「格差社会の『自分探し』―男が揺らぐ」「大衆社会の主役」

本日より千葉の知的障害者更生施設での現場実習の後半が始まった。残り6日間であるが、この厳寒の中、電車を乗り継いで片道2時間の道のりがきつい。誰彼構わず会えば「寒いですねえ」が挨拶になってしまう。

本日の東京新聞に「格差社会の『自分探し』―男が揺らぐ」という特集が組まれていた。
その中で、『希望格差社会』(筑摩書房)が話題の山田昌弘・東京学芸大教授の男性の「落第感情」に対する興味深いコメントが寄せられている。

お見合い結婚が盛んなころなら、だれでも結婚のチャンスがあった。女性が仕事をしてない時代なら、男は少しの努力で上に立てた。がんばれば自分にもできるという希望が持てた。でも、今は力を持った一部の人だけが「勝ち組」になる時代。その他大勢は、置いてけぼりになって、もてる男、もてない男の二極化が急速に進んでいる。

最近話題になった女性の勝ち組負け組は既婚子持ちか否かといったようにハードルが低いが、男性の勝ち組負け組の差は大きいように感じる。確かに、最近「K-1」や「PRIDE」といった格闘技や競馬やゴルフなど、一部の勝者とその他大勢の敗者の差が歴然とした優勝劣敗のはっきりしたスポーツが、特に男性に好まれるが、現在の風潮を反映しているのであろうか。

同日付けの東京新聞のコラムに、精神科医の斎藤学は「大衆社会の主役」と題して、「負け組」にエールを送っている。

自分を負けや下流に位置づけるというのはなかなか良い考えだ。少なくとも勝ちを目指して頑張るよりはいい。(中略)ところで、この大衆社会の中で力を持っているのはマイノリティーかマジョリティーか? 衣装やダンスの流行からお笑いの芸人のハヤリまで、カギを握っているのは一般大衆と呼ばれる貧乏で無責任で悪趣味な多数派ではないか。世の中は彼ら向きにできているのだから、地位・名誉・金に恵まれた人々を嫉妬したり羨望したりする必要などない。それにごく一部の勝者たちは、多数の敗者の恨みを恐れ、警戒し、敗者に媚び続けることを怠らない。敗者は勝者が提供するさまざまなサービスを楽しめばいいのだ。

斎藤氏は「勝ち負け社会」の特徴は、マスコミを通じて消費者大衆を不安に陥れ、大衆の不安からの脱出を企業なり国家が絡めとるところにあると指摘する。そうした社会の幻想を見抜けば、最初からいんちきなゲームに乗らずにすむと説く。

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