卒業論文
一九九八年一二月一六日提出
ここでは戦前期において、あくまで大衆の中で運動を展開していった中野重治の運動を吉本隆明の「転向論」を通して分析し、今求められている「抵抗」について考えてみたいと思います。
目次
はじめに…一九九〇年代と一九三〇年代の相関から
第一章 一九三一年以前
一、「昭和」の始まりと共産主義への「転向」
二、中野重治と福本イズムと主体
第二章 一九三一年~一九三五年
三、「書く」という決意~「村の家」から
四、「転向論」の考察
第三章 一九三五年以降
五、ファシズムへの道
六、「汽車の罐焚き」論
七、「近代の超克」への抵抗~戸坂潤と共に
おわりに…中野の運動から学ぶことそして行動していくこと
はじめに
八九年に冷戦が崩壊し、今年で一〇年近い年月が過ぎようとしている。九五年は敗戦から五〇年ということで、村山富市元社会党首相の謝罪発言があり、戦争責任や原爆の歴史的位置付け、従軍慰安婦など第二次大戦の捉え直しが行なわれた年であった。また年初に阪神大震災、オウム事件などが発生し、戦後五〇年体制、戦後民主主義そのものの再構築をめぐって議論がなされた年でもあった。
その九五年に母校の早稲田大学にて学生団体主催による小池百合子議員の講演会が行なわれた。その席上で小池議員は「戦後生まれには戦争責任なんてない」という発言が飛び出し物議を醸した。それまで私自身過去の大東亜戦争なるものが侵略戦争以外のなにものでもないということは中等教育にて学んできたつもりであったが、戦後生まれの自らのあり方と行動とに結び付けて考えることはなかった。
そこで、私はこの年の敗戦記念日である八月一五日に靖国神社へ日本の侵略を賛美することに対する反対のビラを巻きに行った。結果はしかし、門に近づいた途端、真正右翼の突撃隊にぼこぼこに殴られて退散せざるを得なかった。私は身体的感覚でもって始めて、過去の侵略戦争を巡る歴史認識の対立の根深さを知った。
そしてその後、雑誌で加藤典洋と高橋哲哉、上野千鶴子の間で戦争責任と死者の弔いをめぐる議論が展開され、私も加藤典洋の『敗戦後論』を読み、そして私自身にとっての靖国神社、ひいては過去の侵略戦争に向き合う姿勢について少し考えるようになった。
加藤典洋は「敗戦後論」の中で憲法や天皇制の問題に触れ「欠けているのは、『ねじれ』をそのままに受けとめるというあり方である。それこそが、敗戦国の国民であるわたし達に新たに求められていた、勇気ある態度であったのではないだろうか。」と戦後生まれの世代に対し、「戦後責任」のあり方を説明している。私はこの論の抱えている「弱さ」が気に掛かり諸手を挙げて賛同するつもりはないが、加藤典洋がこの「ねじれ」に真摯に向き合っていた作家として中野重治をあげていたことは私の頭の片隅に残った。
そして九五年の十二月に入りオウム真理教に対して破壊活動防止法の団体適用の審議が始まった。この法案は戦前の治安維持法の焼き直しであり、戦後多くの学生・労働者の運動によって廃案に近い状態にまで追い込まれていたものである。
私もこのニュースを聞き、早速渋谷へデモに行ってビラを巻きに行った。すると「お前はオウムか」と通行人から厳しく詰め寄られた。私は違うと説明したが、その通行人は「遺族の悲しみを何とも思わないのか」と言い寄ってきた。私は「破防法自体の問題性を訴えたいのだ」と言ったが、その通行人は納得がいかない様子だった。私はその時、この日本という国はまだ感情倫理が支配的であり、オウムに対する破防法団体適用も通ってしまうのではないかと危惧した。国民総体を敵にまわすような仮想敵をつくり上げ、それをカモフラージュに国内を引き締めていく手法は戦前と同じである。
戦後五〇年の過去の侵略戦争への反省に生まれた憲法・教育基本法に則った教育は果たして根付いているのだろうか。
実際憲法で、たくさんのことが教えられねばならぬのだ。あれが議会に出た朝、それとも前日だったか、あの下書きは日本人が書いたものだと連合総司令部が発表して新聞に出た。日本の憲法を日本人がつくるのに、その下書きは日本人が書いたものだと外国人からわざわざことわって発表してもらわねばならぬほどなんと恥さらしの自国政府を日本は黙認していることだろう
(全集第三巻「五勺の酒」)
現在九〇年代も半ばを過ぎ、いよいよ二一世紀を迎えようとしている。中野も指摘している憲法に向き合う「ねじれ」は解消されたのだろうか。平和主義は確立されたのだろうか。
九〇年代に入って歴史教育分野で藤岡信勝の「東京裁判史観」の見直しという自由主義史観研究会が登場し、あの林房雄の「大東亜戦争肯定論」がふたたび脚光を浴びている。また小林よしのりの「戦争行きますか、それとも日本人やめますか」というキャッチフレーズが躍る報告文学のような「戦争論」という漫画の若い読者の間で人気を呼んでいる。政界では保保連合が成立し、日米ガイドラインの改定、周辺事態法の審議、自衛隊法改悪など着々と「戦争ができる国家」へと日本は進んでいる。
戦後から五〇年経った今、また日本は来る第三次戦争の「戦前」状況に日本はあるのではないか。
戦争という場合二つの戦争が考えられる。つまり今起きている戦争と今に起るだろう戦争とだ。「戦争になつたら」という言葉は、いまは戦争が起きてるのではないという前提にむすびついていると同時に、いまに戦争が起るだろうという予想にむすびついている。
そして今に戦争が起るだろうという予想は、ここでは、いまに戦争にならずにはいないという特定の判断にむすびついている。だから「戦争になつたら」という命題は、一つの単純な仮定であることを越えた或る何ものかだ。つまり問題は、いまに起らずにはいないその戦争にたいして取りだされている。
(全集第一〇巻「二つの戦争のこと」)
この文章は中野が三六年に書いたものであり、出版規制が厳しいため迂遠な文体であるが、直接に戦争についてだけでなく、戦争と結びついていく状況に対しても喚起を促している。この文章は六〇年前の昔のものではなく、今の私たちにこそ発せられているメッセージではないだろうか。過去の戦争責任に対する答えは、まさに私たちが今戦争に向いつつある現在という時間と社会状況に向き合っていくことである。
私たちはそのために戦中期の厳しい中で取り組まれた反戦運動に学ぶ必要がある。そして今後の反戦運動を展開していく中で、戦中期の運動を基点にするならば、それをプラスアルファにもプラスベータにも活用できるのではないか。
阪神大震災以後、オウム真理教への弾圧、それにともなう破壊活動防止法の団体適用の棄却、そして組織的犯罪対策立法の審議が始まり、「国際貢献」の美名の下での海外派兵と九五年以降日本政府は着々と戦争準備を行なってきた。これはまさに関東大震災に始まり、日本共産党への大弾圧、過激社会運動取締法審議未了、そして治安維持法、国家総動員体制の構築といった戦前に日本が歩んできたファシズムへの道を日本は今再び進んでいる。
この論において「転向」宣言をせざるをえなかった文学者中野重治が一五年戦争中いかに大衆の中で戦ってきたのか、彼が一九三〇年代という時代をどのように捉え、社会を分析し、行動してきたのか、そして私たちはそこから何を学びそして行動していかねばならないのか限られた紙幅であるが論考していきたい。そしてそれらを通して今の自分のものとして活かす形で、一九三〇年代における中野重治の主体性について明らかにしていきたい。
第一章 一九三一年以前
第一項 「昭和」の始まりと共産主義への「転向」
中野重治の主体性について論じる前に、近代日本文学における「主体」とはどのようなものであろうか。
日露戦争後、日本は富国強兵政策のもと、列強の仲間入りをしようと帝国主義を邁進していった。文学に領域においても、それまでの西欧文学の模倣への批判や、浪漫主義・写実主義の衰退から、自然主義文学と一般に呼称される「大正」的な文学が生まれてきた。芥川龍之介に代表される理知的な自己の掘り下げ、また中島敦の「山月記」といった自己と自己を見るもう一人の視線の混同などという分かりにくい「私小説」スタイルが当時の背伸びしたがりな知識人階級に受け入れられた。
しかし第一次大戦後、急速に労働運動が台頭してくることになった。すくなくともイデオロギー的にはヨーロッパのサンディカリズムの特徴をなす「反知性主義」が労働者・農民の中で大きくなっていった。従って、そこでは哲学者・文学者などのプチブルジョワ知識人に対する不信と嘲笑が支配的であり、知識人は「分極化する階級闘争にはさまれて没落に運命づけられている中間的市民」というふうに一括されたレッテルを貼られることになった。
一方で文学者の側も「私小説」というスタイルの行き着く先は、社会の巨大なメカニズムの歯車としてのみじめな自己の存在でしかなかったため、「青白きインテリ」といったマゾヒスティックな呼称をすんなり受け容れていた。自然主義作家の描き出す「私的現実」では、プロレタリア作家の社会的・階級的な現実図式に太刀打ちできなかった。
