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東京新聞夕刊より

本日の東京新聞の夕刊に便所の落書き的なコラムが掲載された。意味がとりにくいので全文引用してみたい。

小泉首相の平壌訪問で幕を開けた歴史的な9月17日は、拉致被害者たちの家族にとって新たな怒りと悲しみの日となった。わが子や兄弟の無事を固く信じる家族に北朝鮮赤十字の一枚の紙片がむごい消息を伝えたのである。本紙18日朝刊はこれへの、在日二世でノンフィクション作家金賛汀の言説を載せていた。「結果は悲惨で言葉もないが、植民地時代に強制連行されて亡くなった人、行方不明の人が大勢いる。この過去も併せて考えてもらい、今後二度とこんなことがないよう、正常化のための話し合いを続けてほしい」と。どちらも理不尽なことだが、植民地時代の強制連行と今日の拉致事件の相殺を図るかのようなこの時代錯誤の言説に、説得力があるのだろうか。あの時代の朝鮮は主権を喪失していた。北朝鮮が主権を持ったのは戦後のことであり、そこにあの時代との大きな違いがある。日本人の拉致事件は戦後の主権国家北朝鮮が日本の国家主権を一方的に侵害した日本国民への犯罪行為である。その事実を認めるから金正日氏は謝罪したのではなかったのか。「今後二度とこんなことがないよう」にすべきは北朝鮮である事実を、曖昧にすることは許されない。(怒)

この手の意見は何度も耳にしたものであるが、このような意見が堂々とペンネームで載ってしまう東京新聞社の民度の浅さを痛感した。戦前の朝鮮の主権の喪失という口実は、1910年の日帝による植民地化の過程を明らかにすることですぐに破たんする。また当時の日本の軍隊による強制連行がいかにむごいものであったのか、少しでも勉強すれば上記のような言説は出てこないはずである。このような「時代錯誤」な意見に私たちは何をなすべきなのか。

東京新聞の記事より

短い夏休みが終わった。一昨日一泊二日で福島の方へツーリングに出掛けた。今週に入り夏の猛暑がぶり返したようで、真っ赤に腕が灼けた。おそらく明日から多忙の日々ぶ振り回され、本も読めなくなるので、この雑記の更新もまた滞りがちになるであろう。ここ最近心に去来することを思い付くままに述べてみたい。

まず、先月8月28日付けの東京新聞「五輪はオールスターで」という記事の中に、アテネ五輪強化本部長である長島茂雄氏の、全日本野球会議席上でのコメントが載っていた。
その席で長島氏は「国民が期待するところは、アテネの空で日の丸が見たいということ」と語り、五輪予選直前合宿について「ナショナリズムも浸透させていかなければいけない」と話したという。かつて「社会党が政権をとったら野球が出来ない」と語った長島氏だけに、この発言は少し危険な感じがする。サッカーワールドカップ以上に露骨な形でナショナリズムの高揚が企図されるのではないだろうか。

もう一つ野球の話題というと、大リーグのストライキの件である。日本のマスコミの大部分が経営陣側に汲みしており、イチローや野茂の活躍が見れないストライキなどもっての他だという意見がほとんどである。しかし大リーグ選手会のホームページを見るに、野球を通じた社会貢献活動といった地道な運動も行われているのに、日本での報道では大リーグ選手会は金持ちが集まった強欲な団体というレッテル張りがなされてしまっている。おそらく放映権などの問題も根底に絡んでいるのであろう。

本日の東京新聞に興味あるコラムが載った。武蔵野美術大学教授である柏木博氏の吉見俊哉編著『一九三〇年代のメディアと身体』(青弓社)を紹介したコラムを引用してみたい。

戦後、三〇年代論は、繰り返し行われてきた。日本の近代の近代性がどのようにはじまり、また、どのように屈折し問題を抱えていたのかを捉えるには、どうやら三〇年代に目を向けなければならないからだ。(中略)現在、再び三〇年代を問うとすれば、今日のシステム社会が、すでに三〇年代に準備されていたことを検討する必要がある。あらゆる意味において、経済的効率を優先するシステム社会は、確かに総力戦のシステムから屈折しながら連続していく。歴史の再検討は、つねに、新たな出来事の出現によって過去の意味を読み直す作業の連続である。

鶴見俊輔や吉本隆明らの「転向」論を多角的に現代的に捉えようとする作業は、現代日本において最も問われてくることであろう。私自身そのような目標をもって卒論を書き、高校教員になったのであるが、全く出来ていない。自分なりのペースとフィールドで上記の作業を行って行きたいと思ってみたりする今日このごろである。

「豊かな人間性」

「豊かな人間性」という題目を与えられて、私はすぐに「感情豊かな心優しい人間」といった金八先生や灰谷健次郎的な暖かい世界を思い浮かべてしまう。おそらく日本人の大半が私と同じようなイメージを想起するであろう。しかし現在求められる読書教育はそのような固定化されたイメージを脱却し、壊していくようなもっと根源的なものである。

東京新聞2002年8月17日の夕刊に掲載されたコラム「玉手箱」の一文を紹介したい。

W杯サッカーで全日本を率いたトルシエ監督が面白い日本論を語っていた。『道路を日本人が横断しようとするとき、車が全く来なくても信号が赤だとだれも渡ろうとしない。こんな精神構造では真の国際化はできないし、サッカーも世界の頂点に立つのは難しい』」「日本人はなぜか法律の前で思考を停止する。赤だと止まり、青だと進む。赤で渡るのは“みんなで渡る”時だけ。」「江戸時代から日本は「子曰(のたまわ)く」の暗記教育が全盛で、戦後も自分の頭で考える教育がなおざりにされてきた。自分の行動は自分で考えたい。(史)

