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障害者雇用 県教委積極採用へ

 本日の埼玉新聞朝刊の一面に、2012年度の障害者雇用について、県教委が県の財源で非常勤職員17人の採用を予定しているとの記事が大きく掲載されていた。県教委の障害者雇用率は11年6月時点で1.67%と法定雇用率の2.0%に届かず、不足数83人は全国ワースト4位であるという。

昨年11年度は国からの緊急雇用創出事業交付金を活用し、41人の非常勤職員を採用したが、雇用期間が1年未満のため、雇用率には反映されなかった。今回の17人は雇用期間が丸1年であり、契約の更新を含めれば3年近く雇用の改善につながるのではないかと思う。

県教育局の説明によると、「職員の9割以上は教員だが、教員免許を持つ障害者が少ないため、教員採用試験の受験者が少ない」と説明している。全国の都道府県教委でも法定雇用率を達成しているのは14教委と3割程度であるという。しかし、これは裏を返せば、教委の障害者雇用の環境が悪いから、敬遠しているとも考えられる。全国で3割もの自治体で雇用率を達成しているので、埼玉県教委も雇用率の達成に向けた息の長い施策を打ち出す必要がある。

今回の県教委の取り組みについて、埼玉労働局の小野寺徳子職業安定部長は「大変大きな一歩を踏み出していただいた。今後も継続して、障害者雇用の促進に努めてほしい」と評価している。

また、県内に本社を置く企業の障害者雇用率も1.51%と法定の1.8%を大きく下回り、全国最下位に低迷している。都内に職場を求めている人も多いのであろうが、まずは国や自治体が率先し、県全体の雇用の改善に向けて動き出してほしいと思う。

「珍企画に書店も注目」

本日の東京新聞夕刊に、「マニアック本」編集者として知られる、社会評論社の濱崎誉史朗氏の紹介コラムが掲載されていた。
濱崎氏は、自らを「珍書プロデューサー」と名乗っており、これまで『エロ語呂世界史年号』『いんちきおもちゃ大図鑑』などの奇妙な本をを世に送り出している。濱崎氏は、社員数4人の小規模な出版の強みだとも語る。

社会評論社というと、学生時代にお世話になった会社であるが、社員数が4人とは知らなかった。ホームページを見ると、実に多彩な本を刊行していることが分かる。本離れの現在、ネットに負けない本をどんどんと送り出してほしい。

社会評論社 濱崎誉史朗公式サイト ハマザキカク

「ギャップイヤーは日本には不向き」

本日の東京新聞夕刊の文化欄に、早稲田大学教授の石原千秋氏の「ギャップイヤーは日本には不向き」と題したコラムが掲載されていた。

東京大学主導で検討され始めた秋入学は、入学前と卒業後の半年の2回を基本としている。つまり大学は4年制から実質5年制になるのである。この前後合わせて1年間ものギャップイヤーを謳歌できる経済的なゆとりのある学生は、保護者の収入が全国で一番高い東大などの一部の大学に限られてしまう。また石原氏は、「この大学、この学部でよかったのか」と、自分探しを始める若者が多く出ると予想する。悩むこと自体は悪くないが、出直しのためにさらに一年間を空費しなければならず、やり直しの機会を逆に遠ざけるシステムだと指摘する。また、学費収入がない期間を設けることで、体力のない私立大学は淘汰され、有力大学を選別する機能を果たすことになると述べる。

石原氏は、こうした様々な事態を避けるためには、莫大な費用をかけてでも、幼稚園から大学院、さらには企業の秋採用まで含めて、国家規模で一気に秋入学を導入するしかない、それが日本に見合ったやり方であると結論づける。

確かに、東大を頂点として序列化された日本の公教育においては、ゆとり教育が「東大教育学部ー文科省・中教審」の連携から実施されたように、東大主導でしか変わらないという現実がある。しかし、入学後すぐに学校生活を中断してしまうゴールデンウイークや、ここ数年の酷暑を考えると、9月入学7月卒業というのは日本の教育にすぐ馴染んでしまう気がする。