有島武郎は「どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何者かを寄与すると思つたら、それは明らかに僣人沙汰である。第四階級はその人たちの無駄な努力によつてかき乱されるの外はあるまい。」と二一年に「宣言一つ」を書いて命を絶った。
一方で二三年の関東大震災後、文学をめぐる社会状況も大きく変化していった。製本技術の大衆化により、雑誌が創刊され始め、一般大衆が読書を始める時代が到来した。そこでは大正期には作者も読者も知識人階級であったため、「自己表現」=読者の了解といった安定した「私小説的回路」が流通していたが、大衆雑誌が出回るようになり、「私小説」作家は自らの姿を今度は大衆の前に提出しなければならなくなった。ここで大正的な知識人の主体(自己意識)は消滅せざるを得なかった。
芥川龍之介は「僕は僕の将来に対するぼんやりとした不安も解剖した。それは僕の『阿呆の一生』の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、-僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の-大抵は僕の所作を書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訳には行かないであらう。」(「或旧友へ送る手記」一九二七年)と述べ自己の中産階級出身というコンプレックスをさらけ出す不安に耐えかねて自殺した。
いわゆる「大正」の終わりは関東大震災で区切られ、芥川龍之介と有島武郎の自殺でもって「昭和」が始まっていく。
それではこの第一次大戦後、「私小説作家」を死に追いやった共産主義における「主体」とは何だったのであろうか。
マルクスは戦前の日本における共産党運動に大きな影響を与えた初期著作「ドイツ・イデオロギー」の中で、私小説的「主体性(自己意識)」というものをフォイエルバッハへの批判として展開している。
わが賢明な哲学者たちを、次のようなことについて、すなわち、たとえかれら哲学者たちが哲学、神学、実体、その他すべてのこうしたがらくたを《自己意識》にとかしこみ、《人間》を、かれがいちどもそれに従属したことのなかったこれら空文句の支配から、解放してやったところで、《人間》の《解放》はまだ一歩も前進したわけではないこと、現実的解放は、現実世界のなかで、そして現実的な諸手段によって遂行することよりほかには不可能であること、奴隷制は蒸気機関と紡績機なしに、農奴制は農耕の改良なしに、けっして廃止しえないこと、一般の人々の解放は、かれらが衣食住を量質共に十分に保証されえないようなあいだはけっしてありえないこと、について啓蒙しようと骨折ったりなどはもちろんしないだろう。
フォイエルバッハの感性界の《把握》は、一面ではそのたんなる直観に、他面ではたんなる感覚にかぎられている。
(「人間の現実的解放の諸条件」)
マルクスはこの空虚なヘーゲル的思弁世界での観念的な論理を一蹴している。
しかしその場合の人間たちとは、かれらの生産諸力とそれに照応する交通の特定の発展によって、交通のもっとも拡延した諸形態にいたるまで規定されているところの、現実的な、活動している人間たちである。意識とは、意識された存在以外のものではけっしてありえない。そして人間の存在とは、かれらの現実的生活過程のことを意味する。
逆に、彼らの物質的生産と物質的交通とを発展させる人間たちが、こうした現実とともに、かれらの思考活動とこの思考活動の所産とをも変革するのである。意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する
(「唯物論的歴史観の本質、社会的存在と社会的意識」)
そしてマルクスは現実の社会構造の中で規定される意識こそを基点にして社会における生産関係から発した唯物論的歴史過程を紹介している。
そしてそのマルクスのいう「主体」を受けて梅本克己は「自己の対象化が、実践的世界と不可分の関係にあることを承認するかぎり、課題はまず、何はともあれ対象的世界と自分との世界の間にある拘束関係、その実践的な関係構造の把握の中におかれなければならない。マルクスにおける歴史的主体設定の論理に、階級性の契機が導入されざるを得ない必然的根拠もそこにある。いうまでもなく労働力商品化の基軸は、労働者からの生産手段の分離を発端として成立したものであるからだ。マルクスはそこでブルジョワ社会変革の歴史的主体をプロレタリアートの中に置いた。ブルジョワ社会における変革の主導勢力を、この社会の生産構造にもとづいて決定すればそうなるということである」と説明している。
この梅本の文章は戦後になって書かれたものであるが、第一次大戦前後の有島の農場開放などに見られるように、日本における労農運動の立場からの解釈は、共産主義のおける「主体」はまず「第四階級」の社会構造の変革の過程の中におかれ、それ以外の階級の者は必然的に消滅していく運命にあった。有島の自殺はこの当時の知識人階級の立場の不安を象徴したものであったと言える。
第二項 中野重治と福本イズムと主体
一九二四年、金沢の四高より、東大の独文科に入学した中野は一九二五年の夏に林房雄らの影響により新人会に入会し、秋には大学内で社会文藝研究会を創設した。
そして翌二六年にはマルクス主義藝術研究会を創立、犀星のもとに出入りしていた窪川鶴次郎、堀辰男らと共に同人雑誌『驢馬』を創刊した。同年の一一月には日本プロレタリア藝術同盟に参加し、中野は文学運動の主流の中軸として活躍していった。
この当時中野を始めとした「新人会」のメンバーが共産主義に関わっていったのは福本和夫の影響が強い。これまでは前項に述べたように知識人は労農大衆に対するコンプレックスに悩まされ、「激烈な階級闘争の間にはさまれた無力な青白きインテリ」という負い目をおっていた。そこへ福本は『マルクス主義』という雑誌の中で、レーニンが「目的意識性」と「自然成長性」の区別したことに依拠して、「日本の運動にとって緊急の課題というのは運動の大衆化ではない。一切の折衷主義や『ズルズルべったり』の妥協から訣別して、厳格な理論と世界観で労働者階級を武装させることがまず先行すべきである」と主張した。それまでの山川イズムを折衷・組合主義として批判し、理論闘争による前衛分子の分離・結合理論を展開していった。ここで初めて知識人階級は理論と世界観を労働者階級に植え付けるという積極的な使命を与えられたのであった。
インテリゲンチヤの名によつて呼ばれる一群の人間は、実にかような中間的存在-みずから闘争しつつある二大階級間に不断に動揺しているところの小ブルジョアジー-の一部分にほかならない。彼らは彼ら自身の利益の追求をただこれら二大階級間の闘争の道において見出さなければならない。この闘争の道においてするよりほかにどんな別の道もない。
(全集第九巻「四つん這いになつたインテリゲンチヤ」)
福本和夫のヨーロッパ留学はフランクフルト学派にて共産主義を学びマルクス初期から中期の著作の研究にあった。すなわち、彼の関心は前項で挙げた『ドイツ・イデオロギー』や『ヘーゲル法哲学批判』などマルクスの主体の形成過程の把握に注がれていた。
安吉は、岩崎の書いたものを草色表紙の『マルクス主義研究』でしばらく前から読んでいた。それはなかなかおもしろかった。『山田氏方向転換論の方向転換よりこそ始めるべからず』、『その後における結合はそれ以前における分離なくしてはあり得ず』というような題のつけ方が第一に彼にはおもしろかった。『あるものが今後いかにしてならねばならぬかとの問いは、そのものが現にいかにあるかとの認識のうちにすでに答えられている。』といつた風の考え方のスタイルもおもしろかった。安吉などよりも運動にずつと深入りしている連中が、岩崎の論文をしきりにバイブル扱いしている気持ちはまだよく呑みこめなかつたが、書かれている事柄よりも、それの書かれ方が安吉にはあざやかな魅力だった。
(全集第五巻「むらぎも」)
初期の中野の評論は福本イズムの影響をすっかりと受けている。
福井の農村の片田舎出身で旧制高校で留年して遅れて大学に入ってきた中野にとって、福本イズムのいう「分離」は過去との短歌や和歌といった詩的感情との分離として現れてきた。そして福本イズムとともに、マルクス主義にはじめて主体の問題が導入された。マルクス主義はたんなる世界観や歴史観ではなく、主体によっての自己変革、したがって「転向」としてとらえられたのである。中野にとって福本イズムのいう前衛分子の概念はまさに宗教のような絶対的な他者性をもってあらわれた。
福本は労働者階級を先導する職業革命家の中央集権的組織と規律をもった前衛党を作るというレーニンのボルシェビキ党の建設を支持した。よってまず左翼内での理論闘争を経て、山川イズム的な自然発生的労働運動の批判にかかっていった。
