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猪瀬直樹「言葉の力」

本日の東京新聞朝刊に、作家である猪瀬直樹都知事「言葉の力」についてのインタビュー記事が掲載されていた。オリンピックやエネルギー政策といった政治的課題ではなく、若者の言葉について訊ねるという、東京新聞社会部ならではの「にくい」企画である。

就任後、猪瀬都知事は庁内すべての局にツイッターのアカウント持つように指示を出したとのこと。140字という制限の中で文章を練ることで「5W1H」を踏まえた正確な表現が身に付くようにとの配慮である。石原前知事も猪瀬知事も役所特有の言葉やカタカナに染まっては市民感覚から離れていくとの危惧があるようだ。また、猪瀬知事は私立を含めた都内の高校全部に「ビブリオバトル」という書評合戦への参加を働きかけるそうだ。詳細については触れられていなかったが、本を読む、作者や時代について調べる、心理を考える、要点をまとめる、そして発表するという言葉の総合格闘技のようなイベントと想像する。猪瀬氏の政治的スタンスは好きではないが、彼の言葉に対する姿勢は大変共感できる。

話は異なるが、都知事の政策に「右にならえ」の上田埼玉県知事もいつ猿真似−ビブリオバトル埼玉大会−を始めるやもしれない。少し研究しておく必要がありそうだ。
猪瀬氏は若者のコミュ二ケーションについて次のように述べている。高校の国語教師として突き刺さるような指摘である。丁寧に引用してみたい。

本を読むことは聞くこと。ずっと集中して聞いていくと、本当にしゃべることができるようになる。若い人はすごく言葉の感度がいい。ただ、それが意識化されているかどうか。意識化するのが言葉。例えば、自分がなぜファッションを着ているか、意味を説明できるかが重要。自分とは何か、言葉でどこまで意識化したかということになる。 自分の長所はなかなか見つからないが、短所がすぐ見つかる。実は、短所は自分の個性なんです。それを言葉にしていく。短所を長所として認識していく過程が大事なのです。 そのためには、本を読まないといけない。シェークスピアにも源氏物語にも、過去の本にだいたいのことが書いてある。自分が新しく思い付いたことはそんなにない。そこで一つでも新しいことを付け加えられれば、自分が出来上がる。読みもしないで、初めから自分に何かあると思うのは幻想で、人の言葉でしゃべっているだけ。自分をつかまえるには、過去に使われた言葉を整理する必要がある。

『イキガミ』

地上波で放映された、瀧本智行監督『イキガミ』(2008 東宝)を観た。
どこかで観た映画なのだが、どこで観たのか思い出せない。映画館で観たら必ずHPに記録してある筈なのだが、検索しても出てこない。もしかしたらオーストラリアの海外研修の飛行機の中で観たのかもしれない。

1000人に1人が国家のために犠牲になることで、国家への忠誠心と人生への前向きな意欲を促進する「国繁維持法」を巡る話である。戦前の治安維持法や戦争中の「赤紙」を連想させ、政治的な意味合いもうまくテイストされている。TBS製作らしく、他にも主題歌の効果的な用い方といい、感動の場面といい、よくまとまった映画であった。役者の演技も及第点で文句のつけようがない。しかし、あまりによく出来すぎているために、かえって印象に残らない映画になってしまったのかもしれない。

本日の東京新聞朝刊から

本日の東京新聞朝刊に、日本各地に点在する耕作放棄地の太陽光発電への転用の記事が掲載されていた。
農林水産省によると全国の耕作放棄地は年々増加し、2010年現在1990年の約2倍の約40万ヘクタールにも及んでいる。そのうち発電に利用できるのは17万ヘクタールと見られるが、その全てを太陽光発電に活用した場合の発電量は年間約900億キロワットになり、約1600万世帯が1年間に使う電力量をまかなえる試算が出ている。しかし、農業以外への転用を制限する農地法の壁によって、転用が歩みが遅いのが現状だ。農業地域での発電は太陽光のほかに、農業用水の高低差を利用した小水力発電や畜産の廃棄物を使ったバイオマス発電なども広がっているようである。
PHP総研の佐々木陽一氏は次のように述べている。ついつい読み流してしまいそうな当たり前の内容の一文であるが妙に印象に残った

コメや野菜を育てるのと同じように、エネルギーも地域の資源を使って一次産業として生み出していける。農業との両立は可能ではないか。

田中法相辞任

本日の東京新聞夕刊に、田中慶秋法相の辞表提出の記事が一面に掲載されていた。
記事によると、田中法相は就任3日後には外国人献金問題が発覚し、その後に週刊誌が暴力団関係者の仲人を務めた過去について報道されている。その後質問を受ける予定だった18日の参院決算委員会は直前に出席をキャンセル。その欠席の理由は当初に予定になかった日本調停協会連合記念式典への出席だったという。また、19日午後の参院行政監視委員会を都合良く欠席するため、できるだけ遠い出張先を探し、北海道月形町の月形刑務所が選ばれていたそうだ。しかし、19日朝に体調不良を理由に欠席し、そのまま「胸痛、不整脈、高血圧、貧血」で入院し、挙げ句、23日は辞表提出のみで、記者会見も行っていない。

まさに国民に対する愚弄以外何者でもない。マスコミの論調に乗る訳ではないが、このような「スチャラカ大臣」を任命した野田総理の任命責任は免れないであろう。しかし、それを追求する自民党総裁も所信表明の二日後に辞任した安倍元総理である。「目糞鼻糞を笑う」「同じ穴の狢」に過ぎない。こうした与党も野党第1党も信用できない政治状況では、マスコミが誘導する云々の前に、国民の方で第三極やネット右翼に流れていくのも道理であろう。

本日の東京新聞朝刊から

本日の東京新聞朝刊に、タレントでエッセイストの小島慶子さんのコラムが掲載されていた。ちょうど私と同年代で小学生のお子さんがいらっしゃるということもあってか、今の私に向けて発せられているような気がしてならない内容であった。
短い文章だったので味わいながら引用してみたい。

子育ての話をしていたら、ある男性が言った。「今は忙しい親が増えている。子どもと向き合うためには、接する時間を長くするべきだ」。まじめな父親なのだと思う。正論だ。だが、危うさも感じた。どんな人間関係も、長い間一緒にいさえすれば分かり合えるというものではない。母子密着の環境に苦しんでいる親子は多い。子育てに熱心な父親の過干渉に悩んだ人もいる。関係の健全さは一緒にいる時間の長さに比例すると思い込むと、人と向き合うことの本質が見えなくなる。
子どもには親との接触が何よりも大事な時期がある。忙しい親は皆、悩みながら子どもを育てている。私もそうだ。でも子どもはストップウォッチで親といる時間を計ったりしない。自分に全力で「あなたは誰?」と問いかけ、何よりも大切だと抱きしめてくれる人が誰か、子どもたちはうんと小さいときから見分けることができる。子どもが行かないでというときに、そうだね、同じ気持ちだよと切なく抱きしめてやる親の気持ちを、彼らはちゃんと分かっている。
時間の長さや行事の数で親が成果を計っても、子どもは記録では育たない。数えられないものを一瞬で与えることも奪うこともできるのが親子だ。数えずに向き合う関係は、他人の目では量れないものだと思う。