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研究集録が…

明日締め切りの研究集録が書けない。昨年度授業で扱った中野重治の「歌」を解題しようと思っているのだが、いろいろと考察が多方面に及んで流れがまとまらない。卒論を切り貼りして何とか仕上げねば。しかし今読み返してみても私の卒論の視点はすばらしい。視点は素晴らしいのだが……

以下 追加


中野重治『歌』解題

 昨年度高校一年生の現代文の授業の中で中野重治の詩『歌』を採り上げた。授業の中では時間の制約上、表面的な読解に留まり、作者中野重治の姿にまで迫ることが出来なかった。この論の中で1920年代から30年代の中野の主体性を探ることで、この『歌』が中野にとってどのように意味づけられるのか考えてみたい。

 歌

おまえは歌うな
おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべてのものうげなものを撥き去れ
すべての風情を擯斥せよ
もっぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え
たたかれることによつて弾ねかえる歌を
恥辱の底から勇気を汲みくる歌を
それらの歌々を
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸郭にたたきこめ

 この詩は1926年(大正15年)9月、作者中野重治が東大在学中24歳の時に、同人誌『驢馬』に「機関車」という総題のもとに発表された作品である。

 中野重治は1932年に治安維持法によって投獄され、2年間の獄中生活を余儀なくされ、法廷で日本共産党員であることを認め、共産主義運動から身を退くことで出所を許されという経緯を持つ異色な作家である。しかしこの「転向」宣言が原因で、一般に中野は文学史においては「転向作家」と称されている。そして文壇の評では、捕まったその日に撲死した小林多喜二や45年の敗戦に至るまで「非転向」を貫き通した宮本顕二と比較され、彼らよりも明らかに下に位置づけられている。そして現在にいたるまで正当な評価を得られていない。また中野自身戦後になっても、「転向」作家のレッテルが重くのしかかり、自らのポリシー、作品について解説することはほとんどなかった。そのため中野の詩や小説の解釈は戦後の評論家に委ねられ、文壇政治の中で中野の意図が歪められてしまっている。21世紀を迎えようとしている現在、この『歌』という作品について中野の「転向」後の主体性を踏まえて新しく意味づけていく必要があるのではないか。

 東京書籍版「指導資料」では、この歌の主題を「郷愁や情念をよびおこすような歌、現実離れした、実生活の役には立たない歌は排斥し、生きていくのにはなくてはならないもの、そこから生じる問題を歌った、行動を促すような歌をつくるように自分に命じている」と説明している。
 分かりやすく言い換えると、つまりこの詩は「赤ままの花」「とんぼの羽根」「風のささやき」「女の髪の毛の匂い」などを歌うことを強く否定している。それらは作者によればすべての「ひよわなもの」「うそうそとしたもの」「ものうげなもの」あるいは「すべての風情」を意味している。それらすべての日本の伝統的な短歌的抒情の風土で花開いた卑小なもの、退嬰的なものを歌うべきでないものと性格づけているのだ。

 それではなぜ中野がこの『歌』の中でこの日本的風土を「撥き去れ」「擯斥せよ」と規定したのだろうか。当時の中野の経歴について少し触れてみたい。

 『歌』の書かれた2年前の1924年、中野は金沢の四高より、東大の独文科に入学した。四高時代に文芸同人誌の編集委員として活躍した中野は、1925年の夏に林房雄らの影響により「東大新人会」に入会した。そして秋には大学内で社会文藝研究会を創設し、翌26年にはマルクス主義藝術研究会を創立、室生犀星のもとに出入りしていた窪川鶴次郎、堀辰男らと共に同人雑誌『驢馬』を創刊した。同年の11月には日本プロレタリア藝術同盟に参加し、中野は文学運動の主流の中軸として活躍していった。

 この当時の「東大新人会」は初期共産党で理論的支柱として活躍した福本和夫の強い影響のもとに活動していた。福本 和夫はドイツフランクフルト学派の研究所で学び、独自の「分離-結合」理論を唱えた人物で、当時の日本共産党の中心であった堺利彦・山川均らによる運動の大衆化路線を否定したことで知られている。彼の「分離-結合」理論は雑誌『マルクス主義』の中でつぎのように紹介されている。