この「分離-結合」理論は「無産者階級の方向転換」の中で、「マルクス主義の理論と経験とは答えていう、-一旦自らを強く結合するために、「結合する前に先ず、きれいに分離しなければならない。と。「単なる意見の相違」-同一傾向内の-と見えたところのものを「組織問題」に迄、従って単に「精神的に闘争する」に止まりしものを、「政治的、戦術的闘争」にまで開展しなければならない。」と説明されている。
これを受けて中野は福本の意見を発展させる形で文学運動の理論をこの時期数多く書いている。
そしてそのために進撃者の陣営の浄化が、進撃者の陣営内の理論的斗争が、無条件の必要事となるだろう。観念の闘争に真実の関心を持つものは、その現象の本質を見るために、彼の闘争を残りなく戦いぬくために、自己の陣営内における理論的闘争を戦うために勇気ある一歩を踏みだすだろう。日本における無産階級文藝運動は、それをこのときに入つて始めるだろう。私は予言しよう、「そこにわれわれの任務がある。」
(全集第九巻「一つの現象」)わが国無産者運動の現発展段階が、わが国のいわゆる無産者的文藝運動の自然成長的過程にたいしていかなる関係に立つか、したがつてまたわが国無産者運動にむかつてわが国無産者的文藝運動はいかなる条件のもとに真に合流しうるか、このことが全階級的に究明されないかぎり、わが国無産者的文藝運動はそのあらゆる進展にかかわらず、なおいまだ自然成長的成長過程を進まざるをえず、自然成長性を揚棄して目的意識を戦いとることをなしえないであろう。
(全集第二巻「『検察官』の上演に関連して」)われわれの藝術は今何をなすべきか。それは簡明ではないか。彼は全人民を、全人民の感情を、一定の方向へと激成して行くためにこそその全身を捧げねばならないということこれだ。
(全集第二巻「結晶しつつある小市民性」)いまわれわれにとつて問題なのは、「ではわれわれにおけるいかなる歴史的要素が自分自身の原因の上に反作用するのか。」
「われわれにおけるいかなる歴史的要素はいかようにつくりだされつつあるのか。」
「われわれの社会的存在は今いかに存在し、われわれの社会的諸関係は今いかに置かれ、われわれの生活諸条件は今いかに条件づけられているのか。」
「そしてそれによつて決定されるわれわれの『一言にして言えば意識』-それが藝術に内容を与える-は何であり、それの歴史的特性は何であるのか。」
(全集第二巻「芸術に関する走り書的覚え書」)
一九二七年のコミンテルンによる福本イズムの否定以降も、中野はふるさととの「分離」、身内での理論闘争による「分離」を繰り返し、そこから外れるものに容赦ない攻撃を加えながら真の前衛党を築きあげ、労働者階級からの文学における理論闘争に埋没していった。この点は蔵原惟人との「芸術大衆化論争」として知られている。この論争は蔵原惟人の主張する大衆の組織的獲得のための宣伝煽情の文学や、政治のための文学のありようの中で、文学の位置づけをめぐって争われた。中野は自らの詩歌的感情を鋭く自己変革的に訣別し、文学運動を自らのものとして考えていた。
前衛党の党員による「文学」ではなく、労働者層から発展した「文学」でもなく、中野にとってはまず自らを「文学者」と規定し、そこを足場とした「文学運動」であったため、「文学」を捉える視点の違いが当時の論争の主な原因であった。青野季吉や蔵原惟人との論争の中で、中野は自らの発言によって自らの立場をどんどん厳しい方向へ置かざるを得なかった。中野の主張は常に自らの主体を行動の中にしか存在し得ないような最左派に追い込んでいくものであった。
第二章 一九三一年~三五年
第三項 「書く」という決意~「村の家」から
中野は一九三二年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に対する弾圧によって逮捕された。そして三四年三月、東京地裁で懲役四年の判決が下され、東京控訴院法廷で日本共産党員であることを認め、共産主義運動から身を退くこと約束し、求刑四年、懲役二年の執行猶予五年の判決を受けて即日出所した。「転向小説」と呼ばれる「村の家」において、父孫蔵は転向し出獄して村に戻った息子勉次を次の言葉で問いつめている。
「本だけ読んだり書いたりしたつて、修養ができにや泡じやが。おまえがつかまつたと聞いたときにや、おとつつあんらは、死んでくるものとしていつさい処理してきた。小塚原で骨になつて帰るものと思て万事やつてきたんじや」
「おとつつあんらア何も読んでやいんが、輪島なんかのこのごろ書くもな、どれもこれも転向の言いわけじやつてじやないかいや。
そんなもの書いて何しるんか。何しるつたところでそんなら何を書くんか。いままで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。
それや何を書いたつて駄目なんじや。いままで書いたものを殺すだけなんじや。
「どうしるかい。」
勉次は決められなかつた。ただ彼は、いま筆を捨てたらほんとうに最後だと思つた。彼はその考えが論理的に説明されうると思つたが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。彼は一方で或る罠のようなものを感じた。彼はそれを感じることを恥じた。それは自分に恥を感じていない証拠のような気もした。しかし彼は、何かを感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまいと思つた。これは彼らの組織の破壊をとおして、自分の経験でこの二年半のあいだに考え積つたことである。
自分は肚からの恥知らずかも知れない。しかし罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破つたらそれこそしまいだ。彼は、自分が気質的に、他人に説明してもわからなぬ破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけた淋しさを感じたが、やはり答えた、
「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」
孫蔵は非常に興ざめた顔をして大きな眼の瞼を奥の方へすつこましていた。勉次はこの老父をいかにむごたらしく、私利私欲のために、ほんとうに私利私欲-妻をも妹をも父母をも蹴落すような私利私欲のために駆りたてたかを気づいていた。静かな愛想づかしが自分のなかに流れてきた。
(全集第二巻「村の家」)
この「村の家」の作品で中野は亀井秀雄がいう、「書く」ことを正当化するような何ものもないギリギリのところを出発点として、書くことでおのれの存在証明をしなければならなかったのである。
また満田郁夫は「中野重治の警察、予審、第一審での戦いもまた、合法性確保の戦いという側面をもっていた。」と述べる。「中野重治が山積する証拠をおしのけて自身が党員であることおよび党関係の事実を否認してきた、おそらく同士にも理解されなかったろう孤独な戦いは、党員であることを認めるだけ、あるいはすでに確定しているいくつかの事実を認めるだけで、転向と当局に認めさせ、出獄できる条件を作ってきたのだ。」として中野の条件闘争に理解を示している。
中野は逮捕以前の評論の中で竹田麟太郎の「青年」を引き合いに出して、文学作品に対する作者の主体について厳しく問い詰めている。
こうした描写は何を意味するか。それは作者の事物にたいする関係が全然無関心的であることを示す。一人の青年の動きにたいして、作者は一人の傍観者としてとどまっている。かような青年の本質がなんであろうとも(中略)作者はそれを明確に規定することができない。また認識し規定することをあえて避けている。
実にかような作者の態度が、この一篇のこの描写様式を決定したのである。またかような態度を採るかぎりかような描写様式が採られることは必然である。かくてわれわれはこの作者にむかつて次のように言わなければならない。
「君はすべての事物から君が独立しているような顔をしている。
二つに引き裂かれた世界のなかでは、物はすべてそのどつちか側から見られなければならない。見られないわけには行かない。それなのに君は、君だけが、坊主や学校教師のいう神や仏のように、生きた人間からは分離して、全くの第三者として立つているような顔をしている。
(全集第九巻「四つん這いになつたインテリゲンチヤ」)
小説という架空の世界であろうとも中野は現実の階級に規定された文学者として作品を書いており、その作品世界の描写態度に文学者としての主体性が問われるのだという創作態度を中野は持ち続けた。またこの態度は「転向」してからも変わることはなかった。というより満田郁夫のいうようにそのために「転向」をあえて表明したのだ。
出所後の作品の中でも作者自らが登場し、作品世界の人物から「転向」を問い詰められるなど徹底した主体を中野は読者にさらしている。やはり「書いていきたいです」という中野の「書く」という闘いは続いていく。
しかしまた書きたかった。
「やるか。腕だめしに……」
私は眩いするような気持ちで動揺した。
