『自殺』

柳美里『自殺』(文春文庫1999)を読む。
「自殺」という過激なタイトルであるが、自殺を肯定するでもなく、いたずらに否定するでもない。死が家庭から消え、病院の中で起こる出来事になり、日常生活から縁遠くなってしまったために、我々は死をいたずらに恐怖したり、賛美したりしてしまう。だからこそ死を常に意識することで、生を捉え直そうと柳さんは訴える。

私の自殺に対する考えの中心をなしているのは、生のなかに死をプログラムすべきだということです。どんなにポジティブに生への意志を持っていても、必ずいつかは死が訪れるのだから、予め死の準備をしておくべきだと言いたかったのです。私は死をプログラムすることが、生きる価値と意味を喪失してしまった現代社会において、自殺をコントロールする唯一の方法なのかもしれないと考えています。(中略)私は今日ほど考えることが軽んじられている時代はないと思っていますが、誰でもいつかは死とは何かを考えないわけにはいかないのです。だとすればまず生のなかに存在する死を受容することから考えはじめたらどうかと言いたいのです。(中略)死は外側からやってくるのではなく、ひとりひとりの内部に実存しているのだとすれば、どのようなときに、どのように自決するのかを考えておくことは、生の意味と価値を探求することになるのではないでしょうか。

『徒然草』において吉田兼好も「生・老・病・死の移り来たること、またこれに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、おぼえずして来たる」と死は意図するにせよしないにせよ、突然やってくるものであるが、それを必然と捉えることで精神の安定が計れると説く。人間かならず死に向かっているということを直視することで生きることの

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