日本人の詰め込み教育を批判したありきたりな文章であるが、私はここに求められる読書教育の原点があると考える。真の「豊かな人間性」とは暗記に強いことでも、計算に強いことでもない。あくまで多様な社会の中で、自ら情報を取捨選択し、自ら判断し、自ら行動することである。戦後の学校教育は長い間、行き過ぎた検定教科書等によって「厳選」された情報のみを生徒に与え、チャート式の授業によって「正しい判断」を教員が与え、進路指導や生徒指導においては「あるべき生徒像」が象徴的に示された。しかしこのように過保護に生徒を育てること自体が破綻を来したのだ。コピー機や携帯電話、パソコン等情報を得るツールは20年前と比べてもはるかに充実してきた。しかし一方で情報の過多が主体的判断の欠如を生み出していることはマクルーハン等の社会学の分野で分析されている。

90年代にオウム真理教事件が世間を騒がせたが、これをオウム真理教固有の事件と見るならば、単なるカルト集団の問題に片付けられてしまう。しかしなぜ多くの若者がオウム真理教に入ってしまったのかと社会的な視点で眺めてみると、そこには正答にただうなずくだけの詰め込みの教育の弊害が見て取れるだろう。自ら考え判断するという人間として当然の主体性が欠けてしまっているのだ。

私達はこれまで読書というと文章理解、小説の味読といった国語教育の一環としてしか捉えてこなかった。つまりこれまでの学校教育の中で補助的、補完的なものと位置付けてきた。しかし、クラッシェンの「自由読書」にも展開されているように、読書はテレビ以上に作文の能力を向上させ、作文は深い思索と問題解決能力を増進させることが調査の上でも明らかなった。今後の読書教育は授業の補完としてではなく、人間の主体的判断力や行動力を育てる第一義的なものとして実践していく必要がある。

自民党議員 野中広務

本日の東京新聞の特集で自民党議員野中広務の戦争に関するインタビュー記事が載っていた。最近は小泉首相の郵政改革に対する牽制役といったイメージでしか報道されないが、自民党内護憲派としてなかなかまっとうなことをいうと思った。少し長いが引用し紹介したい。

戦後日本が平和と民主主義得たというのは非常に大きかった。しかし、それが本当に健全にその道をたどってくることができたのかどうか常に考えていかなくてはならない。過去をおろそかにすれば未来はないのだと常に思いながら。戦争を知らない人にしたら「年取った人間が何をいつまでも過去をひきずっているのか」という気持ちもあるかと思う。しかし、多くの有能な人材があの戦争で亡くなったという過去を風化させてはならない。そのために私はかたくなだと言われても、頑固に生きていく。時にはブレーキを踏む勇気を失ってはならないという使命感のようなものを持っている。

日中関係でいろいろ言う人はいるが、わが国は中国本土に軍を進めたわけですよ。そのことを厳粛に考えて過去の歴史に忠実であってもらわないと。今の風潮は、自衛隊が海外に出ていかないことが自衛隊としての責任をまっとうできないような風潮があることを、私は恐いと思う。その意味で自衛隊が他国に軍事力を行使しないことが、むしろ自衛隊としての最高の誉れであると思ってほしい。

家族に思いを残しながら戦争に行った者と戦争を計画した者はきちっと仕分けされるべきだと思う。昭和53年にA級戦犯を祭って以来、昭和天皇はお参りになっていないとか。そういうことなどを考えると靖国の持つ問題とは、戦争に敗れた後に総括されていないことにつながる。A級戦犯が合祀されたことで戦争責任をあいまいにしてしまった。やはり大変な戦争の責任をきちっとしておくことは必要だと思う。そうでないとこのまま不幸な議論を引き継いでいくことになってしまうという切羽詰まった気持ちが私にはある。

われわれの少年時代は「欲しがりません勝つまでは」と、貧困に耐え、戦争遂行のためにすべてを犠牲にしてきた。今、われわれは衣食住はどうにか確保されている。やはり過去の中から今日があるということをよく考え、過去をおろそかにしないで将来に目を向けてほしいと痛切に思う.繰り返し言うが、過去に目をふさいだらいけない。

ちょうどドイツのヴァイツゼッカー大統領が言った言葉を思い出させる。彼自身の政治活動についてこれまで注目してこなかったが、彼のいう「切羽詰まった気持ち」がどのような行動につながっていくのか期待したい。

フセイン大統領のテレビ演説

本日の東京新聞で紹介されていた、フセイン大統領のテレビ演説の一言が、「前後の文脈は抜きにすると」正論を貫いていて格好良かった。
イラン・イラク戦争終結記念日における演説で、彼は次の言葉で米国の姿勢を警告したそうだ。ただ、原文を探したが見つからないので、正確な意図は不明である。

脅しで民衆を奴隷にしたがるごう慢な乱暴者が、自分の国の人々の平穏を望んでいるのなら、国際法に基づいた対等な対話によって他の国の人々を尊重しなければならない

話は変わるが、ここ数年のフセイン大統領による対アメリカ外交政策はかなりの部分でうまくいっていると思う。あれほどの侵略戦争を仕掛けておきながら、今回もアラブやヨーロッパの支持を十分に取り付けている。今後何度も国際政治の舞台に出てくる政治家であろう。残念なのは、日本におけるサダムフセイン像があまりにアメリカ寄りの「悪の大将軍」というイメージに固定化されていることだ。別にサダムフセインをかばうつもりはないが、ステレオタイプなイラクの国家像から早く脱しないと、中東を見る判断力を誤るであろう。