 マルクス主義の理論と経験とは答えていう、-一旦自らを強く結合するために、「結合する前に先ず、きれいに分離しなければならない。」と。「単なる意見の相違」-同一傾向内の-と見えたところのものを「組織問題」に迄、従って単に「精神的に闘争する」に止まりしものを、「政治的、戦術的闘争」にまで開展しなければならない。(「無産者階級の方向転換」)

 1920年代の日本において異端といってもよい福本イズムがなぜ当時の共産党に強い影響力をもったのだろうか。
福本はレーニンが「目的意識性」と「自然成長性」の区別したことに依拠して、「日本の運動にとって緊急の課題というのは運動の大衆化ではない。一切の折衷主義や『ズルズルべったり』の妥協から訣別して、厳格な理論と世界観で労働者階級を武装させることがまず先行すべきである」と主張した。そしてそれまでの山川イズムを折衷・組合主義として批判し、理論闘争による前衛分子の分離・結合理論を展開していった。

 それまでの知識人は「人民大衆のための社会」を唱えながらも、自らはエリートであるという矛盾に悩んでいた。知識人階級に属するエリートは労農大衆に対するコンプレックスに悩まされ、「激烈な階級闘争の間にはさまれた無力な青白きインテリ」という負い目をおっていた。有島武郎は「どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何者かを寄与すると思つたら、それは明らかに僣人沙汰である。第四階級はその人たちの無駄な努力によつてかき乱されるの外はあるまい。」と1921年に「宣言一つ」を書いて命を絶った。

 しかしこのような状況の中、福本イズムに出会った知識人階級は、共産主義運動は人民階級の中から「自然成長」的に作っていくべきものではなく、大衆に「目的意識」を作ることが先決で、「理論と世界観を労働者階級に植え付ける」という積極的な使命を与えられたのであった。

 学生時分の中野はこの福本イズムの熱烈な「信者」となった。福井の農村の片田舎出身で旧制高校を留年して遅れて大学に入ってきた中野にとって、過去はあまり触れらたくないものであった。新しく東京の生活が始まり、共産主義運動に関わっていく中で、田舎の、そして封建的な旧来のものは中野にとってひきずってはならないものであった。中野にとってこの福本イズムのいう「分離」は政治闘争の前に、自分の過去半生との「分離」として現れてきた。そして大学での文学運動のなかで友人との「出会い」と並行して、田舎に暮らす家族との「別れ」を彼は試みたのだ。次に福本イズムのいう「分離」は中野にとって高校時代に親しんだ短歌や和歌といった詩的世界との「分離」として現れてきた。中野にとって福本イズムのいう「分離」の後に形成される前衛分子の概念はまさに宗教のような絶対的な他者性をもってあらわれた。福本は労働者階級を先導する職業革命家の中央集権的組織と規律をもった前衛党を作るというレーニンのボルシェビキ党の建設を主張した。この極端な前衛概念は党員に家族や田舎と明確な決別を求め、そして左翼内での激しい理論闘争を土台としていた。『歌』創作と同時期に中野は、この福本イズムに拠った文学運動の理論を数多く執筆している。

 そしてそのために進撃者の陣営の浄化が、進撃者の陣営内の理論的斗争が、無条件の必要事となるだろう。
観念の闘争に真実の関心を持つものは、その現象の本質を見るために、彼の闘争を残りなく戦いぬくために、自己の陣営内における理論的闘争を戦うために勇気ある一歩を踏みだすだろう。日本における無産階級文藝運動は、それをこのときに入つて始めるだろう。私は予言しよう、「そこにわれわれの任務がある。」(「一つの現象」)

 わが国無産者運動の現発展段階が、わが国のいわゆる無産者的文藝運動の自然成長的過程にたいしていかなる関係に立つか、したがつてまたわが国無産者運動にむかつてわが国無産者的文藝運動はいかなる条件のもとに真に合流しうるか、このことが全階級的に究明されないかぎり、わが国無産者的文藝運動はそのあらゆる進展にかかわらず、なおいまだ自然成長的成長過程を進まざるをえず、自然成長性を揚棄して目的意識を戦いとることをなしえないであろう。(「『検察官』の上演に関連して」)

 われわれの藝術は今何をなすべきか。それは簡明ではないか。彼は全人民を、全人民の感情を、一定の方向へと激成して行くためにこそその全身を捧げねばならないということこれだ。(「結晶しつつある小市民性」)

