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本日の夕刊から。

本日の東京新聞夕刊に、東京都内の複数の図書館で「アンネの日記」のページが破られる被害が相次いでいるとの記事が載っていた。日本図書館協会関係者によると、被害は200冊を超え、ナチスの強制収容所アウシュビッツに関連する複数の書籍も手で一気に破った跡があったそうだ。日本で「アンネの日記」を破る思想犯はイメージし難く、おそらくはファナティックな個人の犯罪なのであろう。
また、ユダヤ人の少女アンネ・フランクが綴った「アンネの日記」が、ユネスコが認定する「世界記憶遺産」に登録されているという事実を初めて知った。
「自然」「文化」に加え、「記憶」まであったとは。

また、タイミングを合わせたかのように、海外面にアウシュビッツの元看守3人がドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルク州の捜査当局に拘束されたとの記事が載っていた。3人はそれぞれ、88、92、94歳で、虐殺を幇助した疑いが持たれている。また家宅捜索で、ナチスの親衛隊(SS)だったことを示す書類も押収されている。
ナチス親衛隊の残党が生き残っているなんて言うのは、一昔前の映画や小説のような話である。太平洋戦争時の残留日本兵のように、現代という時代に「歴史」がさまよいこんできたような感覚である。

同じ海外面に、オバマ米大統領がチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世とホワイトハウスで会談するとの記事が載っていた。国家安全保障会議(NSC)は声明で「チベットで続く緊張や悪化する人権状況を懸念している」と指摘し、中国における宗教の自由や人権の保障の重要性に言及している。一方、中国はダライ・ラマをチベット独立派と見なしており、ダライ・ラマの訪問を外国が受けれたり、公的立場の人物が会談したりすることに強く反対している。
記事を読みながら、チベットを出汁にした米国と中国の醜い覇権争いにすぎないとしか思えなかった。米国が「人権」「自由」「民主主義」の錦の御旗を振りかざして進出してくる地域において、「憎悪」と「紛争」と「貧困」がはっきりと形を表してくるのである。米国こそが世界紛争の教唆犯だという事実をしっかりと見定めいこう。

ベネズエラ 反政府デモ激化

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本日の東京新聞朝刊に、ベネズエラでマドゥロ大統領の辞任を求める反政府デモが激化しているとの記事が掲載されていた。マドゥロ大統領は、反米左派のカリスマであったチャベス大統領の死去に伴い、後継者として4月に就任している。しかし、年56%という高いインフレ率に加え、トイレットペーバーなどの日用品や食料品が不足する状態が続き、首都では広範囲な停電も頻発しており、学生を中心とした反政府デモが相次いでいる。
しかし、反米左派の政府と対立しているのは親米右派の市民であり、米国や米国と軍事同盟を結んでいるコロンビア政府が反政府運動を裏から支援しているとの報道もあった。米国の陰謀を示す確たる証拠は無いようだが、おそらくは米国の間接的な支援は受けているのであろう。

この報道記事を読みながら、昔読んだ五木寛之の『戒厳令の夜』(1976 新潮社)のラストシーンだったかに出てきた「チリ・クーデター」を思い出した。1970年にチリの大統領に就任した人民連合のサルバドール・アジェンデ博士に対して、アメリカ政府に支援された反政府勢力が軍事クーデターを起こし、首都サンティアゴを制圧し軍事政府を打ち立てたという事件である。

米国の南米支配の手管は40年を経ても何ら変わりはない。世界的に展開されるこうした「敵の敵を支援する」という米国のやり方はしっかりと覚えておきたい。

「大学生 秘密保護法反対デモ」

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本日の東京新聞朝刊の社会面に、大きく大学生のデモの様子が伝えられていた。
ツイッターで呼びかけで150人が集まったとのこと。
時代の流れを感じる。
裏で○○が糸を引いているとか、実は××などの邪推はしたくない。

秘密保護法の問題は原発や戦争、国際政治の問題に直結している。
是非とも、一回だけのデモに終わらせず、長続きするやり方を考えてほしい。
マスコミや評論家の論調を追うのではなく、大学生という立場から秘密保護法の問題について突き詰めていってほしい。

「ウィ・シャル・オーバーカム」

本日の東京新聞朝刊コラムに、「will」と「shall」の違いに触れながら、1950、60年代に人種差別解消を求めたアメリカ公民権運動のテーマソングともなった「ウィ・シャル・オーバーカム」の曲を歌ったフォーク歌手ビート・シーガーさんが、今月27日に94歳で亡くなったという話が掲載されていた。元々この歌の原曲は、黒人のチャールズ・アルバート・ティンドリー牧師が1901年に発表した霊歌であり「アイ・ウィル・オーバーカム・サムデー」といったそうだ。主語は「私」だけであり、助動詞も「shall」よりも消極的な意味合いの「will」だった。しかし、ある黒人女性の「こっちの方が好き」と言ったのがきっかけで、現在の曲名になったそうだ。
曲を口ずさむと、童謡や地方歌のような生活感と、メッセージの力強さが心の底からわき上がってくるような雰囲気を感じる。革命歌として「K点」越えであろう。ソチゆえに寛大な措置を(ノッさん風で)。

『魔法少女まどか☆マギカ』

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近所のTSUTAYAで新房昭之監督、虚淵玄脚本『魔法少女まどか☆マギカ』のDVD全6巻を借りてきた。
3日間で一気に全12話を観て、また第1話、第2話と繰り返し観ている。
「文化系トークラジオLife」でも評判になっていた作品である。第1話や第2話を見始めた際は、「萌え系」アニメのタッチに慣れず、「40歳のおじさんがはまるべき作品なのか」と疑問を感じながらの鑑賞であった。
しかし、回が進むごとに謎が明らかになってきて、どんどん作品の世界にはまり込んでいった。ちょうど学生時代に『エヴァンゲリオン』を観た時の興奮がよみがえってくるようであった。

たかが中学生の淡い奇跡への憧れから生じる悪夢を「自己責任」として処理してしまうキュウべえの考え方は、まどかが指摘しているように全うなものなのか。

人間の生の感動を単なる事象として回収してしまうキュウべえの考え方は、現在のビッグデータやマーケティングを象徴しているのか。

ひたすら自己犠牲を強いる魔法少女の世界は極めて男性的な論理で支配されているが、、その中でキョウコやホムラのように自分にわがままな女性的価値観こそが、現在のブラックな社会に必要なものなのか。

物語の謎は次々と解かれていくが、心の中の疑問は次々と膨れ上がっていく。

最終話になると、手塚治虫の『火の鳥』を彷彿させる展開に息が止まるようであった。

今、パソコンに向かいながら、第1話から確認のために見返しているのだが、今度は「鹿目まどか」を見守る「暁美ほむら」と私自身の視線が同一化してしまっていることに驚く。

早く映画版を観てみたい。そして眠い。。。