「しかし、やはり、書くか。いったい……」と私は動揺した。
「ひとつ書くかな」と私はいつた。
(全集第二巻「汽車の罐焚き」)
物語人物である「鈴木くん」の鉄道社会の説明を聞き作者である「私」は「立派な作家たちのその立派さ、深さ-その腹立ち、愛憎、人に対しては無論、その自分に対する厳格、そういう、作家の根本的なところで自分に全く自身が持てないでいた」と迷いながら、また悩んでいる姿を読者の前にさらしながら中野はこの作品で粘り強いやる気を見せている。この時期中野は治安維持法の執行猶予期間であり、今度捕まったら確実に死が予期できたはずであり、死をも覚悟した決意がこの部分に表れている。
「村の家」にしろ「汽車の罐焚き」にしろ、自己の転向と正面から向き合ったところから中野のは文学者として作品を連ねていく。
出獄後すぐに、中野は貴司山治への反論として次の文章を寄せている。
弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林のいきかえつてくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。
僕らは、そのときも過去は過去としてあるのであるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。
(全集第一〇巻「『文学者に就いて』について」)
ここで中野は弱気を出したらファシズムに加担することになると不退転の決意を述べている。「革命の党を裏切りそれにたいする人民の信頼を裏切つた」という「消えぬ痣」を背負って大衆に自らの「みすぼらしい」姿を晒して中野は再び立ち上がっていくのである。中野にとって「書く」ということは物書きとして生計を立てていくことであるが、同時に死の恐怖と戦っていくことでもあった。獄中における死との戦いを出所後も文学者中野は引き継いでいくのである。
第四項 「転向論」の考察
中野は戦後日本共産党に復党してからは、獄中死した小林多喜二や「転向」宣言をしなかった宮本顕治や福本和夫に負い目を感じていたのか自らの「転向」について本音を語ることはなかった。
そこでこの項では私が賛同している吉本隆明の「転向論」を土台として、若干の補足を加えて中野の「転向」について捉え直してみたい。
佐野・鍋山の転向とは、この田舎インテリが、ギリギリのところまで封建制から追いつめられ、孤立したとき、侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか。
吉本は佐野・鍋山らの転向について「大衆からの孤立(感)が最大の条件」であったとし、その返す刀で小林、宮本、蔵原らの所謂「非転向」者を「かれらの非転向は、現実的動向や大衆的動向と無接触に、イデオロギーの論理的なサイクルをまわしたにすぎなかった」と「現実の構造につきささってゆく思想的実体はない」と片づけている。
「村の家」が転向小説の白眉である所以は、主人公勉治と、父孫蔵の対面を通じて、この日本封建制の実体の双面を何ほどか浮びあがらせているからであり、「お父つあんな、そういう文筆なんぞは捨てべきじやと思うんじや」という孫蔵に対して、「よく分りますが、やはり書いて行きたいと思います。」とこたえることによって勉治があらためて認識しなければならなかった封建的優性との対決に、立ちあがってゆくことが、暗示せられているからである。
政治的活動を放棄するという上申書を逆手にして立ち上ろうとする鮮やかな文学者の例が、ここにあるのだ。「村の家」の勉治は、屈服することによって対決すべきその真の敵を、たしかに、眼のまえに視ているのである。いいかえれば、日本の封建制の優性にたいする屈服を対決すべきその実体をつかみとる契機に転化しているのである。
吉本は「中野の転向(思想的変換)を佐野、鍋山の転向や小林(多)、宮本、蔵原の「非転向」よりもはるかに優位におきたい」と結論づけている。
事実戦争が終わった四五年には「非転向」は全国で一三名であった。この一三名の人たちの倫理的強弱や信念が強いということで戦前の大衆的動向がどういったか、時代の流れがどういったか方向づけることはできない。
石堂清倫のいうように、中野は「転向」によって一つの妥協と後退に踏み切ったが、正面肉迫戦を断念して、迂回しながら敵の本陣に接近しようとした活動家であった。「非転向」者のように「何からの転向」でもなく、「何への」転向でもない不動の否定性原理は何一つ生み出すこともなかったのである。
この吉本のいう「転向とはいえぬ転向」に関して、以後中野が獄中で妻や妹と交わされた書簡を検討して明らかにしていきたい。
世間のことというついでに言うが、刑務所はシャバでなくて、刑務所外がシャバであり社会であるという考えは、考えて見るまでもなく頭からの間違いで、刑務所こそ(いわば)社会そのもののコンデンスされたものなんだ。
(中野重治「愛しき者へ」澤地久枝編 上・二七頁 中央公論社)お前さんからの最初の手紙をこうした所で受け取らねばならぬこういう状態そのものが我等の結婚なのだ。
(同右・三一頁)中野は刑務所においても常に社会と自分を取り巻く関係について考えていた人物であった。
失うべくは何ものもなく、獲得すべく一切を持ってるのがプロレタリアートだが、私達の家などは「失うべく多少を持ち得るべく何一つ持たぬ」階級に属している。しかも一方我々は、そうしたところから出て自分の運命をプロレタリアートの運命に結びつけたものであり、そのプロレタリアートは、現在百二十万の失業者を抱えて戦っているのであるから、我々がノンキに暮らし得ぬことはこれより理の当然でしかない。
(同右・四六頁)
これが獄中にある者の意見だろうか、私は驚嘆するしかない。中野は刑務所にあっても、刑務所こそがファシズムの装置であるとの認識に自分を置いている。この点について中野が出獄後すぐに書いた文章が刑務所に関する注文であったこと(全集第一〇巻「多少の改良」)に注意を払わねばならないだろう。
俺は俺の持っているシャルル・ルイ・フィリップ風な、観念的な、静止的なものを叩きこわして行こう。
(同右・一三八頁)
そして小林多喜二の死を知り、父親の息子に対する強い憤りに対しては次のように反論している。
我々が勇気をもつ限りは、この世は生きて苦しむに甲斐あるところだ。そうしてこの生きて行くというところにすべての善と美とがある。生きて生ききらなければならない。ある場合に兵士がたとえ卑怯といわれても逃げのびなければならないのは、この生きて生ききらねばならぬという理由があるからだ。
(同右・三九六頁)
第一審での「懲役四年、未決通算三百日」の判決に対しては次のように語る。
しかし問題は、この三年半をどうしてすごすかにあるのではない。その後(三年半たった後の)の仕事、仕事、仕事の二ヵ年のための準備としてこの三年半をどう生きるかというところにあるのだ。
(同右・四九四頁)
中野は獄中においても自らを社会構造の中での文学者、夫、兄として位置づけて、書いていかねばならないという自らに課せられた仕事が出来ないことに対していらだちを隠さない。
中野にとって「転向」とは文学者としての立場性の問い直しであった。それは戦前日本共産党員として福本イズム的な前衛概念に捕われていた自分のあり方の再確認という作業であった。獄中というある意味隔離された作品世界を出て、現実の社会の中で、戦争へと刻一刻進んでいる世相を批判するという文学者としての責任を果たすために中野は出所してきたのである。
このことは「汽車の罐焚き」の中の次の一文でも察することができる。
私は、人々が私を取りまいていてくれるのを感じた。ある人は下獄するのに私を思い出してくれた。私を取りまいて……私を中心にではない。しかし私も人人にまじつてそれらの人を取りまきたい。
(全集第二巻「汽車の罐焚き」)
共産党員であったことを認め、出所してきたことは中野にとって「転向-非転向」の戦いは終結ではなく、新たな戦いの出発点であった。中野は「獄中非転向」を継続するという文学者としての「逃避」に釘を刺して自らより厳しい現実に身を置くことになったのだ。
第三章 一九三五年以降
第五項 ファシズムへの道
一九三〇年代のファシズム国家がいかに人民の管理・弾圧に向かっていったのか。そして中野の「やはり書いていきたいと思います」という行為がいかに強い決意が必要とされたのか。この項では中野の主体性を論じていく上で欠かせない社会状況について論じてみたい。
三〇年代に入って日本は急速にファシズムに傾斜していくことになる。二七年の金融恐慌、二九年のニューヨークでの株価大暴落を契機として世界大恐慌が発生し、日本は財閥による軍需産業を中軸とした戦時国家独占資本主義へ移行していく。