 1927年にコミンテルンによる福本イズムの否定以降も、中野は自らの掲げる「もっぱら正直のところ」「腹の足しになるところ」「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところ」「たたかれることによつて弾ねかえる歌」「恥辱の底から勇気を汲みくる歌」を創作していくために、ふるさととの「分離」、身内での理論闘争による「分離」を繰り返した。そしてそこから外れていくものに容赦ない攻撃を加えながら、前衛党の組織化に向けて労働者階級からの文学に拠る理論闘争に埋没していった。当時の中野にとって、『歌』の前半部における「歌うべきでないもの」とは旧来の日本的風土に根差した家族、封建制度であり、後半部での「歌うべきもの」-「のどをふくらまして」歌う「厳しい韻律」-とは共産主義運動を鼓舞するものを意識していたことは間違いない。

 では詩人として出発した中野はこの『歌』以降、日本的詩情そのものまで否定したのだろうか。「すべての風情」に感動する詩人的感性を否定したのだろうか。中野はその後も同人誌「驢馬」に次のような詩を書いている。

 挿し木をする

今日は三月二十一日
ほのかにこな雪がちらついて
あたたかな春の彼岸の中日です
おいで妹たち
僕らは挿木をしよう
お祖父さんやそのまたお祖父さんたちがやつたように
今日は仏の日で挿木の日だ
雪は僕らの髪の毛にかかろう
そして挿木はみずみずと根をさそう

 なんと中野は自然に対して、そしてふるさとに正直に情感をぶつけていることか。この歌では挿し木をするという行為に作者の故郷を大切にしたいという思いが丁寧に込められている。また1939年に書かれた小説『歌のわかれ』の中には次のような一節がある。

 突然彼は立ち止ってきょろきょろと見回した。かれは鼻の孔をひろげて、鼻のまわりの空気を、むしろそのなかのある匂いを、痩せた両肩を首根っこへ引き上げるようにしてきゅうっと吸い上げた。その一瞬で、彼はそれが薤の匂いであることを認めた。するとまた別の匂いが流れてきた。それをも彼は吸い上げた。たしかにそれは辛菜の匂いだった。
 彼は見回した。彼はすぐ左手のところに野菜市場をみつけた。キャベツや白菜を山のように積み上げた馬力がそこから出ていくのが見えた。白菜の肌の緑色と白とが美しく朝日に光っていた。大きな竹籠の積まれたうしろには真紅な生薑の山の濡れたのが見られた。それらの匂いと味の記憶とは、今の安吉にとって全身的につうんと来るものだった。舌ばかりでなく彼の精神が唾をたらすようだった。彼は玉葱を切った時か何かのようにうっすらと泪ぐんできた。

薤・辛菜・キャベツ・白菜・生薑・玉葱-と、作者中野は短い文章のなかに野菜の名を数え上げる。それらの匂いと味の記憶は、中野の全精神・全生活を捉えて離さないものであった。中野は『歌』を書いたその後も自然に対する感動を隠すことなく様々な作品で綴っている。すなわち中野は詩人的感性すらも否定したのでなく、その詩人的感性でもって、彼の運動に対する決意に水を差す一切の封建的、保守的なものを攻撃したのである。

 しかしその否定すべき封建性・保守性のもっとも象徴的なものである「家族」がその後、中野の心に大きくのしかかってくる。
 1931年の柳条湖事件以降、日本はいよいよ戦争体制国家への整備を進めていくことになる。アジアへの侵略と国内への弾圧が一層苛烈なものとなっていった。『歌』創作の6年後、中野は1932年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に対する弾圧によって当局に逮捕された。そして34年3月、東京地裁で懲役4年の判決が下され、東京控訴院法廷で日本共産党員であることを認め、共産主義運動から身を退くこと約束し、求刑4年、懲役2年の執行猶予5年の判決を受けて「保護観察処分」の扱いで出所となった。この獄中での2年間、中野は肉体的・精神的にぎりぎりのところに追いつめられ、生死の淵をさまよい、獄中で死ぬことを半ば突きつけられ、その意味を問いつめ続けた。その当時の様子を克明に語った『村の家』という作品において勉次(中野自身がモデル)は次のような状況と向き合っている。

