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本日の東京新聞夕刊から

本日の東京新聞の夕刊に大変目を引く記事が掲載されていた。以下全文転載してみたい。

【ニューヨーク=阿部伸哉】
広島、長崎への原爆投下の日に合わせ、八月三日から九日まで来日する国連総会のデスコト議長(ニカラグア)は三十日、国連本部で記者会見し核兵器廃絶を願うメッセージとして「キリスト教社会を代表して(原爆投下への)許しを請いたい」と述べた。
カトリック聖職者のデスコト議長は、広島に原爆を投下したパイロットがキリスト教徒だったことに触れ「彼は命令に従っただけだが良心には従えなかった」と残念がった。
米国とロシアの間で核兵器削減交渉が進んでいることを挙げ「今こそ核全廃に向け世界全体が動き出す時」と強調。広島、長崎の式典については「過去の悲劇を乗り越え、人類が団結する必要性を訴えたい」と話した。

「外国人学校支援法」の法案提出

本日の東京新聞朝刊に、今国会での「外国人学校支援法」の法案提出が大詰めを迎えているという記事が載っていた。

この法案は、公的助成を可能にするため、ブラジル人学校など無認可の外国人学校を各種学校に設定するという内容だ。自民・公明両党の議員連盟が中心となってまとめられており、当事者たちの間でも「日本で外国人学校を正規の学校として位置付けよう」という動きも活発化してきている。
法案では、各種学校の認可基準を大幅に緩和し、外国人学校を各種学校として認可し、公的助成を可能とするものである。外国人労働者の子どもたちが増えてきている日本の現状を鑑みるに遅すぎるぐらいの対応である。しかし、公金や公財産は「公の支配」にない事業に支出できないと定めた憲法89条に抵触するおそれがあり、法案成立は一筋縄ではいかない。

国会の議員連盟とは別に、当事者の学校関係者や保護者らが考えた新たな外国人学校支援制度の概要が都内で開かれたシンポジウムで発表された。その内容は、教育基本法に外国籍の子どもの教育を受ける権利と、その権利を国や自治体が保障する義務を明記。さらに、①学校教育法上に「外国人学校」のカテゴリーを加えて正規の学校扱いにする②「外国人学校振興法」を制定し、外国人学校の認可校には助成金や受験資格、寄付金税制などで日本の学校と同じ扱いにするとしている。

与党議員は学校教育法一条校として認可はせず、あくまで各種学校として認可し助成を試みるものである。これでも現状よりは大きな前進である。しかし、認可されても助成金は公立校の十分の一程度にしかならない。しかし、シンポジウムでの「外国人学校」の整備では、日本人のための学校とは別の学校の設立を目指すというものであり、新たな排除構造が生まれる可能性が危惧される。

与党の議員連盟の法案に寄付金税制や助成金を大幅に上乗せした形で修正を迫る一方で、公立学校での外国人の制度的、経済的な大胆な支援策が求められる。

『時代を読む』

本日の東京新聞朝刊に掲載されていた、内山節氏のコラム『時代を読む』を写経ならぬ「打経」してみたい。

 今日の私たちの気持ちのなかに、ひとつの根源的な不安がひろがってきているような気がする。それは近代以降つくりだしたさまざまなものが、持続性を失いはじめているのではないか、という不安である。
現在のような経済活動や生活をつづけていれば、環境や資源問題をとおして、いつかは世界は破綻していくだろうという予感は、いまでは多くの人々のなかにひろがっている。はたして持続可能なのだろうか。現在の年金制度は持続可能な制度になっているのか。
さらに最近では次のようなことも、検証しなければならなくなってきた。たとえば液晶テレビや半導体などの分野では、大量生産体制を確立し市場では大きなシェアを獲得しても、利益が上がらない構造が慢性化している。これは一過性のものなのか、それとも、大量生産によって市場支配権を確立していくという経営モデルが、安定的に持続する経営モデルではなくなりはじめたことを意味しているのだ。
このように考えていくと、今日とは、これまでの経済、社会、政治、さらには私たちの生活のあり方までが、将来への持続性や継続性を失いはじめている時代のように思えてくる。いまでは若者の四割近くに及ぶ非正規雇用の人々は、自分の労働が持続性をもっているとは考えていないだろう。そして持続性を信頼できなくなった社会では、不安や動揺、頽廃がひろがっていくことになるだろう。
今日の人間たちは、持続する仕組みをつくりなおさなければいけないという、大きな課題を背負っている。
ところでかつての社会においては、持続は何によって保障されると考えられてきたのであろうか。それは信用とか信頼といわれるものによってであった。たとえば農民は、自然や地域社会との間に信頼関係が築けるとき、持続する農家でありつづけることができると考えてきたし、街の商人や職人、手工業者たちも、客や同業者、地域の人々の信用を高めていくことが、自分たちの仕事に持続性をもたせる基盤だと考えてきた。
日本の資本主義はこの精神を受け継いできた。だから終身雇用制によって経営者と労働者の信頼関係を築こうとしたし、信用される仕事、信用される製品づくりというようなことが、たえず語られながら展開してきた。
もうひとつ大事なことがあった。それは継続のためには、社会変化に柔軟に対応する自己修正能力をもつ、ということである。「持続する」とは「変わらない」ということではなく、必要とあれば変えていく力を内部にもっているということである。
そんな目で今日の時代を見ると、どのように映るだろうか。経済では、長期的な信用よりも短期的な利益をめざす経営がグローバル化の名のもとに世界にひろがった。政治も社会も私たちの暮らしも、自己修正能力を失って、方向性をみいだせずにいるような気がする。失業者を農業や介護にまわせばよいといった、数合わせだけの論理が堂々と語られたりするのも、自分たちの社会を根本的に修正しようとする意志が失われているからであろう。新しく農業や介護につく人とともに、どのような持続する社会や暮らしをつくっていくのか、そのためには何を変えていったらよいのかという視点が、ここにはない。
私たちは現在、持続する働き方や、持続する社会、暮らしをみつけ直さなければいけない時代を迎えている。