関東軍参謀板垣征四郎、石原莞爾らは「満蒙領有」を主張し、新たな市場を求め、三二年南満州鉄道爆破事件を中国側の仕業として侵略戦争を開始していく。そして「満州国」を建国し、中国東北の全面的な植民地支配を開始していく。この時関東軍に対して天皇は「朕深く其忠烈を嘉す。汝将兵益々、堅忍自重以て、東洋平和の基礎を確立し、朕が信倚に対えんことを期せよ」と勅語を与え、柳条湖事件以降の軍事行動を「自衛のため」の行動として讃えた。これが後に「神=天皇の道」を世界に広めていくという「八紘一宇」思想と結びついていった。当時日本政府の加藤完治や東条英機らは日本の中で最も虐げられた階層である土地なき零細農民に「満州に行けば十町歩の自作農になれる」と喧伝し、「満州国」植民地に農業移民を送り込む計画を推進していった。当時の政府は来たるソ連との戦争に備えて、ソ連と国境を接する満州北部および東部に日帝の尖兵とて農民を配置していった。
近代戦争は総力戦であり、国家が戦争体制に移行していくには直接戦争に関わる軍隊や戦艦、爆撃機などの兵力、兵器をそろえるだけでなく、国内において反体制団体の弾圧や思想統制、トップダウンの政策決定機関の構築が両輪で行なわなければならない。
三七年の蘆溝橋事件を契機として中国に対する全面的な侵略戦争を開始した日本は、中国東北、朝鮮の全植民地と占領地において皇国化政策を推し進め、総力戦体制の確立をいそぎ、植民地の経済的収奪と民衆支配を急速に強化していった。
一般に戦争体制の確立には国外にむけた兵器、武器、弾薬だけでなく、国内での反乱分子の弾圧やトップダウンの体制構築を両輪で行なわなければならない。
二五年普通選挙法とだきあわせに制定された治安維持法は、敗戦にいたるまで国民の言論・思想・学問・信仰の自由を抑圧し、暗黒と恐怖の世界をつくりだした。
治安維持法の第一条は「国体を変革し、また私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りて之に加入したるものは、十年以下の懲役または禁錮に処す」と規定している。「国体を変革」「私有財産の否認」するという名目のもとに、天皇制と資本主義制度に反対する日本共産党、さらにはその指導下にあった労農運動・青年運動・文化運動を弾圧することが、同法の直接の目的であった。
このたびの事件は、治安維持法というものが本来になにを目標としているかをみずから明らかに暴露した。それは治安の維持を目標にしたものではなかつた。つまりそれは、日本労働者階級の階級的成長におびえて、まずその階級的先頭部分を破壊することによつて、全階級の前進をくいとめようためのものであつた。
(全集第五巻「むらぎも」)
二六年の日本共産党員が大量検挙に続いて、その残党がまた共産党の再建を目論んでいるというので、田中内閣は一九二八年共産党勢力の一掃を目的として治安維持法の改悪を図った。「国体を変革」し「私有財産の否認」という構成要件を「結社の目的遂行のためにする行為」とあいまいな要件に改悪し、以後官権の側の恣意的な拡大解釈によって弾圧対象がいっそう拡大していくことになった。事実三〇年代前半の徹底した弾圧によって日本共産党は壊滅した。
三六年には思想犯保護観察が公布され、治安維持法で検挙され、起訴猶予、執行猶予、または刑期満了で出獄した者は、不断に警察の監視下におかれ、移動の自由すらも制限されるようになった。中野も宮本百合子や戸坂潤らと共に執筆禁止処分を受けた。
さらに三五年のコミンテルン第七回大会で反戦・反ファッショのための国際的統一戦線の結成が決議され、日本にもこの人民戦線関係の文書が流入されると、日本の無謀な戦争政策やファッショ化の危険に批判的な立場人々も合わせて治安維持法で検挙される事件が続出した。将来起こりうるべき仮想の可能性に対する予防的懲罰を目論んだ架空の治安維持法ともいうべき思想弾圧の嵐が吹き荒れた。
そして治安維持法による思想弾圧体制の総仕上げは太平洋戦争直前の四二年三月の同法の根本的な改悪によってなされた。この改悪によって適用対象の拡大と罰則の強化がなされ、新たに予防拘禁制度が導入された。これは治安維持法違反で刑に処された満期出獄する者、また保護観察中のもので再犯のおそれのある場合、予防のため、予防拘禁所に拘禁するというもので、思想犯を半永久的に強制収容しようとするものであった。
前章で、刑務所こそが社会だという中野の書簡に触れたが、時代は社会こそが刑務所になるような状況であった。この「超」治安維持法下において、政府に反対的立場でいるということすら困難な時代に中野はあえて「第一義」の道を進んでいくのである。
第六項 「汽車の罐焚き」論
この項では中野の一九三七年の作品「汽車の罐焚き」について詳細に検討してみたい。
この作品では「私」が「鈴木君」に出会う場面から始まる。その「私」を登場させる中野は当時どのような意識であったのだろうか。
もう一度私の問題に帰れば、私は私の知つている革命的文化運動の短い歴史を書いて行くつもりではいるが、同時に都市と農村との大衆生活を書いて行きたい。(中略)私の書きたいことは、あくまで問題である。世相-人間生活の描写にあたつて、それにたいする自己の特定の考え方、反応の仕方をぬきにしてそれをするということは私にはできない。(中略)ともあれ私は、(中略)勤労する多数者の日常生活を知ること、それにたいして自分を棚に上げておかぬ責任ある態度で対すること、そこから描写を引きだすことが現在痛切な欲望である。
(全集一〇巻「『現在可能な創作方法』ということ」)
「私」がこの作品で徹底したリアリスティックな手法で「鈴木君」の話を記述していくのは、とりもなおさずそれを記述する中野自身の逃げる場所のないギリギリのところで書かれた態度が反映されたものであるからだ。
またこの「私」は文学者中野自身を指しているものと考えられるが、なぜ中野の作品には作者自らが作品世界に登場せねばならないのだろうか。
ところが労働者運動を描くためには、その人のたましいが労働運動にじかに沿うていなければならぬ。じかに沿うためには、そのことを表白し得る勇気と実践的基礎とがなければならぬ。文学者の場合、この実践的基礎ということがどれだけ特殊なものになるにせよ、「転向」は、この勇気と実践的基礎とを作者から奪つていた。作者が我からそれを捨てたのであつたから。そういう状態で作者は労働運動を描こうとした。
(全集第一一巻「細川書店版『汽車の罐焚き』うしろがき」)
木村幸雄はこの点について「『汽車の罐焚き』で中野重治がぶつからねばならなかったもっとも困難な文学的課題が、労働者運動を『客観的な一つの叙事詩』として仕上げることと、それを仕上げようとする自己の作家主体のありようについての〈私〉の自己確認・自己表白とを、いかにして一つの作品にないあげるか」という中野の主体について論じている。
中野自身の労働運動への関わりが決して傍観者にとどまらず、「当該」としての意識の表白こそが文学者としてのあり方であると捉えていた中野の創作態度がここに結実してのである。
杉野要吉はこの作品の主題について「『汽車の罐焚き』の中の元罐焚きの鈴木は、『厖大な国家資本』のもと、そこにはただ『上長』があるだけの『二十万人近い人間』が『しっかりと抱きすくめ』られた巨大な国鉄の機構の下積み労働者であるが、彼もまた帝大出の運輸事務所長や上長のみている前で、疲労のあまりついしでかした失敗が理由で、その後の転勤から首切りのコースをたどらされることになる。もう一人死んだ松井のばあいも含め、それらのコースは、まさに国鉄労働者を抱きすくめた『鉄道大家族主義』の『根底』にこそねざして導きだされることになっているはずであった。そして昭和初期から十年代を通じて、日本の『社会組織の根底』をなしていたものがじつに日本天皇制にほかならぬとするならば、中野重治がこれら国鉄下級労働者たちの落としこまれてゆく不幸な姿の描出」を扱った作品であると述べている。
以後、杉野要吉の論に補足して論を進めていきたい。留意しておきたいことは、ここで中野が描く機関車という乗り物は人間の力でしか動かせないものであり、しかし同時に人間の力では止めることができないものである。三一年の柳条湖事件以降、日帝の中国侵略の移動の手段は機関車であった。当時の中野は機関車で働く人々を中国侵略に邁進していく帝国主義に組み込まれた労働者として描き出している。
またこの作品の中で機関車というものは同時に、前項で述べたように、当時の零細農民移住の手段でもあった。その移住は農民にとって日本政府の詐欺に近い宣伝効果によって土地を持てるという期待にあふれていたものだった。中野は鉄道会社を当時の日本の国家になぞらえ、そして機関車を中国へ侵略していく帝国主義の具現化として描き出した。またその機関車に乗る乗客として、この作品では直接に描出されていないが、土地を得んとする農民の姿を描いている。
機関車に乗るという希望はいつさいの不安を吹きとばした。