 そのころ勉次はからだを悪くしていた。熱が何度か医者は知らせなかったが、ひと晩のうちに三度も四度も汗で眼が覚め、病室がいっぱいではいれぬため寝間着を部屋の中で乾かさねばならなかった。十二月にはいってからは決して乾かなかった。予審は終って公判が近づいていた。公判の近づきは下獄の近づきを意味した。彼は治療が今度の逮捕で中断された黴独のことを考え、それからくる発狂に恐怖を感じた。彼は死よりも発狂を恐れたが、恐怖の瞬間にはほんとうにはどっちを恐れているのか弁別できなかった。

 20年代後半以降共産党に対する弾圧が続き、逮捕者が続出し党は壊滅状況にあった。中野も逮捕された後、仲間であった小林多喜二の虐殺を知り、死の恐怖と嫌が上でも向き合うことになった。それに加え、相次ぐ共産党幹部の「転向宣言」を耳にするにつけ、彼の心の中で共産党引いては共産主義運動に対する信頼が崩れてきた。このことは福本イズムのいう「分離-結合」の中で運動に関わっていった中野の運動の全てを否定するものとなった。
 しかしこうした中野の苦しい獄中生活を物心両面にわたり支えたのが故郷の家族であった。中野は獄中から家族に頻繁に手紙を書き、交流を求めている。そのうちのひとつを見てみよう。

 中野藤作へ 5月17日

 今度はまた急なことを申していろいろ御心配をかけまことにすみませぬ。手紙・電報などでおっかけ引っかけお騒がせしたについては、まさの、鈴子の方にも手落ちがなかったとは言いませぬが、それも私の言葉に従ったまでで、つまりは私がうろたえたからのことでした。
 病気と公判期日とがかち合ったため、やはり私が大分あわてていたことに今気づいている次第です。重ね重ね御心配をかけ、申し訳ありませぬ。
 幸いからだの調子は、昨日、一昨日ごらんの通りで、一日一日よくなって来ていますからどうぞその点は御安心下さい。おかえりになったらおっ母さんにもよろしくお話し下さい。

 お父さんのお元気には私もありがたく喜んでいます。血圧のことは、馬鹿にしてはいけないでしょうが、心配はいらぬと思います。どうぞなるたけ無理をなさらぬように願います。村野寄合とか何かの祝いとかいう時に、村の人達は大分たくさん飲むようですが、そういう時気をおつけなさればそれで十分でしょうと思います。急に酒を止めるというのはかえって悪いそうです。すべて生活状態を急に変えるということはよくないそうです。
これから暑くなりますから食べ物にはよく御注意をねがいます。私は自分のからだの事も今度の病気で一層よく分り、今後二度とこんな病気はせぬように気をつけます。どうも今度の御上京について申訳もありませぬが、その点はおゆるし下さい。

 もう一度面会に来て下さることですが、おかえりの汽車はよくよく気をつけて下さい。三人で写真をとっておっかさんへ送ったらどうでしょうか。鈴子もその後お目にかかっていないわけですし、まさのはいつかずっと前に小さなハッキリしないような写真をお送りしただけですから、今度取って送ってあげてはどうかと思います。今日はこれだけに致します。なおよくお気をおつけなすって下さい。

 中野は投獄されて初めて、家族と自分のつながりを再確認した。『歌』の中で完全否定したふるさとに住む「家族」に支えられて出所することができたのだ。そして彼は妻まさのとの夫婦関係だけでなく、父の藤作、妹の鈴子との家族関係を断つことは不可能だと悟ったのだ。中野は「自分は決して空想世界に生きるヒーローでもなく、理想郷建設の絶対的なリーダーでもない。福井に住む父母、女優業に懸命な妻、東京で苦労しながら暮らしている妹達との関係の中で存在している一人の市民」であることを再認識したのだ。そして出所して後、中野は思想的に閉ざされた世界に自分を置くのではなく、家族とのつながりで結ばれた自分の立場性に根差して、その中から運動をすすめていかねばならぬと意識したのだ。
 『村の家』において、父孫蔵(中野重治の父藤作がモデル)は「転向」し出獄して村に戻った息子勉次を次の言葉で問いつめている。

 「おとつつあんらア何も読んでやいんが、輪島なんかのこのごろ書くもな、どれもこれも転向の言いわけじやつてじやないかいや。そんなもの書いて何しるんか。何しるつたところでそんなら何を書くんか。いままで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。それや何を書いたつて駄目なんじや。いままで書いたものを殺すだけなんじや。どうしるかい。」

