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「珍企画に書店も注目」

本日の東京新聞夕刊に、「マニアック本」編集者として知られる、社会評論社の濱崎誉史朗氏の紹介コラムが掲載されていた。
濱崎氏は、自らを「珍書プロデューサー」と名乗っており、これまで『エロ語呂世界史年号』『いんちきおもちゃ大図鑑』などの奇妙な本をを世に送り出している。濱崎氏は、社員数4人の小規模な出版の強みだとも語る。

社会評論社というと、学生時代にお世話になった会社であるが、社員数が4人とは知らなかった。ホームページを見ると、実に多彩な本を刊行していることが分かる。本離れの現在、ネットに負けない本をどんどんと送り出してほしい。

社会評論社 濱崎誉史朗公式サイト ハマザキカク

「ギャップイヤーは日本には不向き」

本日の東京新聞夕刊の文化欄に、早稲田大学教授の石原千秋氏の「ギャップイヤーは日本には不向き」と題したコラムが掲載されていた。

東京大学主導で検討され始めた秋入学は、入学前と卒業後の半年の2回を基本としている。つまり大学は4年制から実質5年制になるのである。この前後合わせて1年間ものギャップイヤーを謳歌できる経済的なゆとりのある学生は、保護者の収入が全国で一番高い東大などの一部の大学に限られてしまう。また石原氏は、「この大学、この学部でよかったのか」と、自分探しを始める若者が多く出ると予想する。悩むこと自体は悪くないが、出直しのためにさらに一年間を空費しなければならず、やり直しの機会を逆に遠ざけるシステムだと指摘する。また、学費収入がない期間を設けることで、体力のない私立大学は淘汰され、有力大学を選別する機能を果たすことになると述べる。

石原氏は、こうした様々な事態を避けるためには、莫大な費用をかけてでも、幼稚園から大学院、さらには企業の秋採用まで含めて、国家規模で一気に秋入学を導入するしかない、それが日本に見合ったやり方であると結論づける。

確かに、東大を頂点として序列化された日本の公教育においては、ゆとり教育が「東大教育学部ー文科省・中教審」の連携から実施されたように、東大主導でしか変わらないという現実がある。しかし、入学後すぐに学校生活を中断してしまうゴールデンウイークや、ここ数年の酷暑を考えると、9月入学7月卒業というのは日本の教育にすぐ馴染んでしまう気がする。

石原氏は「国家規模で一気に導入するしかない」と皮肉るが、教育関連の法規の改定も絡んでくるので、やはり国家事業として導入するしかないだろう。

秋入学に対する一番の抵抗者は、卒業式、入学式を彩る出会いと別れの象徴である桜に思いを寄せる日本人の感性となるかもしれない。

「古い物 ねじ伏せる力を」

本日の東京新聞夕刊に、芥川賞選考委員を辞任した作家黒井千次氏のインタビュー記事が掲載されていた。
黒井氏は芥川賞について次のように述べる。

芥川賞の場合、選考する側は年齢やキャリアが候補者よりも上で、どちらかといえば古い世界の人が多い。新しい物を新しくない人が選ぶ。そこが面白いと僕は思う。新しい物を新しい人が選ぶのとは違い、新しい物が古い考えなり存在なりをねじ伏せて出てくるわけです。それこそが本当の力ある新しさだと思う。

また、候補作を読んで「どこに身を置いて書いているのか鮮明ではない」と感じることも多くなり、次のように述べている。

主人公が一人暮らしでアルバイトをするような緩い生活環境が描かれた作品が多い。そこで何かのっぴきならないことが起こるわけではない。職場でも家庭でもいいが、生活の場がその人にとって大事なものとしか描かれていない。物足りないなと感じることが増えました。社会が緩く「ニート化」しているせいでしょうか。

確かに、ここ最近の芥川賞を読んでみると、国家や社会、生死の境、人間存在はほとんど描かれない。表現されるのは、「半径5メートル」の生活の中の違和感だらけである。そしてその違和感を突き詰め、純度高く描く作品のみが称されている気がする。

「原発と基地の欺瞞」

本日の東京新聞朝刊に、東京大学大学院教授の高橋哲哉氏のインタビュー記事が大きくとりあげられていた。高橋氏の専門は西洋哲学であるが、福島と沖縄、ともに「犠牲のシステム」に組み込まれていると述べる。高橋氏は靖国神社について次のように述べる。

宗教では犠牲という観念が非常に大きい。神への供え物として動物、場合によっては人間の肉体がささげられた。宗教が社会から退いた後も、国家が国民に犠牲を要求する。日本の場合、靖国(神社)がその典型だった。

そして、敗戦後も犠牲のシステムは変わらず、その象徴が沖縄だった。そして、今回、その犠牲のシステムは沖縄だけでなく、原発推進政策の構造にまで及んでいることが白日の下にさらされた。

