今朝の東京新聞朝刊に、昨年の水泳界を席巻した英スピード社の「レーザーレーサー」に追いつけ追い越せと、ミズノやデサントなどの国内企業の競争開発の模様が報じられていた。新しい国際基準に合わせ、すでに「レーザーレーサー」の素材を研究した日本メーカーが新製品を開発し、国内大会でも日本新をマークしているそうだ。
高度経済成長期の自動車メーカーの開発競争のようなニュースである。一定の規制がある中でのスペック競争は日本メーカーの得意とするところなので、近いうちに「レーザーレーサー」を凌駕する国産水着が現れる日も近いであろう。
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「寮追い出しは違法」
本日の東京新聞の夕刊のコラムに、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏の「寮追い出しは違法」と題したコラムが掲載されていた。
現在ニュースになっている派遣労働者の切り捨てを象徴する工場隣接の寮は、安い賃料による福利厚生の一環の社員寮ではなく、一般の相場の家賃を支払った賃借関係にあり、解雇・雇い止めによる強制的な寮の追い出しは違法であるというのが趣旨である。ひどいケースでは長野県松本市で一般に3万3千円で貸し出している物件を派遣労働者に6万円で貸していたケースもあるようだ。
湯浅氏は派遣労働者から様々な名目で金を吸い上げ、挙げ句の果てには、景気変動の波すらも個人の責任に還元しようとする社会のあり方そのものに批判を投げかけている。
「生きる手法~格差と貧困を超えるために」
本日の東京新聞朝刊に、姜尚中東大大学院教授と作家雨宮処凛さんとの「生きる手法~格差と貧困を超えるために」と題した新春対談が二面にわたって掲載されていた。姜氏は戦後日本社会が山谷やあいりん地区などの寄せ場労働者、在日朝鮮人や三井三池闘争での炭鉱労働者など難民を連綿と作り出す社会であったと論じる。一方で雨宮さんは数々の運動を踏まえ、現場から声を上げることで社会は変わる、そして、資本の論理による分断や競争から解放されるような場を作り出すことが大切と述べる。最後に雨宮さんと姜氏は次の言葉で対談を締め括る。先月読んだリサイクルショップ店長松本哉氏の主張とよく似ている。
雨宮:渋谷や新宿で、トラックにスピーカー乗せて音楽をかけ、みんなで踊りながらデモをやっています。五百人で始めると沿道から人が加わり、倍になる。何の意味があるんだろうと言う人もいるけれど、そういう光景を突然路上に出現させること自体が重要だと思う。
姜:日本はこの二十年で都市がこんなにきれいになったけれど、そこに人々を沸き立たせるようなものが途切れて久しい。若者の鼓動が聞こえない。ソウルに行くと、地下鉄に物売りがくる。ニューヨークだと「おれがホームレスになったのはこういう理由だ」と演説をぶつ人がいる。日本は細かいところで順法意識がものすごく強い。僕は食えない人は勝手に物を売ったりとかしていいと思う。社会にもの申すことを根っこから刈り取って無菌状態にしてしまうと、社会が自家中毒を起こし、ひどい結果になります。
本日の東京新聞朝刊
本日の東京新聞朝刊の4コマ漫画を読み、朝から不愉快な思いをした。他人を見下して笑いを取るという相も変わらず不快な内容である。
本日の夕刊
本日の夕刊の作家星野智幸氏のコラムが目を引いた。「右傾化」、そしてその延長としての「自由経済礼賛」の起源が1999年にあるという彼の指摘は共感できる。1995年の阪神大震災とオウム事件によって社会の不安が増大し、警察の活躍を鼓舞する番組が乱発され、それらを囲い込むように「国家」が法的に前面に現れだしたのがちょうど1999年辺りだったと思う。
来年は2009年だが、1999年の日記に私は次のようなことを書いている。
「1999年は日本の右傾化元年だと記憶することにしている。右傾化とは、国旗国歌法や通信傍受法を成立させガイドライン改定を行なうといった出来事だけでなく、自己を何か曖昧で集団的なものに委ねることが本格的に始まった動きを指す。オウム真理教の代わりに、誰もが納得でき言い訳の立つものに帰依しようとしている。そして政治がそれにお墨付きを与える」
当時の私は、「何か曖昧で集団的なもの」が「日本」であり、ナショナリズムが沸騰して全体主義的な暴走を始めることを危惧していた。
けれど右傾化十年目を迎える今の社会を見渡せば、日本社会がいかに壊れているかばかり目立ち、国に「誇り」を持つどころではない。
今から思えば、十年前に起こっていたのは、「国権の発揚」だったのだろう。それまでの主権在民を尊重する姿勢をかなぐり捨て、国家が権力をあからさまに振るい始めたのだ。九〇年代の停滞を一気に変えてくれるかもしれないと期待して、小渕政権や小泉政権に帰依した結果、国民は国の経済に奉仕する奴隷と見なされた。「日本」に身を委ねれば委ねるほど、隷属させられ、搾り取られ、使えなくなれば捨てられる。
この状況を一気に打開してくれるカリスマを求めるような真似はもうやめにして、来年こそは自分たちで変える意思を持とうではないか。この十年をさらに悪い形で繰り返さないためにも。