 勉次は決められなかつた。ただ彼は、いま筆を捨てたらほんとうに最後だと思つた。彼はその考えが論理的に説明されうると思つたが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。彼は一方で或る罠のようなものを感じた。彼はそれを感じることを恥じた。それは自分に恥を感じていない証拠のような気もした。しかし彼は、何かを感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまいと思つた。これは彼らの組織の破壊をとおして、自分の経験でこの二年半のあいだに考え積つたことである。自分は肚からの恥知らずかも知れない。しかし罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破つたらそれこそしまいだ。彼は、自分が気質的に、他人に説明してもわからなぬ破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけた淋しさを感じたが、やはり答えた、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」

 孫蔵は非常に興ざめた顔をして大きな眼の瞼を奥の方へすつこましていた。勉次はこの老父をいかにむごたらしく、私利私欲のために、ほんとうに私利私欲-妻をも妹をも父母をも蹴落すような私利私欲のために駆りたてたかを気づいていた。静かな愛想づかしが自分のなかに流れてきた。

 この「村の家」の一節の解釈は文芸評論家によって様々に解釈されている。しかし、ここで中野は投獄以前の福本イズムにかぶれていた頃を「私利私欲」と位置づけている。

 しかし最後に中野は妻、妹、父母とつながりを持つ自分の主体性でもって、また「書いて行きたいと思います」と固い決意表明をしている。同時期に書かれた文章に次のような一節がある。

 弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林(多喜二)のいきかえつてくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。 僕らは、そのときも過去は過去としてあるのであるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。(「『文学者に就いて』について」)

 ここで中野は筆を折ろうと弱気を出したが最後、「彼をころしたものを作家として支えねばならなくなる」、すなわちファシズムに加担することになると不退転の決意を述べている。しかし当時の国家総動員体制の中、治安維持法で捕まり、「保護観察」という思想的拘束を受けている中野にとって「人間および作家として第一義の道を進める」という決意はなまなかのものではない。しかし小林多喜二の死を無駄にしないためにも、「革命の党を裏切り、それにたいする人民の信頼を裏切つた」という「消えぬ痣」を背負って大衆に自らの「みすぼらしい」姿を晒して中野は再び立ち上がっていくのである。中野にとって「書く」という行為は物書きとして生計の手段であるが、同時にそれは日本を侵略戦争へと駆り立てていく「彼を殺したもの」との戦い、つまり国家権力との戦いであった。そしてその戦いは逮捕以前の日本共産党という思想的な後ろ盾に支えられたものではなく、家族や妻、ふるさとといった現実的な関係性を踏み所にした戦いであった。

 獄中生活を通して、中野が1926年に『歌』で否定したふるさとが逆に、彼に強固な地に足のついた強い主体を形成することになった。彼は「転向」宣言後、思想的な自慰満足に過ぎない「胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところ」「勇気をくみ来る歌」「厳しい韻律」とのフレーズの方を否定したのである。そして前半部で展開された「赤ままの花やとんぼ」に囲まれたふるさとに暮らす父母、香しい「髪の毛の匂い」をもった妻とを持った現実の自分と向き合っていくことから、「転向」宣言せざるを得なかった自分の姿をさらしていくことを自分の出発点とする決意を固めたのである。そして後年彼は1939年に『歌の別れ』という作品の中で主人公片口安吉(中野重治自身がモデル)をして次のように言わしめている。

 彼は袖を振るようにしてうつむいて急ぎながら、なんとなくこれで短歌ともお別れだという気がしてならなかった。短歌とのお別れということは、このさい彼には短歌的なものとの別れということでもあった。それが何を意味するかは彼にもわからなかった。とにかく彼には、短歌の世界というものが、もはやある距離をおいたものに感じられだしていた。彼は手で頬を撫でた。長い間彼をなやましてきたニキビがいつのまにか消えてしまって、今ではそこが一面の孔だらけになっていた。いつから孔だらけになったか彼は知らなかった。しかし今となってはその孔だらけの皮膚をさらしてゆくほかはなかった。彼は凶暴なものに立ちむかってゆきたいと思いはじめていた。

 彼が後年否定した短歌的なものである「詩集」は現在も文庫に収められ版を重ね、教科書にも採録されている。それは中野がこの『歌の別れ』で表明した「その孔だらけの皮膚をさらしてゆくほかはなかった」との思いの通り、そうした否定すべき自分の「誤り」を大衆にさらすことが、「人間および作家として第一義の道」と規定した彼自身の信念によるものだからである。

