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友人に宛てたメール

久々の連休は家で静養しています。風邪薬を飲んでずっと寝ていました。
しかし中間テストが控えていて試験問題が全く出来ていないので、内心焦っています。

「学級崩壊」に関心があるんですね。
先日、尾崎ムゲンという関西大学の教員の『日本の教育改革』という本を買ってきました。
学生時代に講演会に読んだ人です。中公新書で八月に出たばっかりの本です。
ぱらぱら眺めてみただけですが、「学級崩壊」という現象について予見をしたような内容です。
ざっと結論だけいうならば、これまでの近代公教育は工業化社会の底辺を担うための合理的な労働力養成と、子供個人の外に価値を認め、個人を「解放」していくという「産業化」「個人主義化」の折衷であったのが、八〇年代後半から現在にかけて教育は「脱産業化」と子供個人に価値を認め「自己実現」を支えるシステムに改変されていく。
今はその再編途中にあり、目標を強制しない教育の方は実現したが、子供個人に価値を認める教育は実現していない。ゆえに構造的に学校崩壊が起こりうるという内容です。

しかし現実の高校生は僕から言わせるとただ甘えているだけです。
体罰がほぼ完全に禁止され、学校でも家庭でも叱られることなくぬくぬくと育っている幼稚園の生徒と一緒です。
と、訳の分からない愚痴になってしまいましたが、毎日ストレスを抱えているので、最近私も思考回路がおかしくなっています。まともにものを考えられなくなっています。

総合講座Ⅳにむけて

この総合講座Ⅳのテーマは「人権への視座」ということであった。個々のテーマを通しながら一年間を通して「人権」への理解を深めるというのが授業の主旨であった。
そもそも「人権」とはどのような権利なのだろうか。「人の権利」と書くが、人間が人間であるそれを証明するためだけの権利なのか?

私は現在「精神」病院で働いており、精神医療や、野宿労働者(一般にホームレスと呼ばれる人々)の問題などと、この一年間総合講座の授業を受けながら並行して関わってきた。
そして各現場の中で私が感じたことは「人が人として扱われる権利」、小学生でも分かるようなことが、この国では簡単に見捨てられ、そして切り捨てられてきたということだった。
そのような状況に対して自分は何ができるのか。何をしなくてはいけないのか。そのなかで、今“学生”という立場に置かれている自分は果して何者なのか。そんなことをずっと考えながらこの授業を私は受講していた。
「今『人権への視座』という授業を受けている私は、その同じ時間を新宿の西口で死んでいく野宿労働者の方々と共有している。」「自分は大学という一定特権階級という場において「人権」意識をただ知識欲として弄んでいるだけなんじゃないか。」、そんな思いが授業中頭から抜けなかった。

今冬、渋谷の地下道で野宿労働者の“先輩”に「学生か。 いいねぇ。 わざわざこんな寒い思いしなくても、家に帰れば暖かいふとんが待ってるんだからねぇ」と声をかけられた。私はその場では一応「何言ってるんですかぁ」と取り繕った。しかしそれは本当であり、自分には“学生”という保証された身分と帰る家があった。渋谷の地下道で一緒に飯食って、話し合って「じゃ さようなら」と先輩方はまた寒い街中に戻っていき、一方、私は電気ストーブのある家に帰るのだ。
では、「私も家を捨てて野宿しろ」というのか。そういう議論ではないと思う。学生として、学生という身分の中で私はどう行動するのか。この後もこの問題は自分に問いかけていかなくてはならない。戦前から「大学」と労働者のPbというのは語られてきたが、私自身自分の言葉で整理していく必要を感じている。

マスコミなどでも大きく取り上げられた一昨年の新宿の西口の4号街路からの段ボールハウスの撤去に続いて、昨年後半の秋口から渋谷でも野宿労働者に対するしわ寄せが厳しくなっている。営団の地下通路や国鉄のガード下では、「環境浄化」なる名目でもって野宿労働者の締め出しが行なわれている。さらに246号のガード下においては、建設省はわざわざ「浮浪者除去」とまで明記して、“先輩”方の生活空間の追い出しにかかった。

