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秋葉原事件

本日の東京新聞夕刊に、雑誌『ロスジェネ』元編集長の浅尾大輔氏の文章が掲載されていた。浅尾氏は、秋葉原事件の公判傍聴を続けており、村上春樹氏の『アンダーグラウンド』や大岡昇平の『事件』などの小説を紹介しつつ、あるべき労働文学について次のように述べる。

 作家は、つかんだ真実の痛みを跳躍台として物語へと昇華する。ならば今、新しい労働文学を描くポイントは、働く人間の物語を「やったらやり返せ」式の文脈から切り離すこと。私の取材では、若い殺人者(秋葉原事件の加害者)は「派遣切り」の最中、自動車ボディーの検査ラインの休憩所で、「トラックを借りて、工場ゲートの正面に横付けして、営業妨害してぇなァ!」と口走っている。彼の幼稚なファンタジーは、どこからきたのか。労働組合は、何をしていたのか。
 私が自動車に心を奪われたのは、ひとつに彼が偏愛したものだから。ふたつに無遅刻無欠席でつくっていたものだから。そして彼が「我を忘れるような怒り」と表現した暴力の息の根を、新しい労働文学を描くことで止めたいからだ。

もう十数年前になったが、私自身が学生時代に卒業論文を書き始める際に考えたことは、戦前の機関車の操業に携わる労働者の心理を中野重治の文学を通 して研究したいということであった。大陸の植民地支配の切り札であり、働く者を苦しめる機関車に魅せられる若者の心理に迫ることで、当時の国労闘争の

「子どもの貧困」

本日の東京新聞朝刊の「子どもの貧困」は、児童養護施設で暮らす小学校2年生の男子児童が、たまの外泊で父親と「ニンテンドーDS」で楽しんでいる という内容である。子どもを取り巻く「貧困」は、かつてとは様相を異にしており、DSやiPod(アイポッド)などの最先端の電子機器は”必需品”。継ぎ はぎだらけの服のかわいそうな子どもたちは、過去の話で、施設の中堅職員は「公園で遊んでいても、誰も貧しいとは気付かない」と語る。
見た目が普通であれば、貧困に気付かないというのは、功罪両方あると感じる。日本は安くて高品質な服が広く流通しており、それなりの格好をしておれば貧困が分かりにくいというのは良いことでもある。しかし、身なりや持ち物だけで判断してしまうのは危険である。
私たち日本人は、昔のアニメやドラマのような分かりやすい貧しさに慣れ親しんでいるためか、どうしても普通の身なりをしていると「中流」だと決め込んでしまう節がある。そうした内なる常識を打破していくことが求められる。
以下、記事の引用である。しかし、何が言いたいのか一読した限りでは良く分からない。

国立社会保障・人口問題研究所部長の阿部彩氏は著書「子どもの貧困」で、日本人の「貧相な貧困観」を指摘する。子どもにとって の必需品を調査した先進国間のデータの比較では、英国では84%がおもちゃを必需品と回答したのに対して日本では12.4%、自転車は英国で55%、日本 が20.9%など、いずれの項目でも大きな差があった。
阿部氏は日本人の心理の根底にある「総中流」や「貧しくても幸せな家庭」といった「神話」が、子どもの貧困問題に対する日本人の鈍感さにつながっているとみる。

貧困を考える

今日の東京新聞朝刊の連載記事「子ども貧困」は、母子家庭の母親が手作りの弁当を作るという内容であった。失業した夫の暴力に堪えきれずに「母子生活支援施設」に入所した母親が、生まれて初めてお弁当を作ったところ、子どもが目を輝かせて幼稚園に出かけたということだ。
園児にとって手作りのお弁当というのは、味以上に親の愛情を身近に感じるものだ。そうした手作りのお弁当を作る時間と環境は「健康で文化的な最低限度の生活保障」に該当するであろう。
以下、新聞記事からの引用である。

働いても働いてもぎりぎりの生活を強いられているのが、123万世帯(2003年調査)いる母子家庭だ。厚生労働省によると、 07年の時点で、母子家庭・父子家庭の半数以上は貧困状態にある。現在の生活について「苦しい」と答えた母子家庭は約9割だった。07年国民生活基礎調査 では、全世帯の平均所得は566万円なのに対し、母子家庭は236万円。全国の母子生活支援施設に入所する母親の8割が非正規雇用で、その半数の毎月の就 労収入は10万円未満とのデータもある。

また、同じ日の朝刊に、看護師宮子あずささんの「深夜労働を問う年に」と題したコラムが目を引いた。宮子さんは、日本の看護師の多くが深夜労働を強いられる現状を紹介した上で次のように述べる。

大事なのは、有害業務である夜勤を減らし、休日休める人を増やすことだ。そのためには、私たちひとりひとりが、ある程度の不便を受け入れねばならないだろう。
まずはコンビニをはじめとする小売店の営業時間は、あんなに長い必要があるだろうか? 正月や夜中くらい、休んではどうだろう。生産が追いつかないくらい売れる商品とて、これからはそうそう出るまい。ならば工場のラインも、夜は休ませればよいのである。
「夜中働くのは、よほどのこと」。この認識が根付けば、やむなく夜勤に就く人の待遇も改善するだろう。自分が休みたい時は、誰もが休みたいはず-。その想像力があれば、多少の不便は辛抱できないものか。便利に慣れた自分自身にも、あらためて問いかける年にしたい。