(参考文献)

東京書籍「指導資料」
筑摩書房刊定本版「中野重治全集」(一九九六年四月~一九九八年九月刊)
H・スミス「福本イズムの時代」『新人会の研究‐日本学生運動の源流』東京大学出版会・一九七六年
栗原幸夫「全体的主体 中野重治」『プロレタリア文学とその時代』 平凡社・一九七一年
石見尚「一九二〇年代の政治思想におけるいわゆる福本イズム」『福本和夫-「日本ルネッサンス史論」をめぐる思想と人間』 論創社・一九九三年
福本和夫「方向転換はいかなる諸過程をとるか」『無産者階級の方向転換』希望閣・一九二六年四月
岡田孝一「〈消えぬ痣〉への考察2」『貌』二号・一九七九年二月
柄谷行人『近代日本の批評 明治・大正編』 福武書店・一九九二年
柄谷行人「中野重治と『転向』」『中央公論文芸特集』 中央公論社・一九八八年冬季号

質問に答えて

突然ではありますが、
>最近ファシズムって何だろう?
>と疑問に思い初め、こうして調べていましたら、
>先生のホームページにたどり着きました。
>お忙しいとは思いますが、私のこの
>ファシズムってなに?そして
>なぜファシズムは成立したの?
>と言う質問にご返答いただけませんでしょうか。

ご質問ありがとうございます。
私の勉強不足でうまく答えられませんが、一応お答えします。
参考文献等でお調べください。
回答はちょっと長いので私のホームページに載せました。
そちらを拝見ください。


メールありがとうございます。
ファシズムについてのご質問、う~ん難しいですね。

定義

ファシズム(fascism)とは、「結束」を意味するイタリア語のファッショ(fascio)に由来する。
第一次世界大戦後の1919年3月ムッソリーニが「戦闘者ファッショ」を組織し、反共的な国粋運動をおこしたのが先駆である。その後、1920年代から30年代にかけて、イタリアのような運動がヨーロッパ・南アメリカ・東アジアの諸国に起こり、これら一連の運動はファシズムと総称されるようになった。これらの運動に共通する特徴は、国粋主義と軍国主義を高唱し、共産主義・社会主義を徹底的に憎悪するが、さらに自由主義・民主主義をも否定・排撃することである。したがって、ファシズムに支配されるに至った国家では、極右政党が樹立され、議会政治は否定される。1930年代のドイツ・日本などにはこのような独裁政治が生まれたが、いずれも資本主義が高度に発展しながら封建的な要素が根強く残存する民主主義の経験が浅い国であった。これに対して、スペイン・ポルトガルや東ヨーロッパ・ラテン-アメリカの諸国など、資本主義の発展が遅れていたところでも独裁政治が樹立された。

一方、イギリス・フランス・アメリカ合衆国のように、資本主義が高度に発達し、議会政治が早くから順調に発達した国でも、ファシズムの傾向がまったくなかったわけではない。第一次世界大戦以後、資本主義国家にさまざまなファシズムの動きが現れているという事実から、ファシズムについて次のような定義を下すことが出来る。すなわち、ファシズムとは帝国主義段階にある資本主義体制が国内的あるいは国際的な危機におちいり、反体制的な革命運動が激化した段階で、独占資本主義の維持・強化をはかるために、内外にわたって行われる反革命的な政治形態である。

歴史教育研究所編『世界史事典』「ファシズム成立史」旺文社 1978年

上記の点について、1930年代のドイツで活躍したフランクフルト学派のホルクハイマーという哲学者とアメリカの精神分析学者のエーリッヒフロムがより詳しく分析しています。書名は忘れました。私も大学のドイツ語の授業で勉強したものです。ファシズムとは資本主義の一つの結末であるというのがホルクハイマーの言い分です。

19世紀のドイツの状況などは高校の時に勉強されたと思います。19世紀に入ってドイツは急激に工業化を押し進め、ヨーロッパでも一流の工業国となりました。しかしその結果、国内で貧富の差が拡大し、金持ちと貧乏人の生活の間に著しい落差が生じてきました。そのために貧乏人は同じドイツ人である金持ちの人をねたむようになったわけです。また同じ時期1922年にソビエト共和国連邦が成立し、マルクス主義的革命史観が広く伝わり、最下層の民衆が蜂起して金持ち層を倒して新しい国家を作るというの歴史の教えるところだとする共産主義の考え方が広まりました。

