佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』(日本経済新聞社 2000)を読む。
まだ小泉内閣に入る前の「経済戦略会議」や「IT戦略会議」に名前を連ねていた慶大教授の頃の竹中氏が、経済学に偏見を持つ佐藤氏の批判に丁寧に応えつつ、これからの日本の経済学のあり方を指し示す内容となっている。佐藤氏の子どもの頃に流行った牛乳瓶のフタから貨幣や信用の話に展開していき、そして、東インド会社から株式の仕組みを説明し、税金やアメリカ経済、アジア経済、投資と消費、企業とビジネス、労働と失業など経済を巡る様々な問題に議論が広がっていく。佐藤氏が経済学を人間の欲望を助長していく危険なものではないかと危惧するのに対し、エコノミクスには元来ギリシャ語のオイコノミクス”共同体のあり方”という意味があり、経済学は社会の発展と幸福を希求するものであると竹中氏は述べる。確かに、竹中氏の経済学の概論の説明は非常に分かりやすく示唆に富んでおり面白い。しかし、中曽根内閣の民営化・自由化・国際化を賛美し、企業や個人の自己責任を重んじ、人頭税の導入や競争原理を徹底する強者の論理を振りかざす姿勢は当時から変わらない。
その中で、竹中氏の株式会社の説明の一説が興味深かった。会社が誰のものか分からないから一般の社員は自分のものだと思って働くというのは極めて日本的な感覚であろう。日本では、スポーツの世界でも公務員の世界でも誰かが一元的に管理支配している構造とはなっていない。好々爺の社長であったり、温厚な監督、存在感のない所長などが日本の組織のトップに鎮座することが多い。そうした日本の組織のメリット・デメリットをきちんと見極めていきたいと最近ふと考えることがある。
(日本では「わが社」という言葉に表わされる通り、株式会社が株主のものではなく、コーポレートガバナンスが機能していないという話の流れで)
会社が自分の会社であると思うその一つの大きな要因は、オーナーが見えなかったからだという説です。もし、これがたとえばオーナーがちゃんといる会社で、「この会社はあの人のものだ」というふうに思ったら、いくら会社で働いているサラリーマンでも、やはり自分の会社とは思えないですよ。日本はさっき言ったように会社同士が株主でしょ。株主が見えないような仕組みで株式を持ち合ってますから、オーナーというコンセプトがないんですよね。そうすると会社っていうのは誰のものかわからない。誰のものかわからないから、自分のものみたいな気がして一生懸命働くと。