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核燃料再処理工場審査申請

本日の東京新聞夕刊に、青森県六ヶ所村に建設中の使用済み核燃料再処理工場の完成に向けて、日本原燃が基準を満たしているかを原子力規制委員会に申請したとの記事が掲載されていた。原燃は、冷却用の消防ポンプや放射性物質を吸着するフィルターなどを配備し、耐震設計上考慮する揺れを450ガルから600ガルに引き上げて、「世界一安全なサイクル施設」と喧伝する。
しかし、地震大国日本でどうして原発稼働ありきの再処理工場建設を押し進めるのかという疑念はどうしても拭えない。

また、原燃のホームページに2013年12月17日付朝日新聞「核燃料サイクルを考える~日本の選択はどうあるべきか」についての反論が掲載されていた。

1.プルトニウムの厳格な管理について
六ヶ所再処理工場では、設計段階や建設段階からIAEA(国際原子力機関)の確認を受け、現在では、国およびIAEAの査察官が24時間体制で常駐して、六ヶ所再処理工場内のプルトニウムが核兵器等へ転用されることがないことを確認していただいています。

2.再処理による利用目的のない余剰プルトニウム増加の可能性について
利用目的のない余剰プルトニウムが発生することがないよう、また、準国産エネルギーとして利用するために、今後ともプルサーマルは国と電気事業者が立地地域の皆さまのご理解を賜りながら進めていくものと考えています。
本年3月26日の原子力委員会定例会では、電気事業連合会から発電所再稼働時期の見通し等を踏まえながら再処理工場で新たなプルトニウムの回収が開始されるまでにはプルトニウム利用計画を策定・公表することを報告し、確認されています。したがって、利用目的のないプルトニウムが増加するということにはあたりません。
(以下略)

日本原燃はもっともらしいことを言うが、しかし、「特定秘密保護法」が成立した現在、プルトニウムこそ軍事技術そのものであり、再処理工場で取り出されるプルトニウムの行方について国民は永遠に知ることがないのである。子どもでも分かる笑い話である。

「にじむ『戦争肯定』思想」

本日の東京新聞朝刊に、昨日の安倍首相の靖国参拝について、高橋哲哉東大大学院教授のコメントが寄せられていた。
昨日の夕刊を読みながら、中国や韓国、米国の反発の前に、これは第一義的には国内問題だと感じた。A級戦犯が合祀されている靖国に参拝するという戦争責任と、政教分離が明記されている憲法違反の2つの問題が重複している。そして確信犯的に参拝した安倍総理の人柄は衆院選挙前から分かっていた話である。そして彼を選んだのは、紛れもない日本国民である。高橋氏がその点を分かりやすく解説している。
高橋哲哉さんにすぐにコメントを求めるところは、さすが東京新聞と頷いてしまう。全文を引用してみたい。

国に動員された戦没者を英霊としてまつり、戦死の悲しみを喜びに転換する「感情の錬金術」を生み出すのが靖国思想だ。
安倍首相は集団的自衛権の行使を容認し、憲法改正を目指しているが、もしそれが実現して、海外で国防軍が武力行使し、戦死者が出たときには、また、国のための尊い犠牲だった、尊崇しようという考え方になりかねない。そうした靖国思想を復活させようと参拝したのなら大きな問題だ。
中国や韓国に説明しても、理解は得られない。両国からすれば、自国に侵略してきた軍隊を戦没者としてまつり、戦争を正当化しているのが靖国神社だ。異なる歴史観や信仰を持つ人、韓国の遺族たちは靖国神社への合祀を屈辱だとして取り消しを求めてきたが、靖国神社は拒否している。こういう神社に首相が参拝するということ自体が問題だ。
首相の靖国神社参拝は憲法が定める政教分離に反する疑いがある。軍国主義を支えた神道を国家から切り離すために政教分離を導入した。この原則が骨抜きにされる恐れがある。
安倍首相は参拝で不戦を誓っているが、靖国神社で誓う必然性はない。日本軍による戦争を反省できない施設で不戦を誓うのは矛盾だ。
安倍政権は支持率が高く、おごりがあるのではないか。事前に公約に掲げてなかった特定秘密保護法を強行採決したことと、唐突な参拝には通じるものがある。「静かにやろうやということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。あの手口を学んだらどうか」と言った麻生太郎副総理のナチス発言とも似ている。