ドイツは連邦国家ですから、国がまたばらばらになる可能性が出てきました。そこでヒットラーを中心としたナチスはその金持ちと貧乏人の対立を無くす方法をとったのです。貧富の差が同じ民族同士対立を生んでいるのはまずい、そこで同じゲルマン民族だという点でドイツをくくって対立を無効にしたのです。そしてドイツの民衆の怒りの矛先をユダヤ人に向けさせたのです。同じ民族なのだから対立はやめよう、ゲルマンの民族は優秀なのだから、ゲルマン人のみの国家を作ったら、最高ではないか。それまでドイツはユダヤ資本に握られており、ユダヤ人を殲滅したら、ユダヤの資本がドイツ民族に返ってくる、と喧伝し、ゲルマン民族至上主義の国家を描き出したのです。

つまり、ファシズムとは資本主義経済が発展し、貧富の差が拡大していく過程で、歪みを埋めるためにもう一度民族主義を打ち出したものといえます。貧富の上下間較差に伴う対立を民族の上下間格差に移し替えてしまったのです。そのためにアウシュビッツの大虐殺が当時のドイツにあった民族主義によって肯定されたのです。
日本の状況を考えるとより分かりやすいと思います。1929年の世界大恐慌以降、日本でも経済が著しく傾き、民衆は貧しい暮らしを強いられました。そこで当時の日本政府が考えた施策は、民衆の怒りの矛先を政府にではなく、アジアに向けさせたのです。日本にはもう土地がない、だから満州に行けば良い暮らしが出来る。アジアを「解放」すれば大和民族を頂点とした五族が共和できるとして軍国主義を邁進していったわけです。

また、エーリッヒ・フロムというドイツの思想家が「自由からの逃走」などで言っているのは、1920年代、第一次世界大戦に負けたドイツに、ワイマール共和国という自由な国家が生まれました。主権在民・成年男女による普通選挙・国民の基本的権利、労働権の保障などを盛り込んだワイマール憲法を持つ当時としては先進的な民主的な国家です。つまりそれまでの封建的な社会から、個人が個人として独立している民主主義が確立されたのです。しかしそのために個人がそれまで民族や郷土にアイデンティティーを求めていたのが出来なくなり、大変「不安定」な立場に置かれることになったのです。

人間というものは自由を渇望するものであるが、実際に自由になると今度は「個人主義」という孤立に堪えられなくなって不自由な環境を求めたがるというのがフロムの主張です。実際に当時のドイツ人は自由なワイマール憲法と民主的な議会制がありながら、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を歓迎したわけです。
ファシズムの成立には人間が元来もつ他人と同じもの、同じ行動に流れていくという群れ意識が強く働いていると言えます。

私のホームページのどこの言葉が検索にひっかかったのか分かりませんが、私はよく「ファシズム的状況」という言葉を学生時代使っていました。私の学生時代にオウムによるサリン事件がありました。国内に仮想敵を作り、民衆の不安を煽ったうえで、国家が全面に出てくるという手法は戦前と同じです。また北朝鮮を必要以上に危険な国家としてマスコミを使って宣伝し、日米による対北朝鮮を想定した軍事共同演習など軍拡に走るのも同様に反対の声を上げていくべきことだと考えます。

やれやれ

本日、私のクラスの生徒が自宅にやってきた。
各自野菜やらうどんやら、ポン酢を持参してきた。
自宅の5畳半の部屋で12人で鍋を食べた。
その後写真撮って、プリンを食べてやっとさっき帰った。
普段授業中でもうるさいやつらゆえに、私の家でも遠慮はなかった。
しかしなんだかんだ言っても生徒の屈託のない笑顔を見るというのは、教員にとってなによりもの幸せである。

「立場」?