冬を目前にして、「権力=資本」によって弱者に対する排除は行なわれた。

私が関わってきた部分でもかなり厳しい状況であった。渋谷は駅周辺にあまり風をしのいでくつろげる場所がなく、炊き出しなどは東急109デパートの地下脇の営団地下鉄の通路を使わざるをえなかった。そこでも壁には警告が張り出され、警備員や駅事務員が巡回し、追い出しにかかるという状況だった。その日は先輩の一人が風をこじらせ完全にダウンしていたのであるが、その時駅員は「通行人が臭いと言って困ってるじゃねえか」「俺の土地から出ていけ」「どうせ死ぬならおもてで死ねばいいじゃねえか」と食ってかかる始末であった。
確かにその通路は誰がどう見ても営団の私有地であり、我々の方に負があり、すぐに救急車を呼んでその場は対処した。
その時私たちが議論したのは、「人権」なるものは、全く無いところから私たちがつくっていかなければならないものだということだった。確かに憲法や国連決議などにもったいぶって書かれてはいるが、現場現場で斗って力で築いていかねばならないものだ。戦後民主主義憲法の「基本的人権」や「生存権」などといくら口にしたところで始まらない。「人権違反だ」と声高に叫んだところでらちは開かない。

第11条 基本的人権の不可侵
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第13条 個人の尊重
すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第25条 生存権、国の社会的使命
(1)すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公共衛生の向上及び増進に努めなければならない。

黒板の上で語られる話に終始するのではなく、現在の私たちの生活の中で、「人が人として扱われるという権利」をいかにして克ち取っていくのか。

総合講座のこの授業において、在日や、戦前の女性雑誌、天皇制の問題にも触れた。それらの授業から伝わってきたことは、問題に逆照射される私自身の立場の問題であった。(その中で、部落の問題を扱った教員からはそのことは伝わってこなかったが)

差別問題全般にいえることであるが、在日の問題や「障害」者の問題で実は何が議論されなければならないのか。それはマジョリティの側に属する人間の自身の「規定されている状況」への認識ではないか。

頭の中で、まとめきれていないので今の時点で、これ以上語ることはできなくなってしまった。しかし、「人権」問題に関して、自らの立場性が問われないような人権意識を振りかざしてみたところで何を生むのだろうか、という疑念は結局ぬぐえなかった。

◎ 参考

強制立ち退きに関する決議 国連人権委員会 (1993/77号)

国連人権委員会は,「差別防止及び少数者保護」小委員会による 1991年 8月 26日の決議
1991/12号(強制立ち退き)を想起し, さらにまた,同小委員会による 1992年 2月 2日の決議 1992/10号が,1991年 12月 12日に「経済社会文化的権利」部会委員会第6総会が採択した「適切な住宅への権利に関する一般見解」第 4号 (1991)およびそこで再確認された人間の尊厳と非差別の原則を尊重する重要性について,強く銘記していることも想起し,すべての女,男,および子供が,平和と尊厳のうちに生活できる安全な場への権利を持つことを再び明言し, しかしながら,国連統計によれば全世界で十億を越える人々がホームレスあるいは適切な住居を持たぬ状況にあり,しかもその数は増加していることを憂慮し, 強制立ち退きなる行為は,人や家族や集団を無理失理に家族やコミュニティから連れさることによってホームレス状態を悪化させ,住宅と生活条件を劣悪にするものであることを認識し, また強制立ち退きとホームレス問題は社会的な対立と不平等を尖鋭化し,常に社会の中で最も貧しくまた社会的経済的に環境的政治的に最も不遇で弱い立場にある人々に対して影響するものであることを懸念し, 強制立ち退きは,様々な主体によって実施され,裁可され,要請され,提案され,開始され,黙認されうる,ということに目をむけ, 強制立ち退きを未然に防ぐ究極の法的責任は政府にあることを強調し, 国家機関は適切な保護や補償のないまま人々を大規模に追い立てたり移転させたりする事業に関わるのを慎重に避けるべきである,と述べたところの「経済社会文化的権利」部会委員会第4総会採択の「国際技術援助施策に関する一般見解」第 2号(1990)を想起し,「経済社会文化的権利に関する国際条約」第 16条および第 17条に対応して提出された国別報告のためのガイドラインにある強制立ち退きに関わる質問事項に留意し 強制立ち退きの諸例が「経済社会文化的権利に関する国際条約」の要請に違反していることはまず明らかであり,それが正当化されうるのはごく例外的な場合に限られ,かつ国際法の関連する原理に則ってなされなければならない,と判定した「経済社会文化的権利」部会委員会「一般見解」第 4号を高く評価し,「経済社会文化的権利」部会委員会の第 5総会 (1990)および第6総会 (1991)における強制立ち退きに関する見解を銘記し, ラジンダール・サチャール氏によって作成された「適切な住宅への権利」についてのワーキングペーパーの中で,強制立ち退きが国際的に住宅危機の主要な原因の一つであるとして指摘されていることも銘記し,さらに,1992年 8月 27日に採択された小委員会決議 1992/14号 (「強制立ち退き」)をも銘記したうえで,

