谷川一巳『ローカル線ひとり旅』(光文社知恵の森文庫 2014)を読む。
ちょうど、長野県の佐久平から野辺山まで、JR小海線で移動中だったので、ワクワクしながら読んだ。青春18切符の歴史や使い方、「盲腸線」とも呼ばれる起点もしくは終点のどちらかが他の路線に接続していない行き止まりの路線の味わい方、バスやフェリーも併用する電車旅の詳細のルート設定、通勤仕様のロングシートとクロスシートの違いなど、ローカル線の味わい方がこれでもかというくらい紹介されている。
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『本のひとこと』
巖谷大四『本のひとこと』(福武書店 1983)を読む。
文芸評論家で読書好きを自認する著者が、読んだ本の一節を紹介しながら、時流に物申すエッセーとなっている。印象に残った一節を孫引きしておきたい。
イエスは、姦通の現場から引き立てられてきた女を取り巻く群衆に、汝らのうち罪なき者まず石を擲て、と言うでしょ。聖書のなかの群衆はイエスの言葉に恥じて、一人去り二人去りしていって、最後にはイエスと女だけが残った、 とありますね。でも、日本でだったら、われ先にと石を擲つでしょうね。自分はなんの罪もおかしてはいない、と大部分の人が思っていますもの。罪などというものとはまったく無縁で、 いつも正義感に充ちています。
一 大原富枝「地上を旅する者」
巖谷氏は、匿名で正義面して批判する輩を揶揄しているが、40年後の現在も全く変わらない。
「他人によって傷つけられるものは、自分のエゴイズムだけだ」。この言葉に深く心を動かされてから、もう三十年以上の歳月が経った。今でもこの言葉は 私の胸の奥深くにあって、何かの時に思い返される言葉である。私自身にとっては、この言葉の真実を今も疑えない。私は自分が他人によって傷つけられたと思うとき、その傷つけられたものが、結局自分のエゴイズムに過ぎないことを、苦い思いをもって絶えず反省する。
一 谷川徹三 「わが人生観」
この一節は私も深く印象に残った。最後に中野重治の文章も紹介されていた。
せっぱつまった状態は中身がつまっている。中身のつまっていないせっぱつまった状態なんてものはどこにもない。そして中身がつまっているということ、せっぱつまっているということは、その仕事に当人が身を打ち込んでいること、全身で歩いていることにほかならない。僕の考えている素僕というのはそういう態度をさしている。
ー中野重治「素樸ということ」
『子どもの涙』
徐京植『子どもの涙:ある在日朝鮮人の読書遍歴』(柏書房 1995)をさらっと読む。
早稲田大学文学部を卒業し、法政大学や立教大学で教壇に立ってきた、文芸評論家の徐京植さんの読書体験や兄弟の話、1960年代の朝鮮人の境遇などが語られる。
中野重治についても触れられていて嬉しかった。一部を引用しておきたい。
中野重治は、魯迅を読むと「自分もまたいい人間になろう、自分もまたまっすぐな人間になろう、どうしてもなろう」「一身の利害、利己ということを振りすてて、圧迫や困難、陰謀家たちの奸計に出くわしたとしても、それを凌いでどこまでも進もう、孤立して包囲されても戦おう、という気に自然になる。そこへ行く」と書いている。
それを見てわたしは、ああ、いかにも中野重治らしいな、ほんとうにそのとおりだな、と思うのである。
また、著者は早稲田大学の学生時代に、在日韓国人サークルに入ったと述べている。かつて3号館地下にあった、あのサークルであろうか。在日朝鮮人のサークルと同じフロアーの隣にあった、あのサークルボックスであろうか。
『黒い魔女』
江戸川乱歩『黒い魔女』(ポプラ社 1970)を読む。
家にある江戸川乱歩シリーズの最後の一冊であった。怪人二十面相シリーズではないのだが、最後は、明智小五郎が敵の子分に化けて、敵のアジトに侵入するという設定で興醒めであった。
もう、江戸川乱歩の小説を読むことはないであろうが、小学生の読書体験を追体験するのは、まあ良かったのではないか。
『幽鬼の塔』
江戸川乱歩『幽鬼の塔』(ポプラ社 1973)を読む。
インチキな変装やマジックもなく、殺人事件を犯してしまった男たちの生き様を描いており、最後まで飽きることがなかった。