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週のはじめに考える 大学は何のためにある

本日の東京新聞朝刊の社説から。
「大学本来の姿」「かくあるべき研究」といったことあるごとに繰り返し語られてきたレトロな大学論となっている。戦前の帝国大学は「学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」と定められたが、エリート意識の裏返しのような普遍的大学論は少し飽きが来ている。大学大衆化がこれだけ進んでいるのだから、昔ながらの大学像を振りかざして現行の大学のあり方を批判するのではなく、大学そのもののあり方を壊していくような方向もどんどん検討されてよい。最近はそのように考えるようになった。

 卒業生を送り、四月には新入生を迎える大学に厳しい問いが突きつけられています。「大学は何のために存在するのか」。そこに生き残りもかかります。
 一八七七年、日本の近代国家建設の任務を背負わされて東京大学が設立されてから百四十年。大学は「エリート教育」から「ユニバーサル教育」と呼ばれる時代へと大きく変わりました。同年齢の大学・短大への進学率が50%を超えて、だれでもが大学へアクセスする時代という意味合いです。

◆ユニバーサル教育の時代
 日本の四年制大学は、国立八十六校、公立八十六校、私立六百三校の計七百七十五校、文部科学省の二〇一三年度の調査では四年制大学に二百八十六万九千人、短大、専門学校、高等専門学校を加えると高等教育機関の学生は三百六十五万五千にのぼりました。教員は十九万一千人です。
 大学大衆化時代だからといっておざなりな教育は許されません。少子化の時代、大学に特色や魅力がなければ学生は集まらず、私立大学は倒産の危機に瀕します。英文法be動詞活用や分数計算、化学の元素記号など中学程度の基礎的学力を身に付けさせるリメディアル教育も時には必要になります。創意工夫がなければ大学が淘汰される時代になりました。
 国立大学が法人化されたのは〇四年でした。大学自主運営の理想は遠く、着実に進められてきたのが国立大学への運営費交付金削減と文科省からの天下り。一五年度予算案の運営費交付金は一兆九百四十五億円ですが、毎年1%、十年前と比べて千三百億円もの削減となっています。
 容赦ない財政削減とともに安倍政権が進めているのは大学の選別と序列化、組織の統廃合にみえます。競争原理も導入されます。

◆進む選別と序列化
 昨年九月の「スーパーグローバル大学」の選定には、百四校が応募、その結果、世界大学ランキング百位以内を目指す「トップ型」に東大、京大、名大、早慶など十三校、「グローバルけん引型」に二十四校が選ばれました。
 トップ型には年最高四億二千万円の補助金が十年、けん引型には一億七千万円の支給。補助金は海外大学との連携、外国人教員の人件費、外国語授業などに充てられますが、選定にもれた他大学は放置されたままなのでしょうか。
 昨年八月の文科省の通達も国立大学の文科系学部関係者を震撼させました。教員養成系、人文社会科学系学部に「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」を促していたからです。
 「日本には文科系学部が多すぎる」「シェークスピア研究より英会話」は産業界からの強い声でした。自前で人材を育てる余力を失ってしまった企業が大学に求めたのは仕事に役立つ実学教育や即戦力人材の養成です。文科省通達は財界の要請を受け入れたもの。「国立大学から文系学部が消えるのか」の疑心暗鬼が広がりました。
 大学は何のためにあるのか。時代や社会の要請に応えるのも大切な役目の一つでしょう。大学大衆化時代にあっては学生が就職できるようにビジネス英語や簿記、会計を身に付けさせるべきかもしれません。しかし、大学はやはり「学術研究と教育の場」であるべきです。人知れずの黙々の研究がノーベル賞になったり、実生活と無縁にみえる数学や哲学、歴史研究が長い目では大いに役立つとの真理の逆説を知らせたり。学生には自ら課題をみつけ考えられるようにする。それが最重要の任務にも思えるのです。
 和歌山大学で六年間学長を務めた山本健慈学長ら国立六大学の学長が文科省で記者会見して運営費交付金の増額を訴えました。和歌山大学は地方創生の核ともいえる観光学部をつくり、学生を育て直し、生涯応援することを約束して社会に宣言、タイや地域の過疎地派遣で学生が活動的に変わることを目撃しました。「そんな努力にも限界がある」が学長たちの訴えでした。
 苦しくとも教育への投資が国を興します。いま、大切なのはその「米百俵」の精神。地道な努力に光を当てなければ。