  1. 強制立ち退き行為は,人権なかんずく適切な住宅への権利に対する重大な違反であることを明言する;
  2. 強制立ち退き行為をなくするためにあらゆるレベルで直ちに対策をとることを各国政府に要請する;
  3. また,現在強制立ち退きの脅威にさらされているすべての人々に対して,影響をこうむる当の人々の効果的な参加や彼らとの協議。交渉に基づいて,保有条件の法的保障を授与すること,強制立ち退きに対するまったき保障を与えるためのあらゆる必要な措置を講ずること,をも政府に要請する;
  4. 強制的に追い立てられた人々やコミュニティに対しては,彼らの願いや必要に見合って,原状回復,補償,および/もしくは適切で十分な代替住宅や土地を,影響をこうむった当の人々やグループとの相互に満足のゆく交渉をへた後に,直ちに与えることを,すべての政府に勧告する;
  5. 本決議を,すべての政府,「国連人間居住センター」を含む関連国連機関・国連専門機関,国際地域・政府間機関,NGO,住民組織に送付し,彼らの見解とコメントを求めることを,国連事務総長に要求する;
  6. さらにまた,国際法と法制,および前項に則って提出される情報の文責に基づいて,強制立ち退き行為についての分析的報告をまとめ,本委員会第15総会に提出することをも,国連事務総長に要求する;
  7. 第 60会総会では第 7議題「経済社会文化的権利の実現」のもとでその分析的報告を論議し,強制立ち退き問題を引き続き検討するための最も有効な方法について定める;

ことを決定するものである.

setashin

さっき横浜の中央図書館に行ってきた。文学関係の勉強をした。戸坂潤を読んだ。
昨日マルクスのドイツイデオロギーを買ってきた。やはり中野重治をやるからには、マルクス主義をしっかりと押さえて、戦前の日本の思想状況まで把握した上で、中野重治の主体性まで踏み込んでいきたい。
でもって帰りにワープロ活用術みたいな本を買ってきた。来年できたら卒論を書くわけだが、勿論ワープロで最後まで仕上げていく訳で、構想から書き下ろし、製本までやるわけだからこの今打っている機械を使いこなしていかねば。立ち読みでパソコン通信の本を読んできた。

十一月二十日の授業 風姿花伝について

私はこの授業で取り上げられるまで、この作品を読んだことはほとんどなかった。
しかしこれまで何度か耳にする機会はあった。
剣道などでは、五輪書と並んで、この世阿弥の風姿花伝が「道のため」として、稽古論などが、また形を変えつつ様々に取り入れられている。物まねから入り、理にしたがった正しい形を学び、順序良く、数をかけ、片寄りなく、年齢に応じて行なうことなどが、剣道の修業においても口を酸っぱく言われるようなことである。
年齢とともに衰えてくるパワー、スピードに対して技術の優位性を売り物にしている以上、このような修業体系をとるのは当然である。
確かに、素人がみても、歳を重ねた剣道の達人の方の技術はすさまじさははっきり伝わってくる。彼の剣の一振りの気合いと迫力には、力とスピードに頼る若者を簡単に一蹴するくらいのものがある。 力やスピード(用花)にとらわれることなく、切れ味そのもの(性花)に価値を求める。剣道があくまで剣「術」ではなく剣「道」としているレーゾンデートルである。

しかし、現在剣道の世界では特に若年層ではこのような「剣の道」といったものはまったく軽視されている。強ければ勝ち、勝てば官軍、弱いくせに精神論だけ吐くなといったことがあからさまに言われている。漸々修学といった剣道の根幹も崩れてしまっている。

確かに風姿花伝の世界もある意味単なる実存主義で終わってしまっているとも言える。それ自体非常に強い意義を持つが、他を制してまで訴えかける力に欠けている。
これは世阿弥の生きざまにも大きく関わっている点であると思う。前半生を有意義に過ごしてきたが、後半生没落し、自分が若い頃培ってきた芸道に意味を見いだそうとする老人的営みといった意地悪な見方もできよう。
最近は武道の世界にも商業主義が押し寄せて、「道」といったものは「「古くさい、苔の映えた負け犬的論理」と受け取られているが、そのような中で風姿花伝のもつ教えがもう少し省みられてもよい。

「転向」後の中野重治の創作態度

【略年表】
1924年4月
東京帝国大学入学。在学中よりマルクス主義芸術研究会をつくり、28年の3・15事件(共産党一斉検挙)などを経て、全日本無産者芸術連盟を結成。芸術と政治の関係について考察を深める。

