古在由秀『天文学者のノート』(文藝春秋 1984)をパラパラと読む。
天文学の学問的な内容はなく、旧制中学の受験から始まり、東京大学理学部天文学科を卒業して、東京天文台に就職した後の経歴が、分かりやすく綴られている。天文学の第一人者の著者も最後は、天文学者が少ないために、天文学も教える人がおらず、天文学に興味を持つ高校生や大学生も減っている現状を嘆いている。
「読書」カテゴリーアーカイブ
『天文台日記』
石田五郎『天文台日記』(ちくま少年図書館,1972)を少しだけ読む。
極めて読みにくい文章であった。一応日記という体を取りながら、岡山天体物理観測所での日常生活と学問的な問題がごちゃごちゃに紹介される独りよがりな内容で、1ページ目から全く頭に入ってこなかった。
ただ、岡山県の観測所を「日本で最高の気象条件を選んで建てられた天文台」と評している一文だけ目に入った。確かに瀬戸内海式気候で、夏も冬も降水量が少ない地域である。特に岡山県降水量1mm未満の日数が全国第1位で「晴れの岡山」とも呼ばれている。観測所のある岡山県の年間降水量は1,190㎜で、長野県の902mmに次いで、日本で2番目に降水量が少ない県である。
『温暖化する地球』
田中正之『温暖化する地球』(読売新聞社,1989)をパラパラと読む。
必要なところを抜書きしておきたい。
46億年の地球の歴史のうちでも、およそ6500万年前から今日に至るまでの時代は、新生代と呼ばれています。その前半はヒマラヤやアルプスの造山活動が活発に行われた時代でした。そして、新生代も末期の、今からおよそ200万年ほど前になると、しだいに氷期と間氷期が交互に訪れるようになります。
人類が地球上に生まれたのは、今からおよそ300万年ほど前のことだっといわれていますから、人類の黎明期は、氷期と間氷期のサイクル(およそ10万年ごと)が始まった時期、すなわち氷河時代の始まりと前後していることになります。(中略)(氷期の最も寒冷だったときと間氷期や後氷期の最も温暖だったとき)の差は、地球の平均気温に換算すれば、約5℃の違いと見積もられています。ほんのわずかな温度差のように感じるかもしれません。実は、氷期といっても、大きく寒冷化するのは主に中緯度や高緯度の地帯であり、赤道近くでは、氷期でも間氷期とほとんど気温の差がありません。そのため、、全地球の平均気温で比較した場合には、氷期と間氷期の違いは、5℃程度にしかならないわけです。
もっとも寒かった時期は、今からおよそ1万8000年前にあたります。(中略)北米大陸の北半分は、完全に氷床に覆われています。グリーンランドはもちろんのこと、ユーラシア大陸でも、スカンジナビア半島からタイミル半島にかけて広大な氷床がつづいています。堆積した氷の量はとほうもないものでした。氷の厚さは1000メートルを超え、中央部では、3000メートルに達していました。そのため、海面は現在よりも100メートルも低下していました。海水100メートル分の水が、氷床として、北米大陸やグリーンランドに堆積していたわけです。
ところが今から1万年ほど前になると、これらの氷は急速に解けはじめます。(中略)氷床の重みで沈んでいたスカンジナビア半島は、その重しがとれたために、その後だんだん浮上してきます。中心部はすでに300メートルほど隆起し、現在でも毎年数ミリメートルの速さで隆起しつづけています。
今から4500年前から7000年ほど前、ヒプシサーマル(温暖期)と呼ばれている時代がありました。これは、ここ1万年ぐらい続いている後氷期の中で、最も気温が高かった時代です。日本では縄文時代の前期にあたります。
この温暖期には、現在とくらべて地球の平均気温が0.5度ないし1度程度高かったことが知られています。たかだか1度程度の違いにすぎませんが、その時期には、世界各地の気候の様子が今とはかなり違っていたことが、花粉の分析などから明らかにされています。
たとえば、アフリカのサハラ砂漠は、現在ではほとんど雨の降らない不毛な土地ですが、当時はもっと湿っていて、豊かな草原があり、樹木も生え、大型の野生動物も棲息していたことが推定されています。このことは、サハラ砂漠の中に残っている先住民の遺跡などからも確かめられています。その状態は「緑のサハラ」と呼ばれています。
また、北半球の中緯度地帯の多くは、今よりももっと乾燥していたことも知られています。
『本能のなぞ』
大村裕『本能のなぞ:脳の働きはここまでわかった』(読売新聞社,1987)をパラパラと読む。
高校生の生物選択者向けの本のような内容で、平易な語り口であるが、専門用語が続く。生物学が苦手な私にとっては辛い一冊であった。
『教育で平和をつくる』
小松太郎『教育で平和をつくる:国際教育協力のしごと』(岩波書店,2006)をパラパラと読む、
上智大学で国際教育開発を研究している小松太郎は、コソボ共和国でのユネスコ教育行政官の経験から、人権教育は一人一人が持っている人権にフォーカスしなければならないと述べる。安易な民族教育や宗教教育は、逆に排他的な民族意識や宗教意識を高めるに過ぎず、多民族国家で内戦を経験したコソボでは危険な右派教育になってしまう。NGO「コソボ人権センター」で開発された教育プログラムに多数の社会科の教員が加わり、人権の主体が個人であるという考え方に基づく平和教育が社会科教員に求められると説明する。