石原氏は「国家規模で一気に導入するしかない」と皮肉るが、教育関連の法規の改定も絡んでくるので、やはり国家事業として導入するしかないだろう。

秋入学に対する一番の抵抗者は、卒業式、入学式を彩る出会いと別れの象徴である桜に思いを寄せる日本人の感性となるかもしれない。

「古い物 ねじ伏せる力を」

本日の東京新聞夕刊に、芥川賞選考委員を辞任した作家黒井千次氏のインタビュー記事が掲載されていた。
黒井氏は芥川賞について次のように述べる。

芥川賞の場合、選考する側は年齢やキャリアが候補者よりも上で、どちらかといえば古い世界の人が多い。新しい物を新しくない人が選ぶ。そこが面白いと僕は思う。新しい物を新しい人が選ぶのとは違い、新しい物が古い考えなり存在なりをねじ伏せて出てくるわけです。それこそが本当の力ある新しさだと思う。

また、候補作を読んで「どこに身を置いて書いているのか鮮明ではない」と感じることも多くなり、次のように述べている。

主人公が一人暮らしでアルバイトをするような緩い生活環境が描かれた作品が多い。そこで何かのっぴきならないことが起こるわけではない。職場でも家庭でもいいが、生活の場がその人にとって大事なものとしか描かれていない。物足りないなと感じることが増えました。社会が緩く「ニート化」しているせいでしょうか。

確かに、ここ最近の芥川賞を読んでみると、国家や社会、生死の境、人間存在はほとんど描かれない。表現されるのは、「半径5メートル」の生活の中の違和感だらけである。そしてその違和感を突き詰め、純度高く描く作品のみが称されている気がする。

「原発と基地の欺瞞」

本日の東京新聞朝刊に、東京大学大学院教授の高橋哲哉氏のインタビュー記事が大きくとりあげられていた。高橋氏の専門は西洋哲学であるが、福島と沖縄、ともに「犠牲のシステム」に組み込まれていると述べる。高橋氏は靖国神社について次のように述べる。

宗教では犠牲という観念が非常に大きい。神への供え物として動物、場合によっては人間の肉体がささげられた。宗教が社会から退いた後も、国家が国民に犠牲を要求する。日本の場合、靖国(神社)がその典型だった。

そして、敗戦後も犠牲のシステムは変わらず、その象徴が沖縄だった。そして、今回、その犠牲のシステムは沖縄だけでなく、原発推進政策の構造にまで及んでいることが白日の下にさらされた。

原発は、経済分野における犠牲のシステムだ。沖縄の米軍基地は沖縄県民が誘致して存在しているわけではない。福祉などの原発立地地域は一応、地元が誘致する形を取っている。この違いを無視することはできないが、類似した犠牲のシステムが見て取れる。

高橋氏は、犠牲のシステムを次のように定義する。

ある者たちの利益が、他の者たちの生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望など)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしに生み出されないし、維持されない。この犠牲は通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業など)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。

では、福島事故の責任を負うべき「犠牲にする者」は誰なのか。高橋氏は次のように述べる。

一義的な責任は原子力ムラの人たちにある。中央の政治家と官僚、東電、学者たちだ。なかでも最大の責任は東電の幹部にあるでしょう。この人たちの責任が追求されていない。

原発推進の責任を問われるべき人が事故後、(政府の審議会などで)問う側になっている。原発の安全性を宣伝してきた人たちは、身を引くべきだ。

原発にはさまざまな人々が関わってきた。原発の電力を享受してきた都市部の人間も、犠牲にする側に立ってきた。避難している福島の人たちの一部も、経済的な苦境を脱するためとはいえ、原発を誘致した責任がある。県レベルで原発を推進してきた知事や原発周辺自治体の首長、議員の責任も否定できない。

犠牲には何らかの補償が伴うが、高橋氏は次のようにまとめる。

旧日本軍の犠牲者は、靖国神社に英霊として祭られ、遺族年金などで経済的に慰謝された。沖縄や福島では、理念的には『安全保障・国のエネルギーに貢献している』と思わされ、経済的には、交付金・補助金による利益誘導が行われた。この構造は靖国と変わらない。

そして最後に次のように述べる。

沖縄も福島も国民的規模で可視化された。もはや『自分は知らなかった』では済まされない。犠牲のシステムを維持するのであれば、だれが犠牲を負うのかをはっきり言わなければ無責任だ。だれかに犠牲を押しつけ、自分たちだけが利益を享受するのか。それができない以上、原発と米軍基地自体を見直すしかない。

上手く糊塗されてしまう「犠牲」というシステムは、「お客のため」「市民のため」「家族のため」というお題目で、日本社会の隅々まで蔓延している。そうした構造まで明らかにした上で、問題を見ていくことが必要である。