30年5月
治安維持法容疑で逮捕。翌年日本共産党に入党。

32年4月
日本共産党の外郭団体である日本プロレタリア文化連盟に対する弾圧が強まり、多くの作家同盟員とともに逮捕される。以後2年間拘束される。

34年5月
日本共産党員であったことを認めて出所。翌年5月この経験をもとに『村の家』を発表。

36年11月
「思想犯保護観察法」が実施され敗戦まで保護観察処分。翌年1月『小説の書けぬ小説家』を刊行。
39年2月 自伝的小説『歌のわかれ』を《革新》に発表。

41年12月
太平洋戦争開始とともに共産党への弾圧徹底化。中野の身辺も洗われる。

45年8月
長野県小県郡において敗戦を迎え収集解除。11月合法化された日本共産党に再入党。

46年3月
日本民主主義文化連盟創立。この頃日本共産党の方針で「プロレタリア文学」から「民主主義文学」へと名を変える。

47年4月
第1回参議院選挙に日本共産党から立候補、当選して3年間議員として働く。

54年1月
『むらぎも』を《群像》に連載。翌年毎日出版文化賞を受賞。

64年11月
党組織温存を図るだけの党中央と意見が合わず、日本共産党を除名処分となる。翌年1月『甲乙丙丁』を《群像》に連載。

69年12月
『甲乙丙丁』により野間文芸賞を受賞。『日本共産党批判』を刊行。

79年8月
胆のう癌のため死去。 11月『わが生涯と文学』刊行。

【プロレタリア文学】
そもそもプロレタリア文学運動はプロレタリア解放運動の一翼以上のものではなく、特に昭和期に入って、「共産主義」が運動の主導権を握るようになってから、きびしく自覚的にその点を強調した。したがってそれは坪内逍遥によって提唱されて以後、わが国の近代文学の根本理念をなしてきた「芸術の自律性」を否定するものである。新感覚派の革新が芸術の範囲にとどまったのに対し、プロレタリア文学は広く社会を対象とし、「社会に現に存在している」という人間観自体の革命を企図する運動であった。

大正期に作家にあっては、自己がすべてであり、他人は無であった。それに対して、プロレタリア作家は他人(社会)がすべてであり、自己は無に等しかった。両者は正反対であるが、まさにその点で表裏をなしており、プロレタリア文学は私小説の否定であると同時にその延長といえる。
それは大正期の「ありのまゝの私」を否定すると同時に、「他人のための私」をつくりあげること、私を社会的意義のある存在にすることを芸術家の使命と信じたので、そのために「前衛の眼」を持つことが必要ならば、自分が「前衛」-共産党員-になることを、プロ文作家は芸術的に必要と信じた。
※小林多喜二『蟹工船』『党生活者』

中野重治は一方でそのような大正期の私小説家の素質を受けながら同時に熱烈潔癖な共産主義者であり、彼の芸術理論の根底には私小説の伝統をそっくり受けつぎながら、共産主義との合一を計ろうとしている。

敗戦後、マルクス主義も戦時中にうけた弾圧の反動もあって、特に盛んな蘇りを見せたが、その文学への影響は、戦前にくらべるとかえって希薄な限られたものになった。この一見奇異な現象は、戦前のプロレタリア文学の特質を考えてみれば理解できる。戦前の共産党が、政治的に弱い力しか持たなかったということが、かえって共産主義に純粋な「思想」としての魅力をあたえ、文学者もその理想主義に魅かれた。しかし戦後共産主義運動が合法化されることで、この最大の魅力を失ってしまい、戦後の左翼文学が、左翼運動全般の「進展」によって運動内部の地位の重要性と、外部に対する鋭利な批判性を失ったことは事実である。

戦後日本共産党がその目的よりも組織の存続の方に重心が移動していくと同時に中野の考えと大きく解離してきた。中野はあくまで自己否定の上に立って、その中で社会の中の自分の存在を見つめ直すという態度を人生に置いても作品に置いても貫き通した。それゆえに中野は一貫して「反権力」という自分の置かれている立場を認識した。『むらぎも』という作品においては細かく自分の良心と天皇制を突き合わせていく作業を行なっている。非常に私小説的な手法で「天皇制」批判に展開している。

【最後に】
しかしわたしは中野の作品にはマルクス、住井すゑなど社会に「積極的」に働きかけていく作家に比べ「迫力」がいまいち感じられない。押し出しが非常に弱い。
60年代後半から70年代前半の全共闘運動の時期にのさなかに『甲乙丙丁』が発表されたのであるが、やはりその私小説的態度が災いして多くの学生から共産党内部の分派闘争ぐらいにしか当時は受け取られなかった。
しかしその中野の余りに正直なまでの良心の苦悩は時代に色褪せることなく今でも私たちに重々しさを与えている。

【参考文献】
『中野重治と社会主義』石堂清倫(勁草書房)1991年1月5日
『日本の現代小説』中村光夫(岩波新書)1968年5月6日
『全共闘文学論 祝祭と修羅』黒子一夫(彩流社)1985年9月25日
『人権と教育22 1995.5』(社会評論社)より「中野重治-60年代と90年代の間」