◆訓練で自己を確立せよ
 学生は大学で何をすべきか。「学問のすゝめ」の福沢諭吉も「君たちはどう生きるか」の吉野源三郎も「二十一世紀に生きる君たちへ」の司馬遼太郎も、先人たちが語るのは同じにみえます。
 「君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。-自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、すなおでかしこい自己を」は司馬遼太郎です。
 「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」は訓練で身に付けよと言っています。

本日の夕刊から

suiryoku

本日の東京新聞夕刊は、環境に関する記事が多かった。
一面トップは、東京都江東区の横十間川親水公園にある水門橋下に設置されたマイクロ水力発電の記事だった。治水対策の水門に集水版を取り付けることで最大1.5mの高低差を生み出し、流れ下る水力で水車を回して発電する仕組みである。費用は調査費、工事費合わせて3,500万円であり、発電出力は電子レンジ1台を動かせる程度の約1kwとなる。区温暖化対策課の担当者は「水は区内の至るところにある。売電まではいかなくても、工夫をすれば都市部でも電気を起こせることを実際に見て知ってもらいたい」と話している。
先日の水素発電の記事を考えても、石炭、石油、原子力の時代が終わりを告げ、水の時代が来ているのではなかろうか。かつて老子は「上善は水の如し 水は善く万物を利して争わず 衆人の悪む所に処る 故に道に幾し(最上の善はちょうど水のようなものである。水は万物に恵みを与えていながら決して他と争うことをしない。(そして)だれもがいやがる(低く湿った)所に身を置いている。だから(水こそ)道(の在り方)に近いといえる。」と述べている。まさに、老子の指摘する水の功利性が2500年後の現代日本において着目されているという事実は興味深い。

そして、2面には大型サイクロンの襲撃から丸4日たったバヌアツ共和国の状況を伝えていた。地球温暖化による海面上昇で海に沈んでしまう国として、ツバルやバヌアツ国の名前を良く聞くが、果たして8割の建物が被災した今回の事故は天災だったのか、それとも人災だったのか。

また同じく2面には、九州電力の玄海原発1号機と中国電力島根原発1号機の廃炉が正式に決定したとの記事が載っていた。昨日敦賀原発1号機と美浜原発1号機・2号機の廃炉が報じられ、福島原発事故後の廃炉はこれで5基となった。敦賀原発1号機の出力は35万kwであり、岡山県瀬戸市で建設が進むメガソーラーの発電出力は23.1万kwである。政治的にどうこういう以前に採算が取れなくなっているのだ。再生可能エネルギーをどんどん増やしていって、原発の維持自体が採算割れにまで追い込んでいくことが大切である。

3面には、二大政党制のお手本であった英国で、反原発や格差是正、福祉の向上などを掲げる左派の緑の党が昨年来、急速に指示を広げているという記事があった。緑の党の2010年の前回総選挙での得票率は1%であったが、昨年5月以降の支持率は平均7〜8%を保ち、保守党と連立政権を組む自由民主党と拮抗している。原発は要らないという政治的判断、必要ないという社会的判断、無駄であるという経済的判断の3つを追い求めていきたい。

太陽光発電、抑制幅小さく 企業側試算 電力会社と開き

以下、本日の東京新聞朝刊より

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 太陽光発電に必要な装置を製造する企業などでつくる太陽光発電協会(東京)は五日、太陽光発電の受け入れ上限を超えた場合などに、大手電力会社から求められる発電抑制量の見通しを発表した。東北電力など大手五社が前日に公表した同様の試算は、原発がフル稼働している前提で算出され「大幅な太陽光発電の抑制を求める」との内容になったが、協会側は原発が再稼働しない場合なども想定し独自に試算。抑制を求められるケースは電力会社の試算に比べて大きく減らせる、との結果が出た。