「子どもの貧困」

新年あけましておめでとうございます。
今年も皆さまのご健康を祈念いたします。

今年2011年の元日の東京新聞朝刊の社会面のトップは、「子どもの貧困」という特集記事であった。
本日は「無料塾が救った笑顔」と題され、母子家庭の小学校2年生の女子生徒が、いじめにあい自殺を考えるというショッキングな内容であった。「母子家庭のくせに」とクラスの同級生からいじめられ、母親も育児を省みる暇がない状況が続いていたという。生活保護費と合わせ月収は20万円前後だが、夕食がおにぎりだけの日が週に2日もある。
記事では都内の生活保護世帯の子どもを対象とした塾が紹介され、塾に通うようになったその女子生徒が4ヶ月ぶりに笑顔を見せるようになったということである。
昔の貧困であれば、努力によって克服でき、アニメやドラマのモチーフともなった。しかし、現在では、勉強が苦手でも塾に通えないため進学を断念したり、中退したりして、また貧困家庭に陥っていく社会システムになっている。そうした負の連鎖を断ち切る必要があると、塾を立ち上げた若手弁護士は語る。

今年1年、公教育に携わる者の責務として、この貧困の問題について真摯に考え、少し行動してみたいと思う。しかし、貧困の問題を考える際に、「自己責任」やら「自助努力」といった余計な「知識」や、アニメやドラマ、自身の経験などから育まれた矮小な「常識」が往々にして邪魔をする。まずは新聞や新書をきちんと読み、確かな思考の枠組みを培いたい。
以下、新聞の解説の引用である。

経済協力開発機構(OECD)が2008年に発表した報告では、日本の子どもの貧困率は13.7%で、7人に1人が貧困状態にある。非正規雇用の増加などで、20年前の12%から悪化した。ここでいう貧困とは、4人世帯で年収が254万円、2人世帯で180万円を下回ることで、生活保護基準にほぼ重なる。子どもの貧困は将来、さまざまな社会問題を生み出しかねない。
さいたま教育文化研究所の白鳥勲さんは「本人がどれだけ努力しても貧困の連鎖を脱するのは難しい。社会が解決する問題だ」と話す。

病院や警察、消防、公共交通機関などの仕事そのものを減らすことは、正しい方向性ではないし、現場においてその是非を論ずることは難しい。宮子さんは、その点を理解した上で、国際労働機関(ILO)の専門家会議における「深夜労働は、男女共に有害である」「深夜労働がやむをえないものは社会的サービスや技術上の必要にもとづくもの」という勧告を社会全体で共有することが第一段階であると述べる。

本日の新聞から

毎月最終日曜日の東京新聞朝刊に、立教大学大学院教授の内山節氏のコラムが連載されている。
本日の朝刊もいつものように書き写しながら、その「背景」に横たわる問題を少し考えてみたい。

もしも日本の社会から稲作が消えていくとしたら、それは善なのか悪なのか。この問いに対する答えは、何年かけて消えていくかによって全く違うものになる。
仮に二千年かけて消えていくとするなら何の問題もない。日本の稲作の歴史はおよそ二千年なのだから、それと同じくらいの時間が保障されれば、その間に新しい食文化も生まれるだろうし、農民も新しい農業形態を生みだしながら、稲作に依存しない農村をつくりだしていくだろう。
では十年の稲作を一掃したらどうなのだろうか。これは間違いない間違いなく悪である。なぜならこんな短期間に変えてしまったのでは、私たちの食生活も、農民や農村社会も対応できなくなってしまうからである。このことは自然に対しても言える。自然や生態系も少しずつ変化している。だから自然の変化自体は悪ではない。ところが人間が一方的な開発などをすすめると、自然はその変化に対応できずに崩壊していく。自然が変化に対応していける時間量は保障しないで変動を与えることは、自然の破壊を招くのである。
最近でも、社会の変化にはスピードが大事だという意見をよく聞く。もちろん簡単に直せるものが、既得権にしがみつく人々によって阻害されるのは問題あるが、自然や人間たちが対応するために必要な時間量を保障しない変化は、社会を混乱させ、最終的には社会に重い負担を負わせることになる。
この視点から考えれば、近年の雇用環境の急激な変化は誤りであった。なぜならあまりにも急速に安定雇用の形態を崩してしまったために、この変化に対応できない大量の人々を生み出してしまった。それが生活が破壊されていく人々や就職できない若者たちを数多く発生させ、さまざまな社会不安の要因までつくりだしてしまっている。
年金制度や医療保険制度を変えるときにも、このことは念頭においておかなければいけないだろう。人々が変化に対応する時間量を保障しなければ、たとえどんな改革であったとしても、私たちの社会は、混乱と疲弊の度を増すことになる。
振り返ってみれば、戦後の急速な社会変化や都市社会化も、この問題をはらんでいた。もしも、もっとゆっくり都市社会が拡大していったら、人々は自分が暮らす場所にコミュニティーを生み出すなどして、都市の暮らしに対応した仕組みを自分たちでつくりだしていったことだろう。だが戦後の日本は、その時間量を保障することなく都市を拡大しつづけ、その結果として、今日のような、バラバラになった個人の問題を次々に浮上させる社会を形成させてしまった。
しかも時間量を保障しない変化は、その変化についていける強者とついていけない弱者を、必然的に生み出してしまうのである。ここに弱者と強者が分離していく社会が発生する。さらに述べれば、すべての変化に短時間で対応できる人などいないから、たとえば経済の変化には対応できても、都市社会の変化には対応できない、といった人々は必ず生まれてくる。経済活動のなかでは強者でも、社会生活のなかでは弱者になっている。私たちは介護や認知症といった問題をかかえたとき、この現実に直面することなる。
自然にやさしいとは、自然が生きている時間に対して、やさしいまなざしをもっている、ということだ。同じように、人間の生きている時間に対しても、やさしい社会を私たちはつくらなければいけない。