月別アーカイブ: 2014年12月

『鳥取雛送り殺人事件』

内田康夫『鳥取雛送り殺人事件』(中央公論社 1991)を読む。
名探偵浅見光彦が活躍するシリーズである。
年末に出雲大社を参詣しようと計画しており、鳥取や島根に纏わる作品をと思い手に取ってみた。
鳥取県の用瀬にある流し雛の館や若桜の鬼ヶ城跡の写真をGoogleMAPで確認しながら、一時の旅行気分を味わった。
物語自体は、古い神社の言い伝えや怨念といったイメージで誤魔化されてしまったような感じで、あまりワクワクするような展開ではなかった。

レポート24本終了!

先程、コピー用紙が底をついたので、コンビニのコピー機で最後のレポートを印刷してきた。
やっと24本のレポートを仕上げることができた。最終試験に間に合うためのレポート提出の締め切りが12月2日だったので、ギリギリのタイミングであった。
まだこれから最終試験となるのだが、3月に作成した24本のレポートの山が片付いて、じわっとした安堵感に満たされている。
しかし、出来栄えについては決して納得の出来るものではなかった。10月下旬から11月末まで、これまでの人生で一番忙しいと思うほど仕事が立て込んで、参考文献を読むどころではなかった。最後の日本史・東洋史もほとんど参考文献を読まずに、電子辞書を頼りに辿々しい文章でマス目を埋めただけであった。
こうした経験を反省材料に、今度の試験では挽回を期したい。ちょうど東洋史は清代、日本史は近現代と時代が重なる。幕末から日清戦争、辛亥革命までの流れを丁寧に押さえながら、日中関係史をきちんと学び直したい。これからの1ヶ月半を充実したものにしたい。

日本史 第2課題

足利義満は史上最大の権力者といわれています。その理由について述べなさい。次に絶大な足利政権の権力が衰退していった理由はなにかについて述べなさい。

(1)史上最大権力者といわれる足利義満
 義満が権力の座を維持できたのは,類稀な政治のバランス感覚と嗅覚にある。政敵に対し真っ向勝負を仕掛けることは少なく,常に相手の動向を探り,政変を招く急所を狙い,懐柔し絡め取る作戦に出ることが多かった。
 14世紀後半の幕府の存在や将軍の地位は,対立する守護,特に斯波氏と細川氏の危うい力の均衡を前提に成り立っていた。義満はその均衡を積極的に利用し,父義詮の代から管領の立場にあった細川頼之を罷免し,斯波義将に乗り換えて,地位の安定を図っている。
 また,20歳を過ぎた義満が考えた幕府の安泰策は,軍力に頼らず,威圧と懐柔で有力守護の力を削ぐことであった。土岐氏の乱においては,嫡家と庶家の対立を利用し内紛を生じさせている。また,明徳の乱では「六分一衆」と呼ばれた山名時義没後の一族内の対立に乗じて介入し,山名氏を3カ国の守護に落としている。さらに,応永の乱においては,口八丁で大内氏を巡る対立を煽った上で万全の戦いを展開している。
 将軍の権威が確立した後は,守護統制により守護の在京を義務付け,有力守護を幕府の要職に任じ幕政を担当させることで,守護同士が結託することを未然に防いだ。
 このような相手の出方を巧妙に伺う戦法は,後円融天皇と義満の間で行われた権力闘争でも発揮された。従来の武家は頼朝でも北条義時でも尊氏でも表向きは天皇・公家を立てていたが,義満は後円融天皇とは従兄弟関係にあるという出自から,武家は公家よりも上にあるべきという強烈な意識を抱いていた。
 義満は,天皇制の持つ(空白であるが故に逆らえない)政治的意義を残しつつ,皇位そのものを簒奪するという作戦をとった。懐事情の苦しい貴族に対して守護使不入や段銭徴収免除,過所の特権付与を認めたり,義満自らの口添えで訴訟を有利に展開したり,所職,所領,役職を獲得し,官位を昇進させたりして,貴族を家礼として編成していった。義満は節会の内弁を頻繁に務め,朝儀や寺社造営を支えることで,公家として振舞い,政権統一に対する朝廷や公家側の抵抗を弱めていった。さらには三条厳子の刀傷事件や按察局密通に伴う上皇自殺未遂事件を通し,後円融天皇に対する誹謗中傷を展開した結果,14世紀末頃には貴族全体が義満を家督として認めるようになっていった。
 1392年南北朝合一後,義満は将軍職を義持に譲り,太政大臣に任じられ,入道して道義と称した。しかし,義満は諸卿に対して上皇としての礼や対応を要求するようになり,実質的な権力は手中に残したままであった。後小松天皇の母親の逝去に伴う諒闇の儀に介入して,自らの妻である日野康子を准母とし,自らは法皇の格にまで昇りつめていく。さらに皇位継承を巡る対立に乗じ,次男の義嗣を公家のトップに据えようとした。
 1374年,1380年と2回に渡り,義満は「征夷大将軍」名義の親書を持たせた使者を明に派遣している。しかし,冊封体制を取る明は,正式な国王ではないということで入貢を拒否している。そこで義満は叙任権や祭祀権の奪取の既成事実を積み上げ,1403年,有名な「日本国王臣源道義」名が入った明の返詔を得ている。朝貢形式をとったことは当時および後世の物議を醸したが,明から「国王」というお墨付きを得たことで,朝鮮とも外交ルートが成立し,莫大な貿易の利益と合わせて,当時の国際通貨である明銭の流通と共に義満の権威も国内津々浦々へと広がっていった。

(2)足利政権の権力が衰退していった理由
 皇位権を利用することで国内のパワーバランスを図るという戦略は,義満個人の性格や資質に負う所が多いものであった。義満の急死により,その戦略は一気に瓦解していく。
義満の没後,斯波義将を中心とした有力守護の支持で義持が擁立されると,幕政は管領を中心に有力守護の合議により運営されるようになった。また,義持も亡父に疎外されてきたという経緯もあり,義満の絶対的専制君主志向を否定する政策をとる。有力守護や宿老たちも自らの世襲分国制を守るために,義持を巧みに利用して天皇の叙任権を復活させ,足利氏を抑えようとした。
 義満の3男にあたる6代義教は父と同じく専制化を志向し,将軍の親政権を強化するとともに,守護大名の抑圧策を断行した。しかし,義満の手法であった懐柔と権威をもって臨むやり方と正反対の恐怖政治であり,嘉吉の乱に倒れることになった。義教が行った守護家家督への介入は守護家の内紛をあおり,かえって幕府の諸国支配を困難とし,守護勢力間の均衡関係を崩して応仁・文明の乱勃発の原因となった。

《参考文献》
安田次郎『走る悪党,蜂起する土民』小学館,2008
今谷明『室町の王権』中公新書,1990
『日本史広辞典』山川出版社,1997