玄侑宗久『禅的生活』(ちくま新書 2003)を読む。
著者は臨済宗の僧侶であり、「犬に仏性はありますか?」「片手の拍手の音」といった有名な公案の背景にある禅の教えについて語る。
ざっくりとまとめると、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗などの禅宗では、人間は成長するにつれて、行動や考え方に偏見や先入観、予想などが入ってきてしまい、本当の姿や真理を素直に見ることができなくなってしまうと考える。そこで、禅の修行を通じて、心を無にすることで、自分や他人、社会を素直に見つめるように、自分を高めていくこと(悟り)が肝要だと教える。
著者はそうした悟りに近づくために、克服しなければならない煩悩について、次のようにまとめている。禅宗の教えであるが、日常生活にも必要なことである。
- 全体視機能(イッショクタに見ちゃう)
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」といったように、一部と全体を曲解すること。 - 還元視機能(細部ばかり気にする)
「重箱の隅をつつく」ように、「木を見て森を見ず」の状態。 - 抽象機能(観念に溺れて具体を見ない)
具体的な事物に向き合い「そのもの」を見ずに、言葉で分かったつもりになってしまうこと。 - 定量機能(数えたり計ったりして、もっと欲しがる)
分かりやすく「多い」「少ない」と数で比較してしまうこと。 - 因果特定機能(ご褒美を期待しちゃう)
これこれをしたからこうなるはずだと、「物語」化してしまうこと。 - 二項対立判断機能(つい比べちゃう)
複雑な世界を「上」「下」、「内」「外」などの一対の概念で、安易に理解しようとすること。 - 実存認知機能(大袈裟に考えたり簡単にあきらめたりする)
様々な感覚情報や見地に最終的に現実感や存在感を与えること。 - 情緒的価値判断機能(感情にとらわれる)
これまでの7つ全てに該当することだが、人間の喜怒哀楽や欲望、生きることへの執念といった、人間らしさそのものが正しい見方を曇らせてしまうこと。
禅の教えに、「日々是好日」という言葉がある。これは日々煩悩を捨て去って、今日は昨日との連続ではなく、毎日が新鮮であり、「永遠のような今」であるという、禅宗の悟りを表したものである。
本書で気になったところを引用しておきたい。
面壁九年という説話はご存知の方も多いだろう。日本では嵩山で九年も座りっぱなしだったので手足が無くなってしまったというまことしやかな話から、ご存知のダルマが作られる。また何度も毒殺の危機に遭い、七回目で亡くなったと思いきや、お墓に靴を片方残したまま甦ったとされるため「七転び八起き」という諺まで生まれる。しかし、達磨さんは少林寺拳法の開祖として祀られることからも判るように、手足がないというのは日本だけでの話である。もし本当に手足がなかったとすれば日本にだって来れないではないか。だから面壁九年というのも、数えきれないくらいの年月という意味であることに注意しなくてはならない。
「ズボラ」という言葉、じつは「坊主」を逆さまにした「主坊」の複数形だって、ご存知だろうか。つまり坊主にあるまじき人々という意味なのである。