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「吾郎、広げる地図」

本日の東京新聞朝刊に、元SMAPの稲垣吾郎氏の特集記事が掲載されていた。
僭越ながら「同級生」の稲垣氏が何を語るのかと興味を持って読んだ。芸能界というフィールドこそ同じものの、40代半ばになって所属事務所を辞め、新しい環境でリスタートを切る彼は次のように語る。

(ファンサイト「新しい地図」に託して)人生って、描いて旅して終わりじゃない。地図をずっと広げていくことだと思う。知っている場所もアップデート(更新)されていく。終着点は、考えたことがない。

芸能界について詳しいわけではないが、40代半ばはまだ若い。彼のこれからの新しい環境での活躍を期待したい。

「普通の人々が主人公の社会とは」

本日の東京新聞朝刊に、哲学者内山節氏のコラム「時代を読む」が掲載されていた。
月1回ながら、現実社会の動きから少し俯瞰して問題点を提起している。相も変わらず分かりやすい文章なので、練習に書き写してみたい。

内山氏の指摘するように、感情的な物言いをする人を称賛するような雰囲気が、ここ数年特に強くなってきたように感じる。政治家や経営者だけでなく、芸能人やスポーツ選手も露骨に感情的なパフォーマンスを「演出」するようになった。つい先日も、トランプ大統領を真似したのか、日本のクジラ肉食文化が理解されないと、国際捕鯨委員会(IWC)を脱退する旨の発表があった。捕鯨の是非はさておき、国際的な議論の場を抜け出すというパフォーマンスは頂けない。議論は尽くすものであり、逃げるものではない。感情を露わにすることが、素直で正直な人柄だと受け取ってしまうネット社会のムードに少し注意が必要だ。

 インターネットが普及しはじめたとき、それは世界を変える夢の道具のように言われたものだった。世界中のどこからでも、誰もが発信できる。情報発信では大都市と田舎の格差はなくなり、国境を越えた世界市民の時空が広がっていく。こんな解説をしばしば耳にしたものだった。人々の間を正しい情報が行き交い、理性的な議論の場がつくられていくことが、インターネットに期待されていた。

だが、期待通りにはいかなかった。むしろ、自分の感情にもとづいて発信し、自分の感情に合うものを検索する、感情のための手段としての利用が広がっていった。

それは世界に、無視できない変化を与えたのかもしれない。なぜなら、自分の感情だけを判断基準にして行動する人々を、大量に生みだすことになったからである。少し前までは、感情よりも理性が重視される時代だった。感情だけでものを言うのは、恥ずかしいことだとされていた。ところが感情よりも理性が上に立つと、理性的な意見を述べるための作法に習熟していない人たちは、社会から疎外されていく。「知的」な議論をするための素養が必要になり、それが「エリート」の支配を生みだしてしまうのである。理性重視の時代は、自分は社会の主人公にはなれないと感じる、大量の人々を生みだしてしまっていた。

近代的な世界では、たえずこのことへの不満をもつ人々がいた。政治も思想、理念、メディアを動かしているのも「知的エリート」たち。そういう構造への不満が、社会の奥には鬱積していたのである。

インターネットは、このような構造からの「解放」をもたらした。「知的エリート」に支配されることなく、自分の感情をそのまま発信できるようになったのである。感情を判断基準にして行動する人々がふえ、それが深刻な感情の対立を広げていく、そんな世界がここから生まれた。

アメリカのトランプ大統領を支えているのも、けっして少数派とは言えないアメリカの人たちの感情だ。日本でも中国になめられるなという感情、北朝鮮や韓国に対する感情などが安倍政権を支えている。その中国や韓国もまた、「国民感情」が大きな力をもっている。ヨーロッパで台頭する国家主義勢力の基盤も、いまの状況に不満を持つ人々の感情だ。

社会への不満やいらだちがそのまま発信され、それがおおきな渦となって社会を動かす。政治は、それを助長する扇動政治の性格を強めていく。

今年は、世界はいまこのような方向に向かっているのだということを、より明確にした年だったのかもしれない。感情の対立がそのまま容認される時代が、私たちを包んでいる。

とすると現在私たちは深刻な課題を背負わされていることになる。むき出しの感情対立が世界を動かすのが、よいはずがない。だが、理性が支配することがよかったのか。近代社会は、理性による秩序づくりをめざした。それが近代の理念だった。だがそれは理性的であるという規範を牛耳る人たちの支配を生み、「エリート」と主人公にはなれない人々の分裂をつくりだした。

