『20世紀の意味』

石堂清倫『20世紀の意味』(平凡社 2001)を読む。
石堂氏は、戦前日本共産党に入党し満州で検挙され、戦後共産党に復党するも除名処分になり、在野でイタリア共産党のグラムシの思想を紹介し、社会主義運動の再生を説いた評論家である。中野重治と同世代の人で親交も深く、学生時代に卒論を書く時にインタビューをしようかと考えていた人である。

Soviet_Union_Lenin一 般にレーニン主義というと暴力的なプロレタリア独裁を通じた共産主義革命を指すものと考えられており、教科書でも民衆を前に演説する姿が印象的である。しかし、レーニンは1921年のコミンテルン大会の最中に、「われわれの唯一の戦術は、より強く、だからより賢明に、より思慮深く、より日和見主義的になることだ」と述べたという。つまり社会民主主義(修正主義)的な手法をとることを密かに提案したという。しかし、そうしたレーニンの考え方はスターリンには受け継がれず、ましてや日本に入ってくることはなかった。石堂氏は1921年以降の転換後のレーニンを評価すべきだとし、一党独裁ではなく、多様な運動体による市民的ヘゲモニーの確立を提唱したグラムシの思想に期待を寄せている。

また、コミンテルンの指示に従うだけのスターリニズムに毒され、「急進的な変革を熱望するあまり、変革の条件の検出と造成の代わりに、多分に空想的情熱的なカタストロフを願っていた」だけの戦前共産党に対する舌鋒は鋭い。

(戦前の)共産主義運動は個々の共産主義者の判断によって遂行される外はなくなった。ただ、党は現実には組織を形式上維持するのがなしうる唯一のことであって、拡大し、深化する侵略戦争にたいする反対運動を国民のあいだに組織する力はなかった。したがって機関誌を配布する以上の力は、個々の党員になかった。その党員が逮捕されると、ほとんどすべてのものが、党活動をやめることを誓う外に選択はなかった。それは不可能事を不可能と言っただけである。ところがそれは「変節」であり「降伏」であると当局によって宣伝された。「転向」とは共産主義者の志気をくじくため、当局が案出した官庁用語である。代替策をもたない共産主義者は、この宣伝に対抗する力を持たなかった。それが「転向」なのである。転向者が責められるべきだとすれば、自殺戦術を放棄したことについてではない。彼は代替戦術をとらなかったことにたいして責任があった。つまり、事は個人の心性にかかわる道徳の問題ではなく、反体制の、とくに、反戦の連帯行動を可能にする道を示さなかった政治の問題であった。

そして戦前戦後を通じた日本の共産党の構造的欠陥を次のように指摘する。

わが国の共産主義運動は、アジア諸国の労働運動と、戦前戦後を通じて協力体制をつくることはありませんでした。建前として国際主義をとる以上、反資本の運動を国際化すべきですが、戦前の日本の労働運動は、「インド以下的な賃金」に憤激しながら、インドの労働者と提携したことなどありません。そして戦後の総評は、「ヨーロッパ並みの賃金」を唱えましたが、そういう前に、朝鮮やインドネシア、インドシナ、フィリピンなどの労働運動と共通の目標を掲げ共通の運動をつくることをしなかったのです。いまでも、共通の綱領をもち、共通の資本と戦うという国際連帯の運動はありません。

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