金原みはる著『女が離婚を決意するとき』(サンドケー出版局 1994)を読む。
いわゆる「キャリアウーマン」と「良妻賢母」の役割の両立の難しさに悩む女性や夫婦間の会話不足の現状について離婚した女性にインタビューしたルポである。「妻として嫁として母として」生きることを強要されてきた女性の自立は20世紀をかけての大テーマであった。しかし、家庭の従属であった女性の解放は、イコール一人の女性である「わたし」を生きることにつながらなかった。これは一人の男性として生きることの難しさにもつながることである。
『悪い先生』
北村俊一著『悪い先生』(データハウス)を読む。
「実は先生という職業はこれこれ」という露悪な週刊誌の特集記事の焼き直しに過ぎない。
『ワンマン私大の内幕』
まざねただし著『ワンマン私大の内幕』(エール出版)を読む。
組織の硬直化と馴れ合いの中でどこでも起こるようなことが述べられていた。「悪質大学」の浄化について対処療法的なことしか踏み込んでいないため面白くない。
「新橋通信」
救援連絡センター発行の『救援』(第389号)を読む。その中の編集後記「新橋通信」から引用してみたい。
全国の大学で自主・自治空間つぶしが強まっている。最近で言えば東京大学駒場寮への強制執行、早稲田大学での新学生会館開館に伴う既存のサークルスペースの一斉撤去などが上げられる。大学当局からすれば、もともと自分たちの目の届かないところで学生たちが自主的な活動をしていることは許せないものだった。しかし、下手に手を触れるとどうなるか分からないからとりあえず手を出さないでおこう、としてきた。それが、「もうそろそろ大丈夫だろう」と、弾圧に全面的に乗り出してきた感がある。これに対する反対運動は、一般の眼に、大学という特権的な空間での特権的な場所を守ろうというように映りがちである。これは「司法改革」に反対と言う時、弁護士の特権的な立場を守りたいからだろうという批判に似ている。どうやって運動を広げていくか、運動の側にも真価が問われている。東大や早大では、学生たちはテントを張りながらこの夏を過ごしている。興味を持たれた方は、ぜひ現場に足を運んでみてはどうだろうか。(の)
大学に置ける学生運動の一つのメルクは大学の「解放」である。ここ数年少子化の影響か、大学は講座を一般市民に「開放」する試みに懸命である。大学内で資格関連講座を開いたり、地域の公民館等で教授による教養講座が数多く開かれている。しかし全共闘運動が目指したのは、「反大学」「自主講座」であり、学問や思想の再構築をベースとして、大学を拠点として運動を「開放」していくものであった。60年安保、ベトナム反戦運動、70年安保、沖縄三里塚や人権問題等山積みな課題に対する議論や行動の集約点として大学を活用してくという発想だった。
少し乱暴な表現になるが、やはり自主自治活動空間内で取り組まれる様々な運動自体が常に社会と対峙したものであり、その運動を進めていく上で、学生は大学という権力とぶつからざるを得ず、そこから空間を守るという運動につながっていくものであるのが、本来の姿であろうか。東大や早大でのテレビ報道を見ていると、最後の「空間を守る」というところだけしか放映されないため、特権的な運動、学生のお祭り騒ぎと一般視聴者は捉えても仕方がないであろう。いくらメディアが学生に親身に運動を扱ったところで、逆にメディアの限界性が露呈していくだけのような気がする。映像というものはその被写体の他とのつながりを捨象して、短絡的に表現する。高崎経済大学での闘争を描いたドキュメンタリー『圧殺の森』という作品があるが、学生の熱心さやひた向きさは視るものの胸を打つが、議論を積み重ねていく運動自体の内実が視るものに伝わったかというと疑問符がついてしまう。特に映像という制作側の意図が加わりやすいメディアの危険性は70年前半から指摘されていたことであるが、マスコミ、権力、反権力、警察等様々な立場の人たちが映像を扱え、武器に出来る現在は特に難しいのかなと感じる。
『恍惚の人』
有吉佐和子『恍惚の人』(新潮社)を読む。
20数年前のベストセラーであるが、なかなか面白かった。単なる「老人性痴呆症」の主人公を悲哀的に描いたのではなく、嫁である昭子さんの視点を通して、耄けてしまった舅の茂造が活き活きと描かれていた。また家庭内で「耄け老人」を抱える立花家の騒動を通して、女性を家庭に縛りつける家族制度や老いを迎える中年世代のぼやき、地域社会の希薄化、3世代家族のすれ違いが丁寧にかつ楽しく描かれていた。