機関車に乗るということは希望を与えてくれる「知識の父」であり、土地を与えてくれる「生計の母」であった。中野はこの作品で「下からのファシズム」の危険性を訴えているのだ。三七年に盧溝橋事件が起きたとき国内では広大な中国への経済進出が成功したということでお祭り騒ぎであった。「同じ阿呆なら踊らにゃ損」といった日本人の感情的な世相や、時代に乗り遅れること、世間と違うことを恥とする不和雷同的な国民感情に対して中野は危機感を抱いているのである。そして案の定そのお祭り騒ぎが侵略という側面を国民の眼から隠した。
私の言いたかったことの一つは、戦争というような高い問題が一見戦争にかかわりのないような生活面にまで浸潤していることの発見が大事なこと、第二は、戦争を起こすということについても支配階級の内部に複雑な衝突があるのであつて、それをよく知り、そして第一のことの理解の上に立つて作品を書けば、それは発表場所をも見つけることができ、次第にその力を蓄えて行けること、これに気づくことが大事だということ、こういうことを言いたかつたのであつた。
(全集一〇巻「『現在可能な創作方法』ということ」)
中野はまずこの時期、日本のファシズムの綿密な分析が必要なことを説いている。こと戦争のことについてはムードに流されることなく、支配階級のどこに問題があり、どこから指揮系統がなされているのかについての分析必要だと述べている。戦争は海の向こうの中国侵略だけでなく、国内における侵略の状況を真摯に見つめることが必要だと言っているのである。
「するとあれですが。機関手がいちばん大事だつていうことになりますか。」
「いいえ!」鈴木君はきっぱりと否定した。「しかし無論、機関手が動かなければ列車は動きませんよ。切符なら誰だつて売れるようなもんですが」
「だつて大事なことでしよう? 世間じや何も知らない。切符売りや改札のことなんかしか知らない。」私も酔つてきていつそうおしやべりになつた。
「いい気になつて窓で挨拶なんかしてるでしよう。それでも何でも、機関手が動かないことには汽車そのものが駄目だつていうんだから。大事なこつちやありませんか。」
「大事ですよ。だから書きたかつだんです。」
当時の日本社会の姿を提出した中野は、ここで一番最下層におかれている罐焚きの姿に焦点をあて機関手が動かないことには汽車そのものが動かないという点を重ねて強調している。
しかし結局運転は動力と制動との扱いだつた
中野はここにおいて「機関手-動力」と「罐焚き-制動」という鮮やかな対立を提示している。機関車そのものが人の手でしか動かせないものであり、「機関手が動かな」いことには「汽車はそのものが駄目だ」とあるが、その機関車の「制動」を「罐焚き」が担っていると中野は示すのである。機関車を動かすことで精一杯な機関手・罐焚きの描出があふれる中、その「制動」たる「抵抗」を示す労働者の姿がぽっと浮かび上がってくるのである。中国へもうもうと侵略していく帝国主義と、それを止めることのできる「制動」としての最下層の労働者運動が見えにくいながらも強い姿で描きだされている。
この小説は(中略)労働組合がつぎつぎにこわされ労働者の要求はすべて無視され、労働者が何かを要求することは天皇にたいして叛逆することだという思想が強まろうとしてきた時代に書かれた。
(中略)そうではあつたが、労働者運動は完全にはやぶられていなかつた。階級意識のある労働者らは、破壊された組織をたてなおし、失敗から学び、どうしてでも運動をつづけ発展させようとしていた。
(全集第一一巻「細川書店版『汽車の罐焚き』うしろがき」)
中野はこのファシズムの暗黒の中に於ても、細々と継続された-まさに制動部品のように表に出てくることはなかったが-労働運動の、全体主義に流れまいとする「抵抗」の姿を描いているのである。そして「文学者」としての自らの置かれた苦しい立場を晒しながらも、労働者の「抵抗」を自らが描くという主体的な労働運動への関わりが表わされている。
第七項 「近代の超克」への抵抗~戸坂潤と共に
一九三六年の二月二六日、第一近衛師団の一部の青年将校による二・二六事件以降、日本はいよいよ戦争体制に入っていく。
「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育つた思想が遂に実生活から袂別する時が来なかつたならば、凡そ思想といふものに何の力があるか」という小林の言葉はそれを証拠だつている。実生活から生れて育つた思想が「遂に実生活から袂別する」というのはどういうことかわからないが-そしてわからない言いまわしでなしに小林は何ひとついえない。
(全集第一〇巻「閏二月二十九日」)
二・二六事件を受けて、中野は社会との関わりのないところ(文学の世界)に埋没し、そこで他者性のない自分らの世界を築き上げていった中野は横光利一や小林秀雄らに対し、「こういう反合理主義は事の理非曲直を問わぬ、むしろそれを問おうとすることそのことにたいする鎮圧として切りすて御免、問答無用、理性的に理由づけられぬ暴力支配の文学的・文学理論的反映にすぎない」とし、「こういうでたらめな、反論理主義的な傾向にたいして私は戦つて行きたい思う。」と述べている。二・二六事件を受けて、直接に軍部批判ができないにしろ、当時あらわれつつあった「自由主義」を批判するという中野の時代分析は特筆すべきものがある。
そして「第一義」の道を進んでいくと決意した中野は当時侵略戦争遂行を支える国策文学運動に加わっていった「転向」知識人に対し攻撃を開始していく。当時の知識人の転向はコミュニズムからの離脱、さらには社会民主主義からの離脱、そうして最後にはブルジョワ民主主義を含む一切の近代欧米的世界観からの離脱へと雪だるまのようにふくらんで行った。そして行き着くところは「世界に冠たる日本の国体」と民族共同体への輝かしい歴史への帰依であった。
雑誌「文學界」は一九四二年九・一〇月に「近代の超克」というシンポジウムを開催した。そこに参加した文学者・哲学者の多くはファシズムともコミュニズムとも違う「自由な立場」を主張した。共産主義の徹底した弾圧と、治安維持法による思想管理の中で、この「自由主義」は当時の大半の知識人階級の耳目を集めることになった。しかしこの「近代の超克」に集う文化人の多くが、当時の欝積した日本社会の根本的な打開の道として、大東亜共栄圏を支持し、軍国主義の中軸を担うようになった。
私はこの時代に、戦争荷担へと流れていった知識人の中で抵抗を示した人物として中野重治と戸坂潤の二人を高く評価したいと思う。二人は講演会で一度対談したきりで直接的な交流はなかったが、お互い異なったスタイルであったが、一方は文学者として、一方は哲学者としてともに「制限された」言葉でもって早くからこの「自由主義」の流れを徹底して批判していった。
なぜこの社会、思想ともに大きく動いていったこの時期に両者は冷静な判断を下し得たのだろうか。
それは二人がともに日常生活から史的唯物論を展開し、共産主義思想を「肉体化」していたからだ。
戸坂は思想というものについて「空疎な興奮でもなく、平板な執務でもなくして、生活は一つの計画ある営みである。一定の出発と一定の目的とを有つ歩みで常にあるであろう。この意味に於て、歩みは道を逐うて運ばれなければならない。一切の生活に於けるこの特色は、恰も方法という言葉によって代表される。吾々のどのような労作に於いても、方法は根本的な意味を有つ」と述べている。
そして思想のあり方について「現代の日本に於いては、凡んどありとあらゆる思想が行なわれている。日本・東洋・欧米の、而も過去から現在にかけてのあれこれの人物に基く思想を取り上げるならば際限がない。日く二宮尊徳・山鹿素行、日く孔子、日くニーチェ・ドストエフスキー、日くハイデッガー、日くヤスペルス、日く何々。こう並べて見ると、こういう所謂『思想』なるものが如何に無意味に並べられ得るかに驚かされるだろう。だが、この種のあれこれの思想はどれも、実は高々一個の『見解』といったものにしか過ぎないのであって、まだそれだけでは社会に於ける一貫した流れを張った『思想』ではない-思想とはあれこれの思想家の頭脳の内にだけ横たわるようなただの観念のことではない。それが一つの社会的勢力として社会的な客観的存在をもち、そして社会の実際の問題の解決に参加しようと欲する時、初めて思想というものが成り立つのである」と述べるのである。
戸坂はこのような言葉で日常生活に根差した思想と、行動していくことで生まれてくる思想の本質を提示した。現在のポストモダンが支配的な哲学世界に比べ非常に地味な思想家である。しかしだからこそ戸坂は一九三〇年代という流動的な時代状況の中で唯物論研究会を主催し、粘り強く社会に警句を発することができたのだ。
一方中野もこの時期に「歌のわかれ」を書き、自らの感覚的出自と史的唯物論について丁寧に記している。中野は常に「文学者」として、足場をしっかり見定め、社会の中で自分のいる位置を確かめつつ、流れに流されず踏みとどまっていく粘り強さが光っている。
そして、執筆禁止を食らおうとも、予防拘禁制度に引っかかろうとも、横光や川端のように「トンネルの向こうは銀世界だった」と自らの責任を問うことのない世界に逃げることなく、文学者としての社会的立場から主張を展開していた。
