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『時代を読む』

本日の東京新聞朝刊に掲載されていた、内山節氏のコラム『時代を読む』を写経ならぬ「打経」してみたい。

 今日の私たちの気持ちのなかに、ひとつの根源的な不安がひろがってきているような気がする。それは近代以降つくりだしたさまざまなものが、持続性を失いはじめているのではないか、という不安である。
現在のような経済活動や生活をつづけていれば、環境や資源問題をとおして、いつかは世界は破綻していくだろうという予感は、いまでは多くの人々のなかにひろがっている。はたして持続可能なのだろうか。現在の年金制度は持続可能な制度になっているのか。
さらに最近では次のようなことも、検証しなければならなくなってきた。たとえば液晶テレビや半導体などの分野では、大量生産体制を確立し市場では大きなシェアを獲得しても、利益が上がらない構造が慢性化している。これは一過性のものなのか、それとも、大量生産によって市場支配権を確立していくという経営モデルが、安定的に持続する経営モデルではなくなりはじめたことを意味しているのだ。
このように考えていくと、今日とは、これまでの経済、社会、政治、さらには私たちの生活のあり方までが、将来への持続性や継続性を失いはじめている時代のように思えてくる。いまでは若者の四割近くに及ぶ非正規雇用の人々は、自分の労働が持続性をもっているとは考えていないだろう。そして持続性を信頼できなくなった社会では、不安や動揺、頽廃がひろがっていくことになるだろう。
今日の人間たちは、持続する仕組みをつくりなおさなければいけないという、大きな課題を背負っている。
ところでかつての社会においては、持続は何によって保障されると考えられてきたのであろうか。それは信用とか信頼といわれるものによってであった。たとえば農民は、自然や地域社会との間に信頼関係が築けるとき、持続する農家でありつづけることができると考えてきたし、街の商人や職人、手工業者たちも、客や同業者、地域の人々の信用を高めていくことが、自分たちの仕事に持続性をもたせる基盤だと考えてきた。
日本の資本主義はこの精神を受け継いできた。だから終身雇用制によって経営者と労働者の信頼関係を築こうとしたし、信用される仕事、信用される製品づくりというようなことが、たえず語られながら展開してきた。
もうひとつ大事なことがあった。それは継続のためには、社会変化に柔軟に対応する自己修正能力をもつ、ということである。「持続する」とは「変わらない」ということではなく、必要とあれば変えていく力を内部にもっているということである。
そんな目で今日の時代を見ると、どのように映るだろうか。経済では、長期的な信用よりも短期的な利益をめざす経営がグローバル化の名のもとに世界にひろがった。政治も社会も私たちの暮らしも、自己修正能力を失って、方向性をみいだせずにいるような気がする。失業者を農業や介護にまわせばよいといった、数合わせだけの論理が堂々と語られたりするのも、自分たちの社会を根本的に修正しようとする意志が失われているからであろう。新しく農業や介護につく人とともに、どのような持続する社会や暮らしをつくっていくのか、そのためには何を変えていったらよいのかという視点が、ここにはない。
私たちは現在、持続する働き方や、持続する社会、暮らしをみつけ直さなければいけない時代を迎えている。

はたして、内山氏は「持続する社会」の理想をどの時代に求めているのだろうか。彼自身群馬県上野村に生活の拠点を置いており、農山村的な生活を暮らしを基準に置いているのだろうか。それとも江戸時代の社会を想定しているのか。20世紀的な高度経済成長をモデルとしているのか。この文章からは判然としないが、現在の社会の問題点はうまく整理されている。

本日の東京新聞夕刊

本日の東京新聞夕刊連載の匿名コラム「大波小波」の文章が印象に残った。

 飲んで脱いで騒いで、がもしアイドルでなく作家だったら、捕まって晒されて家捜しされて、とまではいかなかったかもしれない。そもそもの注目度が違うから、ということはあるかもしれないが、しかし、かつて作家はアイドルだった。志賀直哉など有名作家は、新聞にその日一日の行動が載せられていたのだ。だが、彼らが酒癖程度でこれほど批判されたことはないだろう。童話作家のくせに飲めば暴れていたという鈴木三重吉もほほえましい伝説となっている。となれば、何が変わってきたのか。
酒飲みの蛮行を擁護するつもりはない。しかし、蛮行とは何か問うことはできるし、問わねばならない。酒にせよタバコにせよルールは日々厳しくなる一方だが、それはモラルとはなんの関係もない。ルールはこれっぽっちも内面化されず、ただ外側から互いに監視しわれわれを縛る。それはむしろモラルの衰退だ。
かつて作家が作品内だけでも実生活でもルールを破ったのは、スキャンダルを売り物にする芸能人とは違い、モラルを揺るがせ、その本質を問うためだった。とすると今、作家のスキャンダルがあまり話題にならないのは、よいことばかりでなく、モラルというもの全体にとってゆゆしき事態なのかもしれない。