おそらくこの対立は、普通の人々が社会の主人公になる仕組みが生まれないかぎり、解決されないだろう。理性による支配ではない協同の仕組みを、私たちは見つけ出さなければならなくなった。

「改正入管法 根拠の正体」

本日の東京新聞朝刊の「こちら特報部」で「改正入管法 根拠の正体」と題したコラムが掲載されていた。

先日、外国人受け入れ拡大のため、採決強行で成立した改正入管難民法で、政府は「人手不足」を根拠として掲げてきた。しかし、7~9月の総務省の労働力調査によると、現在は働いていないが就労を希望する人は323万人。このうち働き盛りの25歳~54歳だけで175万人もいる。政府が「特定技能1号」として当初の5年間で受け入れる外国人の見込み総数の約34万5000人をはるかに上回る。
1990年代初めにバブル経済が崩壊した後、企業は新卒採用を抑制し、いわゆる「就職氷河期」が始まった。この時期に大学や高校を卒業した世代は正規雇用の職に就けず、アルバイトや派遣社員などの非正規雇用になった人も多い。新卒一括採用と終身雇用の慣行が長く続いた日本では中途採用で正社員になるのは難しかった。
一方、企業は長引く不況の中で賃金を抑えるため、非正規雇用を前提に経営を拡大させた。総務省の労働力調査によると、パートや派遣社員など非正規雇用の労働者は、2002年は就業者の29.4%だったが、その後は右肩上がりで増え、2017年には37.3%に上っている。いつ首を切られるか分からない質の悪い雇用の問題点は根深く、2008~09年の年末年始は、リーマン・ショックの余波で職を失った人たちを支援する「年越し派遣村」も運営された。
BNPパリパ証券の河野龍太郎チーフエコノミストは「普通は(業績好転で)人手の確保が必要になれば、企業は賃金を上げ、生産性を高めようと機械化や職場環境の見直しも考える。なのに、今ここで単純労働に割安で雇える外国人を受け入れたら、賃金も生産性も上がらない」と切り捨てる。

記事の中で、「正社員と非正規の格差がある中、もう一段下の低賃金の外国人という三層構造になる。結果的に低賃金が横行する」との指摘があった。こうした分断は経済だけでなく、政治や社会、文化の分断、そして極端な国家主義の萌芽ともなる危険なものである。自分は関係ないと済ますのではなく、自らの拠って立つ社会構造の問題として捉えていきたい。

「『栄光』運営塾管理49歳男性が過労死」

本日の東京新聞夕刊の社会面に、栄光ゼミナールで知られる学習塾大手「栄光」が運営する個別指導塾に勤務していた49歳の男性が死亡し、渋谷労働基準監督署が労災として認定したとの記事が掲載されていた。男性は生徒180人が在籍し、約30人んの大学生アルバイトが指導を担当する世田谷区の教室で運営管理をする「教室長」を務めていた。時間割作成や保護者対応などで連日深夜まで働き、死亡前1か月の残業が実際よりも少ないながら約114時間もあった。
記者会見の中で遺族の妻は「自己責任論を盾に、労働者に全てを委ねるような運営は会社の怠慢だ。早急な対策を願う」と訴えている。

この遺族の妻のコメントは大事な点を指摘している。教室長という立場だから運営の裁量権も本人にかなり任さていたのかもしれないが、「自己責任」という言葉一つで片づけてしまうのは誤りである。なぜ誤りなのかということを自分の言葉で明確に説明できるようにしていきたい。

「自由民権運動 研究で交流」

本日の東京新聞夕刊に、明治時代の自由民権運動をそれぞれの地域で研究する個人・団体が「全国自由民権研究顕彰連絡協議会」を結成したとの記事が掲載されていた。

記事によると、板垣退助の出身地の高地、多数の自由民権家が活躍した東京・多摩地区、運動が激化したケースの一つである秩父事件(1884年)の埼玉などから研究者52人が参加し、緩やかに交流と親睦を図るとのこと。

改憲論議が喧しい中で、自由民権運動を振り返ることは有意義なことである。GHQに押しつけられたと改憲を主張する輩こそ、千葉卓三郎の五日市憲法や植木枝盛の東洋大日本国国憲按をはじめとする私擬憲法の先進性を見るべきである。