橋本治『貧乏は正しい:17歳のための超絶社会主義讀本』(小学館,1994)を数ページだけ読む。
正直受け付けなかった。17歳向けの体のエッセイ集で、著者の畳み掛けるような文体がどうも慣れない。
『地図のない旅』
五木寛之『地図のない旅』〈五木寛之エッセイ全集 第3巻〉(講談社,1979)をパラパラと読んだ。
一体何十年ぶりに読み返すのか。おそらく高校生以来30数年ぶりであろう。解説の中で、駒尺喜美さんも指摘していたが、1968年のパリでのエッセイの一節が気になった。五木氏は次のように述べる。
世界の学生運動は共通のものを指向して動いている。それは単純化していえば、社会硬化現象に対する否定の行動といえるだろう。
官僚権力組織と、経済機構の固定化、上からの一方交通的な支配体制の強化が見られるすべての国において、その否定の運動は立ち現われるはずだ。いずれソ連国内においても学生のデモが行われるだろう。社会主義社会の中には、より一層の官僚支配体制の強大化が見られるからである。
そういった否定のエネルギーを、「イタリア! イタリア! イタリア!」「フランス! フランス! フランス!」「日本! 日本! 日本!」の合唱にすりかえられぬようにするにはどうすればよいか、などと考えながら深夜のカルチェ・ラタンを歩く。
五木氏は社会が行き詰まると、イタズラな愛国心を全面に出したファシズムがやってくると警告を発しているのである。
『数字で見るエネルギーの話』
太田時男『数字で見るエネルギーの話』(三田出版会,1991)を読む。
消費が美徳とされたバブル華やかりし頃の本である。そうした時代の中でエネルギーの浪費・無駄を警告するための本である。さらっと読み飛ばすつもりであったが、内容も面白く、最後まで飽きることなく読むことができた。
エネルギーというのは仕事をする能力で、必ず「機械的エネルギー」「電気的エネルギー」「光エネルギー」「化学的エネルギー」「熱エネルギー」の5種類に分類できる。
太陽電池の出力は数個つなげば高いボルトになり、また直流の電流が得られるので、電池の充電や水の電気分解用にちょうどあっている。水素が電気エネルギーとともにエネルギーの媒体として使われる時代になれば、太陽電池の活躍する役割が、ますます増えるであろう。これはすでに実現している。あとは採算ラインの問題である。
潮汐発電のように、月の公転運動エネルギーが、もしほんの少しでも利用できれば、世界のエネルギー事情はほんとうに楽になる。1987年に日本で一年間で使ったエネルギーの2億倍もあるのだから。これはどこかで紹介したい。
1990年頃は日本は世界一の製鉄国家だったので、日本が輸入する石炭の90%弱が製鉄工場で使用されていたのである。へえ〜。
エルニーニョ現象で海水の温度が上がると海水中の二酸化炭素が大気中へ放出され、海水中の濃度が低くなって、サンゴ礁など二酸化炭素をたくさん必要とする生物が死ぬことになる。サンゴ礁が生きていたころより海水中の二酸化炭素の吸収能力が小さくなるので、大気中の二酸化炭素が増えるのである。サンゴ礁の死滅が温度ではなく、二酸化炭素が大きいということが理解できた。
アルミニウムはアルミナ鉱石を1,000度の高熱で溶かし、さらに1トンのアルミニウムを作るのに、290万キロカロリーものエネルギーを電気エネルギーの形で消費する。そのため、アルミニウムの値段の30%以上が電気エネルギーである。水力発電の盛んな地域で作られるというのが理解できた。
『ドーバー海峡泳いじゃった!』
大貫映子『ドーバー海峡泳いじゃった!』(新日本出版社,1986)をパラパラと読む。
早稲田大学在学中にフランスとイギリスの間のドーバー海峡を泳いで渡った体験が綴られている。
ドーバー海峡は距離以上に海流の流れが強いところである。現在も難民が泳いで渡ろうとして命を落とすところでもある。
『ルール』
古処誠二『ルール』(集英社,2002)を少しだけ読む。
太平洋戦争末期、東南アジアかオセアニアでの日本軍の惨状が描かれる。非合理的な戦略なのだが精神論で乗り切ろうとする日本人の体質がテーマとなっているのか。