そうした中、この厳しい時代を超えていこうとしたのが林房雄や小林秀雄らの「文學界」を中心とした作家たちであった。現実からの逃避と結局は体制の中での自由な立場を目指した先が、「近代の超克」であり、大東亜共栄圏賛美へと流れていったのだ。
この「自由主義」に対して戸坂は明確な分析を三六年の段階で行なっている。
私に云わせれば、マルクス主義の主流に圧倒されたといふかの文学者の主観的意識は、現象的な事実としては兎に角、本来の筋から云へば、結局彼等自身がマルクス主義に対する一種の認識不足から来た錯覚に由来するのであり、従ってここから来た自由の呼吸も亦、つまり錯覚に他ならなかったのだが、この反マルクス主義的錯覚であった「自由主義」も他方所謂ファッシズムに直面させられる時、少なくとも主観的には、反ファッシズムの意識としての自由主義におのづから変貌せざるを得なかった。-かうしたものが所謂行動主義=能動精神が有つといふ所謂自由主義の特性であって、普通簡単に、行動主義=能動精神がマルクシズムとファッシズムとの中間に位置するなどと云われてゐることの内容なのだ。
所が注意すべきは、この行動主義が主観的にどんなに反ファッシズム的意識によって動機づけられてゐようとも、それが反ファッショ的反抗となって現われる以前の資格であった反マルクス主義的意識は、主観的に到底払拭されるべくもないといふ事実である。そして而も、それが元来マルクス主義なるものに対する認識不足による錯覚から出発したのだったから、この反マルクス主義によっては、マルクス主義とは他でもない、極めて一般輪郭的な而もごく卑俗な通念による所の「マルクス主義」でしかあり得なかった。このことは、少しも怪しむに足りないだろう。マルクス主義と云へば何かレディーメードな着物のやうな一様な公式主義なものだと、この自由主義は決めてしまってゐたのであり、又今でも現にさう見える部分を多分に示してゐる。
所で今は海のものとも山ものとも判らないから本当に進歩的なのか反動的なのかまだ判らない、マルクス主義へ同伴又は寄与するのか、それともファッシズムへ走るのかまだ判らないと云ふかも知れないが、併し大事なことは行動主義が今のままの一般抽象にいつまでも止まる限り、或ひは今のままの一般的抽象性をそのまま発展させる限り、行動主義は無条件に反動的であり又反動的になる、といふ点である。
(「思想としての文学」)
「近代の超克」シンポジウムから数年前に見事に「自由主義」が反動であるという点を見抜いている。
中野も戦後であるが「昭和一〇年代」を振り返って次の文章を書いている。
一九三二、三年ごろから一九四〇年代ごろまでの日本に、たとえば第二『文学界』の運動、『日本浪漫派』の運動、『コギト』その他の運動についてあつた。「文芸復興」だの、「プロレタリア・ルネッサンス」だの、ロマン主義運動だのという衣装ですすめられた仕事がその中心をなしていた人びとを縫いぐるみにして、帝国主義的日本の侵略戦争手伝いにすべりこんで行つたことは知られている。「高貴」なもの、「高邁な精神」、マルクス主義・プロレタリア文学運動の意義をすら認めた上での精神主義的流れが、国内では、人民全体にたいする抑圧と搾取との強化政策とその権力とにむすびつき、国際的には、ファシスト的な侵略主義、資本と銃剣とによる他国の奪取のための精神的露払いとなつたことは知られている。
(中略)だが、第二『文學界』や『日本浪漫派』などの問題を、文学史の上でもただこのことだけから、つまり結果からだけ判断するとすればそれは誤りになる。少なくとも大きな不十分となる。そういう結果へみちびいて行つた外からの力を見ると同時に、そこへと導かれるべきどういう要素がこれらの文学グループに内在していたかを見る必要があり、さらにさかのぼつて、こういう要素を思うままにふるまわせねばならなかつたところの、当時の日本文学の社会的・歴史的事情をいつそう正確に見定めたのでなければ、非難は断罪となることができず、批判も建設することができない。
大体からいうと、第二『文學界』や『日本浪漫派』などが何だつたかということはこんにちまだ明らかになつていない。これは私がそう考える。私の知るかぎり、第二『文學界』や『日本浪漫派』グループについてそれが何をしたかということは一応明らかにされているが、どうして、なぜ、それをすることになつたかということは明らかにされていない。(これはしかし、彼らが「何をしたか」が明らかにされていないということでもある。)私の言葉でいえば、「こういう要素をおもうままにふるまわせねばならなかつたところの当時の日本文学の社会的・歴史的事情」が明らかにされていない。
つまりそれは第二『文學界』や『日本浪漫派』グループの活動が、その性質・内容について完全に取りだされていないということである。戦後の「民主主義」の復活は、この種の民族主義にたいして、戦前、戦争のはじめの時期、こういうグループが拝外主義い・侵略主義へ走りこむ姿勢を取つた時期に、日本の民主陣営、プロレタリア文学陣営の側が与えた不十分な批判と同時・等価なものを与えただけであって、それ以上たち入つた批判を与えていないということである。批判はいくらか表面的な対症療法に終つているとみられる。
膏薬でおさえはしたが、腫物が切開されてはいない。病源が正確に決定されないまま今にいたつているため、そのために同じものの同じ形での進行が見られることになつたものと私は考える。
(全集二一巻「第二『文學界』・『日本浪漫派』などについて」)
中野自身戦後になっても一九三〇年代の問題については明らかではないと述べている。これは九〇年代の今でも日本の思想のあり方を考える際ついて回る問題ではなかろうか。現在の九〇年代においても戸坂の指摘する思想のあり方は改善する余地もなく、思想がパッケージかされた「商品」と流通するようになって久しい。また右か左かというイデオロギーを超えていく、対立の中間をいとも簡単にすりぬけていく「思想」が日本には横行している。
ここで中野が提起している問題は解決されていないが、それに向けての答えは中野自身が「抵抗」という一つの答えを教えてくれた。
現在に至るまで「転向」の問題は日本社会に深く根を下ろしている。しかしそれから逃げることなく、「消えぬ痣」を晒して生きていくという中野の「転向」小説にこそ次の戦争を回避していく戦いを展開する一人の人間としてのあり方が示されている。
おわりに
これまで一九三一年以前の中野の共産主義への「転向」、そして三一~三五年の新たな決意、三五年以降のファシズムへとの闘いと中野の三〇年代の歩みを簡単ではあるが見てきた。時間の都合上、引用資料をかき集めるだけの情けないものになってしまったことは否めない。
当初は中野の運動の分析から九〇年代における〈戦前〉情況を戦っていくための反戦運動の基点を見出すという気迫であったが、三〇年代全体の社会・思想・文学を概観し私なりの答えを出していくまでには至らなかった。
しかしでは、私自身が一人の読者として中野のこうした抵抗の軌跡から何を学び生かしていくことができるだろうか。
今年九八年の早稲田祭が大学当局の一方的な決定によって二年連続して中止になった。そこで私は抗議の声を上げる活動を夏から秋にかけて行なってきた。私は五年生であり、卒業していてもおかしくはない学年である。しかし、私は今早稲田の学生である。「お前の職業は」と問われた際、私は早稲田の学生であると答えるであろう。そのような私の立場から発生する責任において、大学当局の横暴ぶりに対して反対の意志を表明していかねばならない。
当日は多くの学生の仲間とともに大学の一方的な決定とそのあり方に対して抗議の祭りを行ない二〇〇名以上の結集を克ち取ることができた。しかし、それでもわずか全早大生の一%にも届かず大勢に訴えるということは出来なかった。自らの大学のしかも直接に自分たちの学生生活に関わることなのになぜ関心を寄せようとしないのか。「学問」や「授業」といった「サービス」を消費するだけが学生ではない。大学の自治の構成員として、後輩に、未だ見ぬ新入生に対して、学費や現利用の部室撤去を前提とした学生会館の問題に関しどれほどの責任を感じているのだろうか。
これは「はじめに」の項にも触れたが、なぜ「自らのこと」として社会や大学に遍在する不正や差別を捉えることができないのかという問題につながる。
二一世紀を二年後に控え、地球規模で人、物、情報が流通し、インターネットなどが爆発的に普及し、戦前の中野が受けた出版禁止措置などすっかり過去の歴史になってしまった。今やさまざまな表現手段が開発され、家でキーボードを打ちながら、社会に向かって、世界に対して自由に意見を言い議論をすることができる。また日常新聞やテレビ、大学における授業においても人権や政治など多くの社会問題について触れることができる。しかしそれらの問題をいざ自分の立場性で主体的に捉えるという作業が-中野が一九二〇年代後半に経験したこと-が日本では行われていない。また身近な人権侵害の問題や地域、学内問題に関わろうとしない。市民として、労働者として、学生としてという自らの立場性・階級意識に根差した主体的な問題の把握が行われていない。またそれに対して考えるだけでなく行動しようとはしない。むしろそのような人間に対して友人、知人は政治に関わっているということだけで避けようとするのが一般的である。
