方とも線路が流され営業はしていない。路線自体が海沿いにあるため、数年後の営業再開は難しそうだ。

大船渡のおさかなセンターで昼食をとり、国道45号線を戻って、陸前高田市に向かった。陸前高田市は中心街が平地に集まっていたため、津波の被害が甚大で、震災後連絡が取れなかった所である。上記写真の気仙中学校は3階建てだが、屋上までめちゃくちゃであった。津波の被害は頭の中では理解していたが、実際に現場に立って、頭を傾げて見上げるとその高さとパワーをひしひしと肌で感じる。

陸前高田市の中心に位置する高田松原周辺の様子である。中心街だったので、カーナビの画面にはコンビニやガソリンスタンドの情報が次々と出てくるのだが、実際には四方八方何もなくなってしまっている。建物の土台すら流されたのか、撤去されたのか、跡形も無く消えてしまっている。

海岸線から2~3キロ走ったのだが、平地は奥の方まで更地になってしまっている。大船渡や後述する気仙沼は、中心の駅や役所が残っているので、復興に向けた取り組みも徐ながら進んでいる気配を感じる。
しかし、陸前高田市や南三陸町などは中心市街地そのものが根こそぎ破壊されてる。建物や町の一角が損壊しているのならば、修復や復興の道筋が立ちやすい。しかし、四方が全て更地になってしまった場所にいざ立ってみると、この場所にまた町を作るというイメージがどうしても沸かない。私の想像力が貧困なのだろうか。

陸前高田市の海沿いには、堤防の代わりだろうか、瓦礫の山が築かれていた。木材や鉄パイプ、生活用品のチャンプルの瓦礫の山を見上げると、その量に驚きである。震災直後は瓦礫によって道路という道路が塞がれていたという。何もかも無に帰してしまう津波の破壊力に驚きを超えて神秘さすら感じてしまう。

陸前高田を後にして、さらに国道45号線を南下していった。気仙沼を走っていると突如馬鹿でかいタンカーが目に飛び込んできた。現実のものとは即座に認知できず、映画のセットのような違和感を禁じ得ない。気仙沼も大船渡同様に、低地の港湾地区と高台の住宅地の被害の差が歴然としており、住宅の新築を中心として、復興に向けて動き出している雰囲気を感じた。

気仙沼市も70センチ近く地盤沈下しており、海岸沿いが海に飲み込まれたような様相を呈している。被災地を見学しにきた観光客(?)の姿も目についた。

気仙沼から国道45号線を南下する。この国道45号線は比較的山沿いを通っており、海沿いには気仙沼線の線路が敷設されている。写真は陸前小泉駅の様子である。平地から5〜6メートル上に線路があったのだが、陸橋も破壊され、線路も存在を消してしまっていた。

左の写真は確か陸前港駅だった気がする。そして右は歌津の町の写真だったと思う。鳥居が半分地中に埋もれている。
この時間帯は車から写真を撮って行ったので、記憶が曖昧である。

上記の4枚の写真は南三陸町の清水浜地域の様子である。

南三陸町清水浜の空き地に集められたぺしゃんこの車の様子。3月11日に震災のテレビ映像を見た時は、車がミニカーのように感じたが、実際はここまで変形してしまうのである。

最後に南三陸町の中心を訪れた。海岸から2キロほどの高台にある志津川高校からの映像がテレビで何度も放映されたが、陸前高田と同じく、南三陸町の役場の建物も含め中心街は全て更地になっていた。
「言葉を失う」という表現があるが、まさに何と表現してよいか分からない破壊の爪痕であった。
鉄パイプをくしゃくしゃに曲げる水の力に改めて恐怖を感じた。たかが水と思うが、ひとたび町を襲う時にはとてつもない力を発揮するということを肝に銘じたい。

陸前戸倉の駅跡の様子。ここも駅がかつてあったという気配すら消してしまっている。

この後石巻にも立ち寄ったのだが、海沿いに向かう道の渋滞と時間の都合で途中で引き返さざるを得なかった。また改めて出かけてみたい。

時代は便利になったもので、「グーグルマップ」で、震災直後の写真や、ストリートビューで震災後数ヶ月後の映像を見ることができる。しかし、実際に現地に立って四方を眺め回すことで、その津波の「立体的」な大きさを感じることができたように思う。
一昨年に八ッ場ダムや茨城空港を訪れた際にも感じたことのだが、人間の身体的なスケールを遥かに超える変動に際しては、実際に現場を訪れてその場で考えることが大事だと思う。インターネットの大容量回線が普及してきて、活字情報のみならず、写真や映像にも自由に触れることができる現代だからこそ、頭だけでの理解することの危険性を意識して行きたい。


□ 被災地〜9ヶ月 1日目
□ 被災地〜9ヶ月 2日目