戦争は大きらい

本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」の文章を引用してみたい。ちょうど小林よしのり『「個と公」論』という本を読んでおり、ふと目が止まった。「公(奉仕)」を賛美し「私(わがまま)」を押さえつけてきた過去の「戦争」によって日本人の美徳が醸成されたと述べた小林氏の『戦争論』への批判に対して、小林氏が誌上で反論を加えるという内容である。読めば読むほど小林氏の弄言に頭を傾げてしまうのだが、コラムの後半はそうした小林氏に対する批判ともなっている。

本年の正月の本欄に「今年はデモクラシー再考の年である」という文章が載った。その通りの展開だったというほかない。概算で全有権者の四分の一の票を得たにすぎない自公が秘密保護法案を強行採決で通したからだ。両院とも「違憲(状態)」と裁かれている国会がこんな暴挙に出られること自体、日本のデモクラシーが名ばかりの制度になっていることの証明だ。政府(お上)のいうことを国民(平民)は黙って聞けといのが本音なのだ。
そして今度は、これまでに三度も廃案になった共謀罪法案が浮上した。その先に狙われているのは改憲であり、「戦争放棄」の放棄だろう。国際情勢を読む目も、粘り強く交渉する政治力もない自民党幹部たちは、愛国心による戦争をカッコいいと美化する小児病に罹っているようだ。
そんな世相の中で多くの人に読んでもらいたい本が出た。やなせたかしの『ぼくは戦争は大きらい』(小学館)である。やなせは中国で戦争を経験したが、その実態はじつにカッコ悪い。そこから付和雷同の戦争賛成でもなく、観念的な反戦でもなく、受動的な厭戦でもない、「戦争は大きらい」という強い意志が生まれてくる。戦争を生きた人のリアリズムである。

『時をかける少女』

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地上波で放映された、大林宣彦監督、原田知世主演『時をかける少女』(1983 東映)を観た。
今少し手直しして上映しても違和感を感じないような作品であった。細田守監督のアニメ版の映画の方を先に観てしまっていたのだが、これはこれで楽しむことができた。現在では粗さの目立つ合成映像や白黒効果が、尾道のいかにも昭和ノスタルジーに溢れた風景とマッチしており、大林監督の編集の妙が全編にわたって光っていた。

ちょうど私が小学校4、5年生くらいの映画である。公開当時はダビングやライン入力による録音ができるラジカセが流行っており、ラジカセを抱えた原田知世さんの広告は子ども心にも魅力的であった。

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現代民主主義版「刀狩り」

本日の東京新聞朝刊は一面から社説、政治面、社会面に至るまですべて秘密保護法案に対する懸念の記事であった。
一面コラムの「筆洗」の内容も然ることながら展開も秀逸であったので、じっくりと一言一句噛み締めながら引用してみたい。

「分」という字の中には、「刀」がある。八の字を左右に切り分けるから、分ける。そして「分ける」という言葉から「分かる」も派生したという。
確かに、分けることは、分かることの始まりだ。植物と動物、蝶と鳥、星と月…。そのものの形と質の違いを見極めて、分類を重ねることで、人間は自然への理解を深めてきた。
逆に言えば、きちんと分けられないということは、分かっていないということだ。デモをテロと同一視した自民党の幹事長は、恐らく分かっていないのだろう。民主主義における自由の本質と、それを脅かす恐怖との違いが。
いや、一政治家の問題ではない。特定秘密保護法案は、テロを〈政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要…〉する行為だとする。漠としたこの定義で、何がテロかを区別できるのか。これならば、デモをテロと呼ぶことすらできるのではないだろうか。
そもそも、どの情報が守るべき秘密かを分ける物差しの形すら曖昧模糊として、国民には分からない。国を動かす情報を切り分ける力を持つのは、閣僚と官僚だけ。民主主義とは、刀の代わりに言論を戦わせる制度だが、正確な情報がなくては、分別の刀もふるいようがない。
要するに、秘密保護法とは、政府に都合の悪い言論を封じるための、現代民主主義版「刀狩り」のようなものではないのか。

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