はたして、内山氏は「持続する社会」の理想をどの時代に求めているのだろうか。彼自身群馬県上野村に生活の拠点を置いており、農山村的な生活を暮らしを基準に置いているのだろうか。それとも江戸時代の社会を想定しているのか。20世紀的な高度経済成長をモデルとしているのか。この文章からは判然としないが、現在の社会の問題点はうまく整理されている。

本日の東京新聞夕刊

本日の東京新聞夕刊連載の匿名コラム「大波小波」の文章が印象に残った。

 飲んで脱いで騒いで、がもしアイドルでなく作家だったら、捕まって晒されて家捜しされて、とまではいかなかったかもしれない。そもそもの注目度が違うから、ということはあるかもしれないが、しかし、かつて作家はアイドルだった。志賀直哉など有名作家は、新聞にその日一日の行動が載せられていたのだ。だが、彼らが酒癖程度でこれほど批判されたことはないだろう。童話作家のくせに飲めば暴れていたという鈴木三重吉もほほえましい伝説となっている。となれば、何が変わってきたのか。
酒飲みの蛮行を擁護するつもりはない。しかし、蛮行とは何か問うことはできるし、問わねばならない。酒にせよタバコにせよルールは日々厳しくなる一方だが、それはモラルとはなんの関係もない。ルールはこれっぽっちも内面化されず、ただ外側から互いに監視しわれわれを縛る。それはむしろモラルの衰退だ。
かつて作家が作品内だけでも実生活でもルールを破ったのは、スキャンダルを売り物にする芸能人とは違い、モラルを揺るがせ、その本質を問うためだった。とすると今、作家のスキャンダルがあまり話題にならないのは、よいことばかりでなく、モラルというもの全体にとってゆゆしき事態なのかもしれない。

2500年前の中国で展開された、諸子百家の文章を読んでいるような錯覚を覚える。「モラル」を孔子の徳治思想の要である「徳」に、「ルール」を荀子が唱えた法治思想の中心である「礼」に置き換えれば、そのまま論語の世界である。人間とは同じことを延々と繰り返し議論するのが好きな動物なのか。
人気アイドルアイドルグループのメンバーの一人が深酒し、深夜一人で自宅近くの公園で、裸で騒いだだけで逮捕されるという椿事が、マスコミを賑わせたが、これまたおかしな話である。

本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」とする長距離弾道ミサイル問題について、アジアプレスの石丸次郎氏のインタビュー記事が掲載されていた。
その中で、石丸氏は北朝鮮自身の問題よりも、それに「悪乗り」しすぎる日本政府の対応と過熱報道を批判している。国内に落下物があればMDで迎撃するため日本海にイージス護衛艦、東北地方に地対空迎撃ミサイルを配備した日本政府に対しては次のように述べる。

ミサイル発射は国連決議に抵触するし、自国上空の通過に抵抗を感じることは理解できる。だが、北朝鮮の挑発的な言動に対する反応はあまりに過剰だ。道を歩いていて交通事故に遭う確率よりはるかに低い(とされる日本に落下する危険性を強調するのは)有効性に疑問のあるMDの宣伝や、選挙を意識した政治的意図があるのでは、と思わざるをえない。

そして過熱報道については次のように批判を展開している。

弱体化が進む北朝鮮軍の実態や、戦争どころではない経済の困窮ぶりを伝えるべきなのに、北朝鮮の脅威をあおるような報道は、国民をミスリードする危険性があり罪深い。
北朝鮮に問題が多いのは事実。大切なのは、その隣国とどう向き合うのかというビジョンだ。安倍政権以来、短命政権が続き、まともな対北朝鮮政策は立てられていない。さらに選挙が近づくと人気取りのために強硬姿勢を装いがち。今回も政府は北朝鮮の脅威をあおってパフォーマンスをしているようにみえる。

石丸氏の批判は正鵠を得ているように思う。反日感情を露わにした金正日がミサイルを発射するという「分かりやすい」危機に対して、「予定通り」日米軍事共同作戦のもとMDシステムが展開されているのが今回の問題である。しかし、これは10年ほど前の日米ガイドラインによる危機管理体制で想定された事態そのままである。不気味なくらい筋書き通りの展開である。石丸氏の指摘するとおり、政権を苦しめるための経済制裁や人的交流こそが求められるべき施策である。