中野はこの自らの立場を真摯に捉え直し、その立場性に規定された自己のあり方を隠すところなく表現してきた文学者である。彼は自分のことを作品世界を物語る「作家」ではなく「文学者」であると述べている。中野は社会構造の中で「文学」に携わる労働者であることに生涯身を置いてきた。
中野は獄中にいる間も、ふるさとがあり、父母、兄弟がいる、そして妻があり、心を許せる友人がいることを意識し、心配りを忘れなかった。そして中野は決して作家として、物語主人公として、党員として、労働者として、父として、兄として、夫としての立場性の使い分けをしてこなかった。いうならば、一人の史的唯物論に根差した「文学労働者」として、その責任と立場性を厳しく自己規定してきた。そしてその揺るぎない立場-一九三〇年代には認められていなかった-に自分を置き、逃げ場のない立場を踏み処に政治と文学に関わっていった人物である。
近代市民社会では一人の人間が多くの立場を持たざるを得ないし、その立場性の隙間に逃げ込み、ある立場における責任を逃れることができる。学生であり、教員であり、市民であり、父であり、母であり、労働者であると様々な立場があり、そこには個々に切り離された自己の立場がある。
ある問題に直面する際も、その問題に関わる立ち場性は必ず問われることである。例えば大学内において不正事件が発生したと仮定するならば、まずその事件に対して大学の構成員たる教員、職員、学生すべてが一度は主体が問われるべきである。しかし私達はそのような際得てしてその立場を都合の良い方、主体性が問われない方にすぐ自らの立場を置いてしまいがちである。
中野は家族や友人との関係に悩みながらも政治に関わっている自分を赤裸々に書き連ねていった。そこである時わずらわしいと感じたであろう家族や党籍との関係から昇華するようなことなく、自己の立場性を捉え直すというつらい作業を特に三四年の出所後繰り返してきた。一度目の「転向」で階級意識に根差した主体を確認した中野は二度目の「転向」においてそのような「主体」が決して現実の家族関係、社会状況から切り離すことができないことを認識した。そうした中野の軌跡を捉え直す作業が九〇年代の今求められているのではないだろうか。
中野は旧来の封建的日本社会との厳しい切断という作業をする一方で二度の「思想的転換」を通じて自己と社会の関係を真摯に問い直してきた。現在の政治、社会への関心の薄さ、消極性の原因は、第一に自分の問題として認識できない唯物論的状況認識の貧困さがあり、第二に頭の中で理解できてもいざ行動しようとすると、友人や親兄弟との関係があって躊躇してしまい体面をとりつくろうとする主体の弱さである。 しかし現実の自分は社会から浮揚した物語主人公でもないし、人間関係を切って孤独に耐える忍耐力が求められているのではない。今の現実の中で自分のおかれている位置をしっかりと見つめ、その社会状況に踏み止まり、そこを基点として行動していくことが必要とされている。
一九三〇年代という戦争へと流動化していった社会世相の中で、中野が見せた「抵抗」は、九〇年代の〈戦前〉状況の今の時代において正当な評価を与えていかねばならないだろう。
最後に戸坂潤の次の言葉でもって論を締めたい。
で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。
そこが話の分れ目だ。
(註)
本文中の「全集」は筑摩書房刊定本版「中野重治全集」(一九九六年四月~一九九八年九月刊)による
加藤典洋「敗戦後論」『群像』 講談社・一九九五年一月号
池田五律「日米安保の歴史と現段階」『米軍がなぜ日本に-市民がよむ新ガイドライン』創史社・一九九七年
柄谷行人「〈戦前の思考〉」『批評空間』2-1 一九九四年四月
川副国基『資料による日本文学史』文雅堂銀行研究社・一九五九年
丸山真男「近代日本の知識人」『後衛の位置から』 未来社・一九八二年
栗原幸夫「大衆化とプロレタリア文学」『〈大衆〉の登場-ヒーローと読者の二〇~三〇年代』
インパクト出版会・一九九八年
有島武郎『筑摩現代文学体系二一 有島武郎集』 筑摩書房・一九七六年
柄谷行人「近代日本の批評・昭和前期1」『季刊思潮』第五号・一九八九年七月号
芥川龍之介『筑摩現代文学体系二四 芥川龍之介集』筑摩書房・一九七五年
花崎皐平訳『新版ドイツ・イデオロギー』 合同出版・一九六六年からの引用
梅本克己「主体性の問題」『岩波講座 哲学3』 岩波書店・一九六八年
H・スミス「福本イズムの時代」『新人会の研究‐日本学生運動の源流』松尾尊充・森史子訳
東京大学出版会・一九七六年
栗原幸夫「全体的主体 中野重治」『プロレタリア文学とその時代』
平凡社・一九七一年
石見尚「一九二〇年代の政治思想におけるいわゆる福本イズム」『福本和夫-「日本ルネッサンス史論」をめぐる思想と人間』
論創社・一九九三年
福本和夫「方向転換はいかなる諸過程をとるか」『無産者階級の方向転換』希望閣・一九二六年四月
林淑美「『芸術大衆化論争』論」武蔵大学『人文学会』雑誌一九七六年九月号
祖父江昭二「中野重治」『昭和の文学〈近代文学史3〉』有斐閣選書・一九七二年
亀井秀雄『中野重治論』 三一書房・一九七〇年
満田郁夫「転向小説五部作をめぐって」『中野重治論』
新生社・一九六八年
岡田孝一「〈消えぬ痣〉への考察2」『貌』二号・一九七九年二月
吉本隆明「転向論」『現代批評』第一号・一九五八年一一月
吉本隆明「転向と戦後文学の主体性-中野重治『歌のわかれ』『現代文学講座3』 飯塚書店・一九五八年
石堂清倫「『転向』の真実」『中野重治と社会主義』 勁草書房・一九九一年
児玉幸多編集代表『日本歴史の視点第四巻』 日本書籍・一九七三年
木元茂夫「『大東亜戦争』への道」『アジア侵略の一〇〇年』
社会評論社・一九九四年
木村幸雄「『汽車の罐焚き』における主体と記録」『日本近代文学第4集』一九六六年五月
杉野要吉「『汽車の罐焚き』論」『中野重治研究』
笠間書院・一九七九年
ドナルド・キーン「昭和時代」『日本文学の歴史一八 近代・現代編九』
中央公論社・一九九七年
林淑美「未決定の思想」『思想の科学一五〇九号』
思想の科学社・一九九四年一月号
竹内好「近代と伝統」『近代日本思想史講座 第七巻』
筑摩書房・一九五九年一一月号
文学的立場編「執筆禁止前後」『文学昭和十年代を聞く』
勁草書房・一九七六年
古在由重「戸坂潤と唯物論」『回想の戸坂潤』 三一書房・一九四八年
戸坂潤『科学方法論』 岩波書店・一九二九年
戸坂潤「現代日本の思想上の諸問題-日本主義・自由主義・唯物論」『日本イデオロギー論』 白揚社・一九三五年
戸坂潤「行動主義文学について」『思想としての文学』 三笠書房・一九三六年
戸坂潤「日本の民衆と『日本的なるもの』」『改造』 改造社・一九三七年四月号
参考文献
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黒田喜夫編『中野重治詩集』 彌生書房・一九六七年
杉野要吉編『作家の自伝六七 中野重治』
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中野重治研究会編『文学アルバム
中野重治』 能登印刷出版部・一九八九年
中野重治研究会編『中野重治と私たち』 武蔵野書房・一九八九年
中野重治『敗戦前日記』松下裕校訂 中央公論社・一九九四年
平野謙編『中野重治研究』 筑摩書房・一九六〇年
栗原幸夫編『芸術の革命と革命の芸術』 社会評論社・一九九〇年
鷲田小彌太『昭和思想史 六〇年』 三一書房・一九八六年
中島誠『転向論序説』 ミネルヴァ書房・一九八〇年
松原新一『転向の論理』 講談社・一九七〇年
加藤典洋「素人の読み方」『ちくま日本文学全集 中野重治』
筑摩書房・一九九二年
柄谷行人『近代日本の批評 明治・大正編』 福武書店・一九九二年
柄谷行人「ポストモダンにおける『主体』の問題」『言葉と悲劇』
第三文明社・一九八九年
柄谷行人「中野重治と『転向』」『中央公論文芸特集』 中央公論社・一九八八年冬季号
スガ秀美「自己意識の覚醒」『探偵のクリティック-昭和文学の臨界』 思潮社・一九八八年
家永三郎『戦争責任』 岩波書店・一九八五年
遠藤誠編著『解読・組織的犯罪対策法』 現代書館・一九九七年
栗原幸夫『歴史の道標から』 れんが書房新書・一九八九年
鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』 岩波書店・一九八二年
巨大情報システムを考える会編『学問が情報と呼ばれる日』 社会評論社・一九九七年