2500年前の中国で展開された、諸子百家の文章を読んでいるような錯覚を覚える。「モラル」を孔子の徳治思想の要である「徳」に、「ルール」を荀子が唱えた法治思想の中心である「礼」に置き換えれば、そのまま論語の世界である。人間とは同じことを延々と繰り返し議論するのが好きな動物なのか。
人気アイドルアイドルグループのメンバーの一人が深酒し、深夜一人で自宅近くの公園で、裸で騒いだだけで逮捕されるという椿事が、マスコミを賑わせたが、これまたおかしな話である。

本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」とする長距離弾道ミサイル問題について、アジアプレスの石丸次郎氏のインタビュー記事が掲載されていた。
その中で、石丸氏は北朝鮮自身の問題よりも、それに「悪乗り」しすぎる日本政府の対応と過熱報道を批判している。国内に落下物があればMDで迎撃するため日本海にイージス護衛艦、東北地方に地対空迎撃ミサイルを配備した日本政府に対しては次のように述べる。

ミサイル発射は国連決議に抵触するし、自国上空の通過に抵抗を感じることは理解できる。だが、北朝鮮の挑発的な言動に対する反応はあまりに過剰だ。道を歩いていて交通事故に遭う確率よりはるかに低い(とされる日本に落下する危険性を強調するのは)有効性に疑問のあるMDの宣伝や、選挙を意識した政治的意図があるのでは、と思わざるをえない。

そして過熱報道については次のように批判を展開している。

弱体化が進む北朝鮮軍の実態や、戦争どころではない経済の困窮ぶりを伝えるべきなのに、北朝鮮の脅威をあおるような報道は、国民をミスリードする危険性があり罪深い。
北朝鮮に問題が多いのは事実。大切なのは、その隣国とどう向き合うのかというビジョンだ。安倍政権以来、短命政権が続き、まともな対北朝鮮政策は立てられていない。さらに選挙が近づくと人気取りのために強硬姿勢を装いがち。今回も政府は北朝鮮の脅威をあおってパフォーマンスをしているようにみえる。

石丸氏の批判は正鵠を得ているように思う。反日感情を露わにした金正日がミサイルを発射するという「分かりやすい」危機に対して、「予定通り」日米軍事共同作戦のもとMDシステムが展開されているのが今回の問題である。しかし、これは10年ほど前の日米ガイドラインによる危機管理体制で想定された事態そのままである。不気味なくらい筋書き通りの展開である。石丸氏の指摘するとおり、政権を苦しめるための経済制裁や人的交流こそが求められるべき施策である。

本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、森林ボランティアのあり方について、森づくりフォーラムの代表理事を務める哲学者の内山節さんへのインタビュー記事が掲載されていた。内山氏は群馬県上野村で実際に生活する中で人間にとって住みよい環境、コミュニティのあり方を提唱している生きた哲学者である。この記事の中で内山氏は次のように述べている。

森林の仕事は、木の切り方にしてもマニュアルはあるが、木の一本一本、曲がり具合などを見て、どう倒れるか、判断して切らなくてはいけない。さらに下の地形も考える必要がある。判断を間違えると倒れる木の下敷きになりかねない。思った以上に考える余地が大きい。また、体で覚えることも大事だ。会社のオフィスワークではあまりなかった体の感覚で仕事をする。それは人間性の回復にとても重要なことと思う。
(中略)
少し抽象的だが、森の時間で責任を持てるかどうか。木の生育を考えれば、50年、100年単位で考えなければいけない。森を守る仕事を次の世代に引き継いでいく。幸い、若い世代の森林ボランティアグループも増えてきている。世代の異なるグループが協力して一つの森を守る活動もあっていい。もう一つは、『森の荒廃』といっても、参加者の意識も多様化している。森に生物種の多様性を求める人もいれば、水源涵養や環境保全、林業的価値を求める人もいる。これからの森をどうつくっていくか、皆で考えていくべき課題だ。

「パパでなくちゃ!」

昨日の東京新聞の朝刊に、チャイルド・ファミリーコンサルタントの山本直美さんの「パパでなくちゃ!」と題した小さいコラムが掲載されていた。中身の薄い文章なのだが、仕事に忙殺される日々を過ごしている自分にとって、はっとする文章であった。紹介したい。

このコラムもこれが最終回。最後は「どうしてもこれだけは!」ということをお伝えしようと思います。それは「今このひとときを大切にしてください」ということ。
お子さんと過ごす時間は永遠ではないことを、どうか、忘れないでください。子どもたちが身近にいて、一緒に泣いたり笑ったりできる時間は本当に短くて、けれどそのただ中にいると、当たり前すぎて幸せに慣れてしまう。けれどいずれ離れることを忘れずに、この貴重な時間を精いっぱい楽しんでほしいのです。
子どもたちと共有できるひとときは本当に幸せでいとおしい「宝物」です。また、子どもたちは大人をも成長させてくれます。どうかどうか、いつも心に留めておいてくださいね。
みなさんが1日1日を大切に過ごされ、たくさんの宝物をつくられることを願ってやみません。