協会側は九州電力、東北電力、中国電力の三社について、管内の太陽光発電所が一年間に発電できる電力量のうち抑制を求められる割合を試算した。三社の中で九電、東北電の二社は四日の経済産業省の有識者会議で、これとは違う独自の試算を公表している。

協会側はまず九電、東北電の二社が設定した前提と同様、すべての原発が再稼働する場合を試算。この条件では、九電は数時間だけの抑制を求める場合でも「丸一日(二十四時間)抑制を求める」としたが、協会側はそのまま「数時間抑制」との前提で計算した。その結果、抑制が求められる発電量は、九電試算の約36%から約15%へと約21ポイント下がった。

さらに協会側は原発がフル稼働しない場合も試算。原発への依存度がフル稼働時より「20%下がった場合」と「40%下がった場合」を算出すると、抑制を求められる太陽光発電量は九電で約5%~8%、東北電で約10~17%にとどまり、電力会社側の試算より少なくて済むとの結果となった。太陽光など再生可能エネルギーの問題に詳しい関西大の安田陽(よう)准教授は、経済産業省が有識者会議で大手電力会社だけに試算を任せた姿勢を問題視。「国は悲観的な数字だけを示すのでなく、より詳細に将来の見通しを説明すべきだ」と話した。

太陽光発電は再生可能エネルギーだから100%永遠に受け入れるというのは、私も少し筋が違うと思うが、この5〜10年は、原子力発電が担ってきた部分を埋めるためにも、国として再生可能エネルギーを重点化させていく時期としなくてはならない。太陽光だけに偏らせるのではなく、風力発電や波力発電、地熱発電、小規模水力発電、バイオマスなどの再生可能エネルギーで十分やっていけるだけの見通しを立てる必要がある。
脱原発の国の基本的な方向性に沿って、もうしばらくは大規模太陽光発電の商業化は奨励されるべきである。近い将来、メガソーラー事業で蓄電まで出来れば、電力会社を全く通さずとも電力を買うことができるようになる。電力会社の管轄内でそうした競争が生まれれば、やがては不効率な原発などどこの会社も廃止せざるを得なくなるであろう。

「トマ・ピケティ教授に聞く」

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本日の東京新聞は全面にわたって「ピケティ尽くし」だった。2面ブチ抜きのピケティ教授への単独インタビュー記事だけでなく、書評面でも著書『21世紀の資本』が紹介され、佐々木毅東大名誉教授のコラムでも社説でもアベノミクス批判の論拠として大々的に取り上げられていた。

新聞記事の受け売りなのだが、ピケティ教授は、「富める者が富めば、恩恵がしたたり落ち、全体が底上げされる」という新自由主義を真っ向から否定し、格差が行き過ぎると成長を阻害されるという点を、世界20カ国の財務情報とここ100年ほどの歴史から丁寧に分析しているとのこと。格差拡大の主要因は資本蓄積の増大と経済成長率の低下であり、この2つの傾向が続けば富は上位者に一層累積してしまう。その是正策として、ピケティ教授はあらゆる資本に対して累進的な税を課すべきだと述べる。固定資産税の仕組みを拡張して、株や普通預金などのあらゆる資本に課税の枠を広げ、さらに国際的な資金移動を透明化し、tax havenの規制を含めた「グローバル累進資本税」を提案している。

市場経済のルールを民主的に制御すべきだというピケティ教授の主張は、一見共産主義に近いものを感じるが、ピケティ教授のスタンスはあくまで資本主義にあり、公共の範囲内における格差を容認している点がマルクスの考えとは異なる。
また、格差が広がるとナショナリズムが台頭してくるというピケティの教授の主張は全くもって正しい認識である。資本の格差だけでなく、もっと身近な皮膚感覚に近い生活格差や社会格差にも注目していきたい。

偉そうに書き連ねたが、700ページと聞くだけで尻込みしてしまう。