原発は、経済分野における犠牲のシステムだ。沖縄の米軍基地は沖縄県民が誘致して存在しているわけではない。福祉などの原発立地地域は一応、地元が誘致する形を取っている。この違いを無視することはできないが、類似した犠牲のシステムが見て取れる。

高橋氏は、犠牲のシステムを次のように定義する。

ある者たちの利益が、他の者たちの生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望など)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしに生み出されないし、維持されない。この犠牲は通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業など)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。

では、福島事故の責任を負うべき「犠牲にする者」は誰なのか。高橋氏は次のように述べる。

一義的な責任は原子力ムラの人たちにある。中央の政治家と官僚、東電、学者たちだ。なかでも最大の責任は東電の幹部にあるでしょう。この人たちの責任が追求されていない。

原発推進の責任を問われるべき人が事故後、(政府の審議会などで)問う側になっている。原発の安全性を宣伝してきた人たちは、身を引くべきだ。

原発にはさまざまな人々が関わってきた。原発の電力を享受してきた都市部の人間も、犠牲にする側に立ってきた。避難している福島の人たちの一部も、経済的な苦境を脱するためとはいえ、原発を誘致した責任がある。県レベルで原発を推進してきた知事や原発周辺自治体の首長、議員の責任も否定できない。

犠牲には何らかの補償が伴うが、高橋氏は次のようにまとめる。

旧日本軍の犠牲者は、靖国神社に英霊として祭られ、遺族年金などで経済的に慰謝された。沖縄や福島では、理念的には『安全保障・国のエネルギーに貢献している』と思わされ、経済的には、交付金・補助金による利益誘導が行われた。この構造は靖国と変わらない。

そして最後に次のように述べる。

沖縄も福島も国民的規模で可視化された。もはや『自分は知らなかった』では済まされない。犠牲のシステムを維持するのであれば、だれが犠牲を負うのかをはっきり言わなければ無責任だ。だれかに犠牲を押しつけ、自分たちだけが利益を享受するのか。それができない以上、原発と米軍基地自体を見直すしかない。

上手く糊塗されてしまう「犠牲」というシステムは、「お客のため」「市民のため」「家族のため」というお題目で、日本社会の隅々まで蔓延している。そうした構造まで明らかにした上で、問題を見ていくことが必要である。

生活保護 150万世帯に

本日の東京新聞夕刊に、厚生労働省が全国で生活保護を受給している世帯が150万2320世帯が過去最多を更新したと発表したとの記事が掲載されていた。昨年7月時点で60年ぶりに最多を更新して以来、受給世帯・人数ともに増加が続いている。
世帯類型別の内訳では、最も多いのが「高齢者世帯」63万5367世帯、続いて「傷病者世帯」32万1712世帯、次いで、働ける年齢層を含む「その他世帯」が25万4841世帯だった。

この統計の中には、働いているにも関わらず生活保護支給水準よりも低い生活を強いられているワーキングプアは含まれていないので、潜在的な貧困層はかなり多いと思われる。国内の総世帯数が5000万弱なので、生活保護だけで約3%、生活保護水準の貧困層を含めれば凡そ5%は苦しい生活を強いられていることになる。生活保護が最低限度生活の保障という側面を考えると、市町村にはよりフレキシブルな対応が求められるであろう。

一方、本日の東京新聞朝刊には、「防げ貧困の連鎖・下」と題して、埼玉県の生活保護世帯の支援事業現場の記事が掲載されていた。埼玉県では生活保護受給者を支援する「アスポート事業」が昨年9月より実施されている。この「アスポート事業」とは、「職業訓練支援員」「住宅ソーシャルワーカー」「教育支援員」の3事業からなっている。このうち「教育支援員」は塾に通えない生活保護世帯の中学生を対象とした大学生などのボランティア事業である。
「職業訓練支援員」事業において、県内4カ所に事務所が置かれ、昨年11月末時点で、575人が介護や清掃、パソコン操作などの就職訓練につながり、613人の就労が決定し、81人が生活保護から自立してる。

「アスポート川口」で職業訓練支援事業員を務める高橋氏は、仕事を失い自信を失っている人の心を開き、生活環境を整え、悩みや働けなくなっている理由をともに考え、自信を回復することが大切だと述べる。

こうした中学校の担任の先生のような地道な支援が、生活保護からの脱却には必要である。生活保護の量的な拡充は必要であるが、一方で、生活保護に陥らない、生活保護から自立する働きかけの二つの歯車が、地方行政の施策のレベルでかみ合っていくことが大切である。一方を国に丸抱えだったり、一方を民間に丸投げしたりでは、いつまでも無責任行政が罷り通ってしまう。