「大波小波」

古い新聞記事から。
先月7月24日付の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」が気になった。
朝日新聞社発行の『論座」が休刊という事態から、雑誌の世界のおける「右傾化の勢い」を危惧し、さらに『論座』の前身でもある『朝日ジャーナル』を支持した団塊世代が、硬派雑誌にそっぽを向いているだけでなく、社会そのものから目を背けている現状を憂えている。おそらくはこの文章を書いている当人も50代後半なのだろう。

 朝日新聞の硬派オピニオン誌『論座』が9月1日発売予定の10月号をもって休刊するという。「雑誌不況の波は看過しがたく、インターネットという新しいコミュニケーション・ツールも浮上するなかで、従来の総合誌という形は一定の役割を終えた」と休刊のあいさつで薬師寺克行編集長は書いている。
しかし、そんな状況は、雑誌メディア全てが直面する宿命ではなかろうか。たとえ赤字であっても社の顔として死守する気があるのかないのかが問題である。残念ながら『論座』はその器にあらずと判断されたらしい。問題は一雑誌の休刊に留まらない。『正論』『諸君!』という保守派の論壇誌に対抗する、リベラル派の布陣の一角が消滅するのである。
残るリベラル派は『世界』だけか。こうなると各紙の論壇時評の担当者はネタ不足、というよりネタの偏向に悩むことになりそうだ。右傾化の勢いはいよいよ止まらない。かつて全共闘時代は「右手に(朝日)ジャーナル、左手に(平凡)パンチ」と言われたものだ。青春時代に新左翼思想の洗礼を受けた彼らも、今はいっせいに定年退職を迎えている。彼らは一体何を読んでいるのか。雑誌を読むより、唯我独尊のブログを夢中で書いているのかもしれぬ。

中村梧郎氏の記事

まだ古い新聞に目を通している。8月5日付の東京新聞朝刊に『母は枯葉剤を浴びた』(新潮社)の著書で有名な報道写真家中村梧郎氏の記事が掲載されていた。
ベトナム戦争で米軍は北ベトナムに食料を断つために枯葉剤を撒いたのだが、その枯葉剤に含まれていたダイオキシンが土壌から海に流れ出し、その汚染された魚介類を食べた人体に蓄積し、熱病を発症したり、子どもや孫に奇形児が生まれてしまうという事件である。
中村氏の話によると、現在も孫世代において口唇症や足が曲がる奇形、指がくっついたままの合指症などに苦しむ子どもが多数いるということだ。米軍は62年から10年間で9万千キロリットルにも及ぶが、当時のメディアは米軍の加害行為を報じなかったため、ベトナム人が被害を受けたことすら知らない米国人も多い。
中村氏は最後にこう述べる。「ダイオキシンは慢性毒性。微量でも蓄積され、被害が表れるのは何十年後なんです。」

何か文章が変。夏風邪のせいで頭がぼーっとしているせいだろう。

□ 中村梧郎(なかむらごろう)のウェブサイト Welcome to Goro Nakamura’s Website □

本日の東京新聞夕刊

現在北京オリンピックの開会式を見ながらパソコンに向かっている。
先程からテレビ画面では延々と選手入場が続いている。過去最多の204の国と地域が参加しているそうだが、世界にはこれほどの国があったのかと驚かされる。白人の国かと思っていたらアジア人の顔つきをした選手が行進していたり、同じイスラム教国といっても、様々な衣装をまとって民族が三日月と星で構成されるイスラム教の国旗の後を歩いている。
入場行進を見ながら、いかに自分が偏狭な世界地理の知識しかなかったのかと思い知らされる。

本日の東京新聞夕刊に『はだしのゲン』の作者中沢啓治氏のインタビューが載っている。中沢氏は次のように答えている。

(『はだしのゲン』を描いた動機として)家族を全滅させた原爆に対する怒り、原爆を呼び込んだ戦争や戦犯に対する怒り。ぼくは天皇の責任を問わない限り、戦争責任は解決しないと思っています。それから戦争で核兵器の実験をした米政府への怒り。それまで無意識に抑えてきた怒りが噴き出た。

(中略)平和に暮らすためには憲法9条を絶対変えさせない。どれだけ犠牲を払って日本人が手にしたか。これを大事にしろよー、そこに尽きます。憲法改正という不穏な動きが出ている今、ぼくらみたいな漫画家やジャーナリズムが、絶えずこの問題に関心を持って取り組まなければ、いかに見せるか工夫も必要。伝えるってことは本当に難しい。

