毎日中学生新聞編集部 編著『ニュースの言葉:日本と世界のいまがわかる』(岩波ジュニア新書,2005)をパラパラと読む。
2003年から2005年にかけて毎日中学生新聞に掲載された時事用語やニュースのミニ解説欄の説明があいうえお順でまとめられている。何とも安易な企画である。辞書的な内容なので、最初から読み進めていくのは正直きつい。ただ、パラパラと読むだけで、小泉政権やイラク戦争、新潟中越地震、映画「千と千尋の神隠し」、地上デジタル放送、おれおれ詐欺など、20年前の時代を思い返すことができた。2000年代前半、不況が連呼されていたが、当時の日本はまだまだ世界第2位の経済大国であり、日本経済の強さを政府も経済界も国民も疑わず、AIに仕事を奪われるような危機感もなかった幸せな時代であった。
「読書」カテゴリーアーカイブ
『父・KOREA』
郭早苗『父・KOREA』(長征社,1986)をパラパラと読む。
執筆当時神戸市職員であった著者が、在日韓国人であった父の死に際して、父の生涯を時代とともに振り返る伝記物語となっている。
著者の父は1916年、慶州北道で両班の家系に生まれている。両班(ヤンパン)とはもともと、高麗や李朝時代の高級官僚を指したが、時代が下るにしたがい、両班人口は増大し、本質的には、地主階級といった意味に拡大されていた。両班は「科挙」に合格し、中央官僚への道が開けていたが、官僚として中央に出る者はほんの一握りに限られていた。
1910年来、日本に支配権力は土地調査事業に名を借りて、農民から土地を収奪し、東洋拓殖株式会社など半官半民の植民地会社へ、その土地のほとんどを集中させた。その結果、全人口の8割を占める朝鮮農民の85パーセント以上は土地なしの小作民に転落した。日本人が三度三度米を食べるようになったのは、1918年の米騒動以降だが、それは植民地の産米増殖計画と時を同じくしている。1910年に土地を取り上げ、1920年代に米を取り上げ、そして1930年代には、日本の工場や炭鉱、満州開拓のための徴用工として人取り上げの時代を迎えるのである。
1930年代に朝鮮から日本に渡ってきた在日朝鮮人の大半は居住地が安定していなかった。飯場から飯場へと移動の連続で、当時の作業現場の近くに板切れやブリキの破片でつぎはぎしたバラックが、後年の朝鮮人部落となっていったのである。
特に神戸はゴム靴の一大生産地で、1930年代には輸出において世界一の座を占めるまでに発展したのである。その昔、草草履は部落民のする仕事とされ、「二束三文」という言葉も、部落民への差別語として生まれたという。ゴム靴は草履の延長ではないが、そこに従事する人々は部落民から在日朝鮮人へと代わっていったのである。労働力のべらぼうな安さが、ゴム靴の国際的な安さにつながり、神戸をしてゴム靴主要産地にせしめた由来である。
1939年には国家総動員法に基づき、国民徴用令が交付された。徴用制度は日本国内のみならず、朝鮮や中国の地でも発効し、約150万人の朝鮮人、約4万人の中国人が日本国内に強制連行され、炭鉱、金属鉱山、軍需産業、軍事施設などで過酷な労働を強いられ、総計50万人近い人々が死傷あるいは行方不明になったという。
ホルモン、牛の臓物は今でこそ肉屋に出回っているが、戦前は在日朝鮮人独自の食べ物であった。屠殺場へ行けば、只同然で手に入る牛の内臓を、貧しさゆえに口にしたのは、飯場の朝鮮人土工が最初だった。それが戦後の闇市に進出し、ホルモン焼きというものになって、飢えた日本人の食生活にも入っていったのである。
しかし、こうした安さを武器にしたケミカルシューズも1971年8月の、いわゆるドル・ショックと呼ばれる、ニクソン米大統領の金・ドル交換停止声明であった。この声明により輸出は激減し、長田のゴム靴工場街は、苦境に立った業者が続出し、右を向いても倒産、左を向いても倒産、という混乱状態に陥った。
さらに2年後、1973年10月のオイルショックに見舞われ、原材料の入手難に陥り、席巻していたアメリカ市場を韓国、台湾、香港などに譲渡されていった。
「二束三文」という言葉の由来と、その背景が神戸のケミカルシューズ産業に受け継がれているという時代の伏流がしっかりと理解することができた。
『10代のうちに考えておくこと』
香山リカ『10代のうちに考えておくこと』(岩波ジュニア新書,2005)をパラパラと読む。
精神科医の著者が10代の女子中高生を対象に、勉強や人間関係、心身の成長、社会への関心などを説く。読みやすい文章であったが、あまり関心がなかったので、半分ほどしか読まなかった。
『エネルギーと環境の疑問 Q&A 50』
笠原三紀夫『エネルギーと環境の疑問 Q&A 50:数字でなっとく本質がわかる!』(丸善株式会社,2008)をパラパラと読む。以下、確認のためにまとめおきたい。
石炭や石油といった化石資源の成因は完全に分かっていない。現在主流となっている有機成因説によれば、石炭は5.7億年〜2.5億年の古生代を中心に、陸上の植物が地中に埋もれ石炭に、また石油は2.5億年〜0.6億年の中生代を中心に、海や湖で繁殖したプランクトンや藻が水底に沈んで石油に変わったといわれている。
乾燥した空気の塊が、外部と熱のやり取りをすることなく上昇するとき、熱力学および静力学の法則に従い、100m上昇あたり0.98℃温度が下がる。この変化を「乾燥断熱減率」と呼ぶ。一方、実際の大気においては「気温減率」と呼び、±0.65℃/100mとなる。
『ゴキブリの歌』
五木寛之『ゴキブリの歌』〔五木寛之エッセイ全集 第4巻〕(講談社,1979)をパラパラと読む。
このブログで検索してみたところ、20年ほど前に、10年ぶりに読み返したとの記載があった。ということは30年前の高校生の頃にも読んでいたのだ。まだ黒電話が電話線で繋がっていたころで、電話に出たくない時は、毛布で厳重に包んで押し入れの中に入れていたというエピソードが紹介されており、印象に強く残っていた。
学歴に関する話が面白かった。国勢調査で学歴を記入する際に、大学抹籍の五木氏が高卒か大卒しか選択肢のない調査用紙を前にして、狼狽える場面がある。五木氏は次のように述べる。
私は大学卒と書きたかったわけでも、高校卒に◯をつけることに抵抗を感じたわけでもない。そして、現在、学歴がないことで差別されたり、いやな目にあったりするような仕事にたずさわっているわけでもなかった。むしろ、内心ひそかに、と言うよりも、至極おおっぴらに大学制度を批判している人間だったのである。
にもかかわらず、何となく最終学歴、高校卒、と記入することが癪な気がした。頭では学歴が人間の値打ちと全く関係がないことを承知しており、人にもそうしゃべり、文章にも書いているのに、いざ自分のこととなると何となく口惜しい感じがあるのである。素直に高卒に◯をつけず、大抹にこだわるのは、やはり一種の学歴コンプレックスのなせるわざなのだろうと思う。
