村上春樹『約束された場所で』(文藝春秋 1998)を少しだけ読む。
本日の朝刊で一連のオウム真理教事件の裁判の記事が載っていたので、本棚の奥から引っ張り出してみた。
10名弱のオウム真理教の信者への長時間にわたるインタビューと、河合隼雄氏との対談で構成されている。
パラパラと読んでみて、やはりオウム真理教事件はインターネットが普及する前の事件だと思わざるを得ない。現在の生活や人生、人間関係に違和感や不満があるから、その受け皿として新興宗教に走ってしまうのだが、そうしたストレスやフラストレーションの受け皿の一部はネットの掲示板やSNSが代替していると言って良いだろう。リアルな生活の不安や不満の全てがネット上のコンテンツで解消されるとは思わないが、半分くらいはネットでの心を許せる出会いや会話で有耶無耶になっているのではないだろうか。
読み進めながら、「何を今更」「ネットでやってよ」というような失礼な感想しか出てこなかった。そういう感想しか出てこない20年後の現在の方がより危険なのかもしれないが。
また、10名弱の人の感想からオウム真理教の全体像に迫るという点について、村上氏は次のように述べる。五木寛之氏もかつて米国内の黒人の生活状況について、同じようなことを述べていた。
例えばさびしい人気のない夜道で棒を持った変な男にすれ違うとします。実際には162センチくらいのやせた貧相な男で、持っている棒もすりこぎくらいのものだったとします。それがファクトです。でもすれ違ったときの実感からすると、相手は180センチくらいの大男に見えたんじゃないかと僕は思うんです。手に持っていたのも金属バットみたいに見えたかもしれない。だから心臓がどきどきする。それでどっちが真実かというと、あとのほうじゃないかと思うんです。本当は両方の真実を並列しなくちゃならないんでしょうが、どちらかひとつしか取れないとなったら、僕はあくまで断り月ですが、ファクトよりは真実を取りたいですね。世界というのはそれぞれの目に映ったもののことではないかと。そういうものをたくさん集めて、総合していくことによって見えてくる真実もあるのではないかと。