昨日、30日に発売されたマックOS9を購入し早速入れ替えてみた。パワーPC専用なので、動作が素早く快適である。私のパソコンはマックOS10には対応していないので、アップデートはこのOS9が最後になりそうだ。

マル共連という共産「趣味」者向けのホームページの掲示板に私が過去に作っていたページを探している輩の投稿が載っていた。
http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/
マスク&サングラスのおじさんが完全にチェックしているというのに、私の個人情報につながるアドレスを書くのは止めて欲しい。

下記の投稿に関して:
学生という立場性の規定に関しては議論する必要がありますね。そもそも「自由な」学生の立場というものはありえません。そのなかで学生という立場の捉え方に関して他者と差異があるのなら、それはやはり議論によって補っていくものであって、「人間関係が悪くなる」ということで逃げる種類のものではありません。大学や学生というものの現日本社会における規定性に関しては、私自身も結構考えましたし、ホームページの資料にも載っているはずです。そして勿論、そうした「現実」に規定された今日の学生像を前提として話はしているつもりです。そうした現実の社会構造から規定されない学生像についてうんぬん議論することは無駄であると考えます。つまりN.Hさんのおっしゃる「一致点は見つけにくい」ということを前提にして、その先の「相違点」を越えて「妥協点」を探っていく作業を結構やってきた気がします。何を伝えたいのか私自身既に大学という現場を離れているのでよく分かっていません。


99/11/01 23:08:32 N,H
さらにつっこみ

自分というと、自己同一性identityなんて言葉もあり ますが、先生の場合は自己規定とでも言った方がいいかもしれませんね。例えば、学生とはこうするべきであるとの理念が前提にあって、「自分は何者であるか」と問う事は、その理念に自分を一体化させる事であると。つまり、学生はこうすべきであるというルールを自分で自分に課するという事ですね。
ですが、あまり自分のルールにこだわりすぎると人間関係が悪くなる気がします。「学生はこうあるべき」というのは、いろいろな人がそれぞれの立場から違う事を言っているので、一致点が見つけにくいと思います。それ以前に、日本人の大多数が自分は何者であるか問わないのだとすれば、それを問う事自体が既に集団 からはみ出している事になるのではないでしょうか。それこそ「ヤバイ人」です。

質問に答えて

「で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。そこが話の分れ目だ。」というのは私の卒論にある通り、戸坂潤というマル哲の学者の言葉です。早稲田の中央図書館に戸坂潤全集があるので覗いてみてはどうでしょうか。私の卒論のあとがきに書きましたが、私自身の立場性というものへのこだわりのあらわれです。

確か、2年位前にN.Hさんには言ったことがあるかと記憶してますが、私がこの言葉を多用するのは、戯作者の寺山修司のことが頭にあるからです。昔30年くらい前、ベトナム戦争の頃、寺山修司が新宿で通行人にインタヴューを行いました。

「あなたは米軍の攻撃をどう思いますか」
「あれはひどいねえ」
「では枯葉剤の使用はどう思われますか」
「話にならないねえ。人間をどう思ってるんだ」
「最近の学生運動の高揚はどうお考えですか」
「あれもポリシーがないねえ」
とのやりとりの後に、寺山は「では、あなたはいったい何者ですか」と質問を加えました。そうするとほとんどの通行人は「いえ名乗るほどのものではありません」とか「単なるサラリーマンです」「通りすがりのものです」といって逃げたそうです。

つまりほとんどの通行人は一見もっともらしいことを言っても、行動には決してつながらない空虚なことを吐くだけだったのです。やはり行動につながるためには一体自分とは何者なのか、そこをはっきりさせなくてはいけません。

今、高校教師だから、ベトナム戦争に対しては授業の中で戦争の危険性を訴える。いやそれ以前に労働者なのだから、労働運動の中で反戦運動を作っていく。今学生だから、大学の中で、運動を創っていく。やはりそのような現在の立場性に根差して発言をしないとそれは単なる机上の空論になってしまいます。

エンゲルスのいい言葉があったではないですか、手元に資料がないのですが、「経済学者は単に経済分析をしていればいいというものではない。行動してこそ真の経済学者なのだ」というような言葉がありました。自分の立場性を分析しこだわるからこそ逆に運動の方向性も見えてきます。まあ、それがノンセクトラジカル的な考え方なのですが、戸坂潤の言葉もその点を要約したものです。

ちょうど去年の夏に、N.Hさんにも来てもらった秋の3地下祭の事前打ち合わせのレジュメのフロッピーが見つかりました。その一部が上記レジュメです。何となく分かっていただけるでしょうか。
また御連絡ください。

 

99/11/01 23:04:55 N,H
質問

いきなりですいません。
先生はよく『で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。そこが話の分れ目だ。』という言葉を引用しますが、これはどう言う意味なのですか?