また、同じ東京新聞夕刊の文化欄に、「政治と切り結んだ現代知識人 ソルジェニーツィン氏を悼む」と題した文章が載っていた。ソルジェニーツィン氏は『収容所群島』などの作品で知られ、旧ソ連の独裁体制を世界中に知らしめた作家である。
その後、ソルジェニーツィン氏は国を追放され、米国に移住したので、西側の自由経済・民主主義に与していたのかと思っていた。しかし、彼は78年にハーバード大学の卒業式講演に招かれた際、辛辣に米国の法律万能、ルネサンス以降の理性偏重を批判している。旧ソ連が15カ国に瓦解した際、彼は民族自決、宗教の自由を重んじ、その分割をエリツィンに提案していたそうだ。
まだまだ続く北京オリンピックの入場行進を見ながら、彼の先見性の鋭さに驚かされる。

寄稿したのは早大名誉教授、ロシア文学専攻の川崎浹氏である。懐かしい名前である。私の大学時代のロシア語の先生である。半分くらいしか授業に出ず、試験もさっぱりだったのに、なぜか単位だけは取れた、ホトケの川崎先生であった。

「希望は戦争」

まだオーストラリアへ出掛けていた頃の新聞がたまっており、まだ読み切れていない。
本日は7月25日付の東京新聞夕刊の「あの人に迫る」と題した記事が目に留まった。「希望は戦争」と、戦争にしか自らの境遇を変えるチャンスを求められない非正規雇用の焦燥感を綴った論文で注目された赤木智弘氏へのインタビューである。赤木氏は自らのコンビニでの夜間のアルバイト経験を踏まえ次のように述べる。

非正規雇用労働者は、正当な努力でキャリアアップできる「はしご」が用意されていない。大卒で新入社員になれば、はしごがあるけれど、そこでしくじれば、まともに上ることができなくなり、努力する意味がなくなってしまう。努力しろというより、努力した先に何かあることを明確に示す必要がある。

(中略)
今までなら若いころは貧乏でも、働いていれば昇給するし、出世できなくても家庭を持ち、それなりの生活はできた。だが今の非正規雇用労働者は働いても自分一人の生活すら、まともに保持できない。都合が悪ければすぐ切り捨てられる。
日本人の多くが終身雇用が望ましいと考えているらしいが、そういう社会体制を守ることが平和であるとすれば、そういう平和は非正規雇用の若者を踏み台にしている、不当な平和なんですよ。

(中略)
もちろん、平和のままでいられればいいと思う。でもシステムによってふみつぶされる人がいっぱいいる。本当は平和を望んで入るが、平和のために不平等で構わないという考えは納得できない。
平和か、平等か、どちらか選べといえば、自分はまず平等をとる。その上で、平和になればいいが、今の平等なき平和を守っても意味ないと思います。これまで平和と平等が両立できたのは、経済成長の中で、うまくいっていたにすぎない。

同世代の男性の本音として、共感できる部分が多い。現在、正規雇用となって家庭を持った自分であるが、その自分の立場は、赤木氏の指摘する非正規雇用労働者を「踏み台」とした上に成り立っているという指摘は正しい。ベトナム人民の犠牲の上に平和を連呼した70年代と重なる。

赤木氏は規制緩和の大合唱で始まった市場絶対主義、格差社会に警鐘を鳴らすが、一方で左派思想についても、「正規社員でつくる労働団体も現実的なところでは、自分たちの権益を守ろうとしている」と批判的である。

□ 赤木智弘主催ウェブサイト『深夜のシマネコ』 □

『スカイ・クロラ』

Sky_Crawlers_movie

久しぶりに子どもを風呂に入れて映画に出掛けた。時間の都合で、押井守監督『スカイ・クロラ』(2008 日本)を観た。
近未来の戦争を舞台とし、「キルドレ」と呼ばれる少年パイロットたちが主人公である。14歳で戦闘ロボットを操るエヴァンゲリオンに似たような設定だが、この『スカイ〜』はエヴァ的な自分探しを純文学的な作風で色づける。
この物語における戦争とは国と国の総力戦ではなく、平和を維持するための代理戦争という位置づけで、戦争そのものを民間企業に委託している。そして、国民はアメフトやサッカーのワールドカップを観るよう雰囲気で戦争を応援する。この国民の娯楽である戦争で活躍し、そして命を無くすパイロットはさながら将棋の駒のような存在である。
本作では国の(大人の)平和を維持するために、永遠に終わることのない戦争の意味を問おうとする若者を描き出す。CGの究極的な映像美とあいまって印象に残る作品であった。

□ 押井守監督最新作 映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』公式サイト □

[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=FDcpm1GVAiA[/youtube]